校舎の片隅で見た夢

種田和孝

第一章 中学一年生

 桜の季節、中学校の入学式。体育館の壁は紅白の幕で飾られ、壇上には礼服姿の人たち。僕は真新しいブレザーの制服に身を包み、新入生の席に着いていた。

 この中学校には市内三つの小学校から生徒が集まってきている。同級生になるのはどんな生徒たちだろう。これからの三年間、楽しく過ごすことが出来るだろうか。館内の張り詰めた空気を肌で感じ、僕の期待は大きく膨らんだ。

 程なく入学式は終了し、僕たちは担任の先生に先導されてそれぞれの教室に移動した。次はクラス別にオリエンテーション、今後の日程や注意事項の説明。しばらくの間は学力検査、身体測定、運動能力測定などと各種検査が続くとのことだった。そして、長々とした話の終わりに先生は言った。今日はこれから全校で放課後になると。その言葉に僕は思い立った。香澄の所へ行ってみよう。

 二年生の教室へ向かう間、僕は胸の高鳴りを感じ続けていた。ようやく、また同じ学校になった。香澄はどうしているだろう。今から時間はあるだろうか。学校の案内をしてもらいながら、以前のように話をしてみたい。そんなことを考えながら、僕はどことなくフワフワするような気分で香澄の教室へ向かった。

 教室を覗いてみると、すでにホームルームは終わっていたらしく、あちらこちらで二年生が雑談を交わしていた。そして奥の方に香澄の姿。僕は「香澄」と呼び掛けた。その瞬間、室内が静まり返った。香澄も僕に気付いた模様。しかし、香澄は僕を見詰めるばかりで、全く動こうとしなかった。一呼吸の後、室内に訝しげなざわめきが広がり、香澄は僕から目を逸らした。

 その時だった。見知らぬ男が近寄ってきた。男は僕のネクタイに目を遣ると、「一年生かよ」と吐き捨てた。

「おい。一年生が先輩を呼び捨てかよ。香澄なんて馴れ馴れしいんだよ!」

 男はいきなり僕の胸倉を掴むと、僕を突き飛ばした。突然の出来事に僕は呆気にとられた。廊下の壁に激しく背中をぶつけ、そのままへたり込んでしまった。

 男が手を伸ばしてきた。僕はとっさにその手を掴んで寝技に引き摺り込もうとした。男が反射的に身を引いた。僕は足の裏で男の顔を蹴り飛ばし、引っ繰り返りそうになった男を仰向けに押し倒して馬乗りになった。

 僕としては男を押さえ付けるつもりだった。しかし、男が拳を振り回し始めたために、否応なく殴り合いになってしまった。男の鼻からはわずかに鼻血。男は仰向けに押さえ付けられた状態で闇雲に殴り掛かってくるばかり。その拳はほとんど空を切っていた。

 悲鳴と叫び声。「先生を呼んでこい」という怒鳴り声。男の顔と頭に僕の平手と拳が数発当たった所で、僕たちは周囲の二年生たちに取り押さえられた。

 男は手当てのために保健室へ、僕は尋問のために校長室へ。校長室で待ち受けていたのは校長先生と担任の先生、そして見知らぬ先生。見知らぬ先生が早速説明を求めてきた。

「僕と二年生の安田香澄は幼馴染です。その安田を名前で呼んだら、いきなり知らない奴に『先輩を呼び捨てにするな』と怒鳴られて、思い切り突き飛ばされたんです」

 すると、見知らぬ先生は椅子に踏ん反り返り、高圧的な口調で言った。

「中学生になったんだから、先輩は先輩として扱わなきゃ駄目だろう」

 その言葉に僕は食って掛かった。

「授業中でもないのに、なぜ幼馴染を名前で呼んではいけないんです。それなら逆に、なぜ上級生は見知らぬ赤の他人の下級生を呼び捨てにするんです。それに、僕と安田は同時に生まれたんです。『学年が違うのだから、いつでも敬語を使え』なんて絶対に間違っている」

 そして、これまで何年にもわたって考え続けてきたことを怒鳴った。

「年の始まりは一月じゃないか! 僕と香澄は同い年だ! 秋から学年が始まる国だってあるじゃないか! 学年の始まりなんて適当に決められているだけだ! 学年が四月からじゃなかったら、僕と香澄は同級生だった! 何が『先輩は先輩』だ! 僕たちの関係を他人が勝手にでたらめに決めるな!」

 僕の怒りに、先生たちの表情が強張った。

 気後れなど無かった。大人との怒鳴り合い、睨み合い、周囲から浴びせられる罵声のような掛け声。そういうものには慣れている。言いたいことがあれば、自分の口からはっきりと言え。それが大人たちに真っ先に教えられた事柄だった。

 僕が睨み付けると、見知らぬ先生は踏ん反り返っていた姿勢を正した。僕は深呼吸をして気を静めた。

「先に手を出したのはあいつです。僕は自分を守っただけです」

 その後、先生たちは説教じみた言葉は一切口にせず、淡々と僕に経緯を尋ねてきた。僕も冷静に一つ一つ答えていった。

 取り調べも終わりと思われた頃、校長先生が尋ねてきた。

「先程、西野君は『同時に生まれた』と言いましたね。それはどういう意味ですか」

「僕たちは数分違いで誕生日が変わってしまったんです」

 僕たちはこの街の同じ病院で生まれた。香澄は四月一日。僕は四月二日。日付を跨いで、差は三分。

「同時とはそういう意味です。学年が四月一日と二日で分けられるのは知っています。でも、どう考えても変です。たった三分の差なのに、なぜそれが一年の差になるんです」

「それが社会制度だ」と見知らぬ先生が断言した。

「それなら、それがただの順番ではなく、上下関係になってしまう理由を教えてください」

 先生たちは誰も答えてくれなかった。

「早生まれの二年生を全員、同い年として扱っていいですか」

 見知らぬ先生が「いや……」と言い掛けて、口を閉ざした。

「もう、いいです。小学校の先生も教えてくれませんでした。だから、僕は自分で調べました。勝手に制度を作り、そこに理由の無い上下関係を作る。奴隷制度や人種差別と同じです。これは差別です」

「君独りでそんなことを考えたんですか」と校長先生が驚いたように尋ねてきた。

「はい」と僕は頷いた。

「儒教という……」と校長先生は言い掛けて、ウーンと唸った。

「生まれの順序は上下関係という考え方もあるんだ」と見知らぬ先生が続けた。

「そんなことは知っています。それならなぜ、学年が同じだと対等になるんです」

 見知らぬ先生もウーンと唸ってしまった。しばらく沈黙が続いた後、校長先生がおもむろに「この件については少し考えさせてください」と話を締め括った。

 取り調べが終わって校長室を出た瞬間、僕は思わず香澄の姿を探してしまった。しかし期待に反し、廊下には誰の姿も無かった。

 最悪の初日。期待に胸膨らんだのはたったの数時間。嫌な疲労感に包まれながら、僕は通学路を家へ向かって独り歩き続けた。

 中学生が馬鹿げた挨拶をするのは知っていた。そんな光景など、街中でいくらでも見られた。そのたびに僕は嫌悪感を覚えた。

 中学校では下級生が上級生に服従している。小学校で僕の上級生だった人たちまで中学校に入った途端にそうしている。何かが間違っている。中学校入学が迫るにつれて、僕は強くそう思うようになった。

 そんなある日、僕はある本の挿絵を目にした。腕組みをしながら仁王立ちする農場の主人。その前に跪く奴隷たち。どこかの国の奴隷制度。それが答だった。

 家に帰り着くと、母が「目の下はどうしたの」と声を掛けてきた。言われてみれば、左目の下あたりにヒリヒリと鈍い痛み。鏡で確かめてみると、わずかに赤く腫れていた。どうやら、あの男の拳が当たっていた模様。興奮のあまり、僕は全く気付いていなかった。

 夕食が終わろうとする頃、僕はふと、香澄の家に顔を出してみようと思った。平日の夜に行くのは禁じられているが、さすがに香澄も気にしているだろう。しかし、父が説明を求めて解放してくれなかった。

 その夜は中々寝付けなかった。記憶と思考が駆け巡るのを止められなかった。

 

◇◇◇

 

 記憶に残っている限りの昔から、僕はいつも香澄と一緒にいた。互いの家は歩いて一分。家族ぐるみの付き合い。僕たちは、とある地方都市で同時に生まれた。

 僕たちが初めて引き離されたのは幼稚園に入園した時だった。香澄は年長組、僕は年中組。僕には意味が分からなかった。その頃でさえ、僕たちが同時に生まれたという事実を僕は明確に理解していた。先生が勘違いしているのだと思い、僕は必死に説明した。しかし、先生は僕の拙い主張に耳を貸してくれなかった。

 何も説明しない。頭ごなしに命令する。善し悪しに関係なく、一番目立つ者を叱る。先生は金切り声を上げるだけの、言葉の通じない怪物だった。そんな生活は苦痛以外の何物でもなく、幼稚園からの帰宅後に香澄と遊ぶことだけが僕の楽しみとなっていた。

 その年の秋、香澄が小学校の見学に行くことになった。前夜、僕もそのつもりでいそいそと準備をしていると、僕は来年だと父は言った。僕たちは学年が違う。これは仕方がないのだと。僕は裏切られたと感じた。

 六歳が迫った三月、香澄は赤いランドセルを買ってもらっていた。その頃までには、僕も香澄も説明を受けていた。四月一日生まれを早生まれ、四月二日生まれを遅生まれと呼び、それを境に学年が変わる。なぜそうなるのか全く理解できず、僕は食い下がった。しかし親は、規則だからと言うばかりだった。

 六歳の四月、香澄が小学校に通い始めた。僕は香澄と同じでありたかった。香澄が学校で勉強するのなら、僕も同じ勉強をしたかった。そして幼稚園に行かなくなった。幼稚園に行けと何度叱られても拒否した。無理やり連れていかれても、幼稚園をこっそり抜け出して自宅近くの公園まで戻り、香澄が帰ってくるのを独り待ち続けた。

 結局、僕は幼稚園を辞めることになった。その代りに、父は僕に小学生向けの通信教育を受けさせてくれた。毎日午前、家で独り小学校の勉強をし、午後学校から帰ってきた香澄と一緒に遊んだり同じ勉強をしたりするようになった。

 七歳の四月、僕は小学校に入学した。毎朝、香澄と一緒に登校するようになった。午後は、僕が先に帰ることもあれば、香澄と二人で帰ることもあった。

 学校には兄弟姉妹が大勢いた。学年の異なる幼馴染同士もたくさんいた。先生たちも理不尽なことは言わなかった。そのため、僕が香澄のクラスに行って「香澄」と名前で呼んでも、それを咎める者などどこにもいなかった。

 小学四年生の四月、僕たちは街のスポーツクラブに通い始めた。僕は柔道教室、香澄は水泳教室。僕たちは週三日、学校が終わると一緒にクラブへ向かうようになった。その頃から毎週末、僕たちはどちらかの家に泊まったりするようになった。香澄の両親は「うちには息子がいないから」と、僕を可愛がってくれた。

 小学五年生の三月、僕は在校生として卒業式に出席した。壇上には一人ずつ順番に卒業証書を受け取る卒業生。香澄は中学校の制服を着て、校長先生の前で丁寧にお辞儀をしていた。卒業式が終わり、帰宅のために校門の所まで行くと、香澄と香澄の両親が僕を待っていた。お父さんは「一緒に写真を撮ろう」と言った。

 小学六年生の四月、僕は香澄のいない学校に通い続けていた。小学校と中学校への通学路は途中までは同じ。しかし、僕たちが一緒に登校することはなかった。僕は私服にランドセル、香澄は中学校の制服に学生鞄。何となく悔しかった。それを契機に僕はランドセルをやめ、スポーツバッグで学校に通うようになった。

 香澄と顔を合わせる機会もほとんど無くなった。香澄はスポーツクラブを辞め、バドミントン部に入部。朝も夕も休日までも部活動。夏休みのような長期の休みでさえも部活動。時間が全く合わなくなった。

 一方の僕は、平日は毎日、それに加えて土曜日にも柔道教室に通うようになった。その頃から僕の身長は急激に伸び始め、それに伴って体力も付いてきた。そのため、一般向け教室を中心に参加させてもらうようになっていた。

 一般向け教室には大学生から年配の人までがいた。その多くは体を動かしたいという有段者だったが、中には格闘技を身に付けたいという初心者もいた。小学生は僕以外におらず、皆が僕に稽古を付けてくれた。

 皆、桁違いに筋力が強かった。僕と背丈が変わらない人でも、腕力には格段の差があった。師範の先生は、筋力は自然に付いてくるので今は技を磨くようにと指導してくれた。皆、僕を大人として扱ってくれた。僕は嬉しかった。大人に混ざって普通に練習し、皆の雑談にも大人の顔をして加わった。

 小学六年生の三月、僕の卒業式。式には母がやって来た。香澄の卒業式には僕がいたが、僕の卒業式に香澄の姿は無かった。記念写真に写っているのも僕と母の二人だけ。でも、意気消沈はしなかった。

 僕と香澄の間には小さい頃からの約束があった。

 僕が香澄を守る。香澄は先に行って僕を待つ。

 この一年、僕は独りで勉強を続けてきた。これでまた香澄の勉強の相談にも乗れる。柔道も頑張ってきた。これで十分に戦える。そして僕は決意した。もはや、真の意味も分からずにキスなどをしていた頃とは違う。中学生になったら香澄にはっきりと意思を伝える。香澄を僕の彼女にする。

 なのに、いきなり出鼻をくじかれた。

 

◇◇◇

 

 入学式翌日の午前、今頃一年生は実力テストを受けているはずだった。そんな時間に僕は父と共に校長室にいた。室内には、僕たち以外に校長先生と教頭先生、あの男とその両親。見ると、あの男は目の周りと頬骨の所が赤く腫れていた。

 早速、昨日の経緯の確認が行なわれ、その中で僕は男の名前が森川であることを知った。先生たちは事件を目撃した二年生たちにも話を聞いたようだった。その結果、森川が加害者と認定され、僕は過剰防衛気味と注意を受けた。僕と森川の怪我の具合から、今回は正式な暴行傷害事件とはせず、森川の謝罪で決着を図ることになった。最終的に、森川は不貞腐れた態度で「悪かった」と謝った。

 放課後、部活動説明会が開かれた。僕の第一希望は柔道部。その紹介に立ったのは三年生の山中さん。山中さんとは一年間、柔道教室で一緒だった。以前と変わらぬスポーツ刈り。知った顔を見付けて、僕は少し嬉しくなった。ところが、各部の説明を聞いていく内に迷い始めた。面白そうな文化部がいくつかある。どこも体験入部歓迎と言っている。物は試しに登録期限まで色々な所を回ってみよう。結局、僕はそう決めた。

 説明会が終わったのは、いかにも中途半端な時刻だった。手持無沙汰に、僕は女子バドミントン部の練習を見に行った。

 体育館では二十名以上の女子部員がスマッシュの練習を続けていた。シャトルを力強くコートに叩き付ける者。何となく弱々しい者。あらぬ方向に飛ばしてしまう者。そこには香澄の姿もあった。香澄のスマッシュは弱々しい方。ネットに引っ掛けたり、ラインの外に打ち出してしまったりしていた。

 今日こそは話をしたいと僕は強く思った。しかし、部活動はまだまだ続く模様。仕方が無く、僕は校門の所で香澄の下校を待つことにした。

 夕暮れが迫り、下校を促す校内放送が流れ始めた頃、ようやく香澄が姿を現した。見ると、香澄の脇には見知らぬ二年生の男。僕が「一緒に帰ろう」と香澄に声を掛けると、香澄よりも先に男が近付いてきた。

 妙な存在感のある男だった。逞しいとは言えないが、意識的に胸を張っているのか、立ち姿はかなり立派。男は僕の前に立つとフンと鼻を鳴らし、にこりともせずに言った。

「話がある。西野は上級生の安田さんを目上として敬うべきだ」

 呆気にとられた。あんな事件の直後に被害者に掛ける言葉だろうか。

「お前は俺と香澄の関係を知らないのか?」

「幼馴染の関係を学校に持ち込むな。僕たちは上級生で、西野は下級生だ。安田さんと西野が対等になると、上級生と下級生が対等になって、皆が混乱する。それから、上級生をお前と呼ぶな」

「お前は誰だよ」

 男は山崎と名乗った。

「山崎には関係ない。赤の他人のことに口を出すな」

「僕は学級委員として、上級生を代表して言っているんだ」

「山崎は昨日のことをどう思っているんだ」

「西野がきちんとしないから、あんなことになったんだ」

「ふざけるな。わざわざ学級委員が出てきて、それが被害者に言うことか」

「とにかく学校の秩序を乱すな。上級生にきちんと挨拶しろ」

 僕は呆れた。「香澄。行こう」と声を掛けた。

 暗くなり始めた道を、僕は香澄と二人並んで歩き始めた。僕が昔のように黙って手を差し出すと、香澄はわずかにためらう様子を見せた。それでも僕が手を出し続けていると、香澄は僕の手を握った。

 歩き始めてすぐに、僕は香澄の身長に気が付いた。僕自身も伸びたと思っていたが、しばらく見ない内に、香澄もそれなりに成長していたらしい。多分、女子の中では高い方。香澄の背丈は僕に近かった。

 香澄は怪我の具合を尋ねてきた。しばらくしたら腫れも引く。僕がそう答えると、香澄は溜め息をついた。僕はいたわりの言葉が続くのを期待したが、香澄はそのまま黙ってしまった。その後、僕は香澄に学校の様子を色々と尋ねた。

 程なく、別れる所に差し掛かった。僕が立ち止まると、香澄も歩みを止めた。胸の鼓動が速くなった。意思を伝えるかどうか迷った。告白に相応しい雰囲気とは言えないが、山崎のような男まで出てきた以上、簡単にでも気持ちを伝えておいた方が良いのではないだろうか。

 僕が決意した時だった。僕よりも先に、香澄が「ちょっといい?」と話を切り出した。

「いいよ」

 繋いでいた手を香澄が離した。

「これからは、私を先輩と呼んでほしいんだけど」

 思考が停止した。

「だから、これからはいつも安田先輩と呼んでほしいんだけど」

 頭の中も体全体も硬直した。僕たちは対等だとあちらこちらで主張してきたばかりだったのに、梯子を外されるとはこういうことなのか。しかし、不意を打たれて声にならなかった。

 香澄は「それじゃ」と言うと、足早に去っていった。

 

◇◇◇

 

 一週間が経った。香澄は僕を避け、僕は裏切り者に掛ける言葉を見付けられなかった。

 森川と殴り合った件について、先生たちは僕に何も言わなかった。ほとんどの同級生も僕を見てヒソヒソ話をするだけで、僕に近寄ってこなかった。同じ小学校から上がってきた者たちでさえ、僕を遠巻きにするようになっていた。

 今日は部活動の登録期限。放課後、僕は柔道着の入ったスポーツバッグを手に柔道場へ向かった。

 柔道場では部員の着替えが終わろうとしていた。顧問の橋本先生はすでに柔道着姿になり、練習が始まるのを待っていた。そして良く見ると、部員の中に森川の姿。まさかこんな所で出くわすなんてと僕は驚いた。

 驚きの表情を浮かべる森川を無視して先生に入部希望を伝え、僕も早速柔道着に着替え始めた。森川の顔の腫れはかなり引き、僕の顔はすでに元通り。皆は僕と森川の件を知っているに違いないが、誰も特に何も言わなかった。

 練習の前に全員の自己紹介があった。部員は全員男子。三年生が三名、二年生が二名、一年生は僕を含めて四名。僕以外の一年生は皆、初心者だった。

 準備体操と筋力トレーニングが終わり、練習は初心者と経験者に分かれた。初心者は先生に付いて受け身の練習。経験者は立ち技の打ち込み。そして程なくして、初心者が道場の隅に退いた。いよいよ乱取り。僕は最初の相手に敢えて森川を選んだ。「始め」という先生の掛け声。僕は森川に向かっていった。

 学年が一つ違っても、僕と森川の体格にはほとんど差が無かった。また、森川は身のこなしが固かった。小学生の時から柔道を続けてきた僕とは異なり、おそらく中学校に入ってから始めたのだろう。

 組み合ってすぐに背負投で森川を投げた。森川が怒気をあらわに立ち上がった。再び組み合うなり、僕はすぐに森川を投げ飛ばした。

 森川は弱かった。実力差がある場合、こんな状態になるのは珍しくない。組み合うなり、すぐに背負投、袖釣込腰。徐々に森川の動作が鈍くなってきた。それでも、僕は容赦なく投げ続けた。

 とうとう、森川の足腰が立たなくなった。僕は仰向けに寝転がる森川に跨り、激しい呼吸を続ける森川に伸し掛かり、首に手を掛けて絞め始めた。

 その瞬間、「それまで」という、ゆったりとした大きな声が掛かった。先生が僕を見ていた。「はい、交代。相手を変えて」と先生は言った。

 その後の乱取りで組んだ三年生は、さすがに僕とは体付きが違った。腕力があり、足腰も強かった。一方、技の切れでは大人と練習してきた僕の方が上で、何とか互角に戦うことが出来た。

 僕は先生とも乱取りをした。今度は僕が投げられ続ける番。僕は先生の技を必死に防ぎながら、何とか隙を見付けて技を繰り出した。しかし結局、先生をぐらつかせるのが精一杯。先生は最後に一回だけ、わざと僕に投げられてくれた。

 乱取りが終わると、寝技、整理体操と続き、そこで一日の練習は終わった。四時過ぎに始まって、終わりは六時前。六時半の最終下校時刻には、まだ時間が残っていた。また、部活動の練習は柔道教室のものと大差なく、疲れ方にもそれほどの違いは無かった。

 僕が着替えを始めると、そこに先生が声を掛けてきた。先生は僕の柔道歴に興味を持った様子だった。

 先生はひとしきり僕や他の一年生と言葉を交わすと、柔道場を去っていった。すると、待っていたかのように、部長の山中さんが話し掛けてきた。

「西野は随分強くなったな」

「いえ」と僕は謙遜した。「山中さんは初段を取ったんですね」

 山中さんは嬉しそうに「去年の秋に」と答えた。

「西野は今も柔道教室に通っているの?」

「ええ。土曜の夕方だけですけど。柔道部の練習は平日の放課後だけですよね?」

「うん」と山中さんが頷いた。「たまに土日に練習試合をするけど、基本的には」

「ところで、柔道部は先輩後輩にうるさいんですか?」

 その瞬間、皆の動作が止まった。

「そんなことはないよ。逆に緩い方だと思うよ。柔道部では、例えば廊下ですれ違う時は、学年に関係なく軽く会釈することにしているんだ」

「上下に関係なく?」

「そう」と山中さんはあっさり肯定した。

「でも、そこの森川は上下にうるさいみたいですけど」

 上級生の間から「おい」と、僕を牽制する声が上がった。

「森川。俺と香澄は同じ時間に同じ場所で生まれた幼馴染だ。ちょっとした違いで、学年が分かれただけだ。何か文句あるか」

 誰も声を発しなかった。森川も黙って視線を足元に落としていた。

 

◇◇◇

 

 森川は柔道部を辞めた。そして、校内で僕とすれ違うたびに、背を丸めて視線を下げ、黙って僕に道を譲るようになった。同時に、僕に関する噂が学校中に広まった。柔道部員が森川の態度の理由を皆に説明したところ、それに尾ひれが付いてしまったらしい。一年生から三年生まで、皆が僕に意味ありげな視線を向けてくるようになっていた。

 その頃には、同級生の僕に対する態度も明確になっていた。僕が話し掛ければ返事が戻ってくる。しかし、向こうからは話し掛けてこない。気難しい、近寄りがたい、怖いもの知らず。それが僕に対する評価のようだった。その上、他の小学校から上がってきた者たちが僕の授業態度に不満を漏らすようになっていた。

 そんな中、柔道部員だけは森川に批判的だった。柔道部員の暴力は、場合によっては部の存続に関わる。そのため事件の直後、皆は森川に暴行の理由を問い質したらしい。結局、学校で僕に普通に接してくれるのは柔道部員ぐらいになっていた。

 ある日、部活動のために柔道場へ行ってみると、突然「森川」という言葉が聞こえてきた。見ると、二、三年生が柔道着に着替えながら話し込んでいた。僕が「森川が何?」と声を掛けると、皆は顔を見合わせた。

「西野はまだ森川のことを怒っているの?」と山中さんが言った。

「不愉快は不愉快ですけど……」

「今まで黙っていたけど、いずれ西野の耳にも入るだろうから……。森川は安田のことが好きなんだ。そこに西野が現れたものだから、あんなことをしてしまったらしい」

「なぜ黙っていたんですか」

「西野の怒り方が半端じゃなかったからだよ。だから、余計なことは言えなかったんだ」

 山中さんに代わって二年生が説明を続けた。

 香澄は全校の女子の中でも可愛い方。その上、誰に対しても嫌な顔をしない。そのため、学年を問わず香澄を気にしている男子は多い。森川は一年生の時から香澄と同じクラス。香澄と仲が良い。森川は周囲に「安田には手を出すな」と言い触らしている。

 僕はようやく学校中からの視線の意味を理解した。

「僕が安田と森川の邪魔をしていることになっている訳?」

 二年生が小さく頷くのを見て、僕はカチンときた。

「幼馴染の顔を見に行っただけなんだよ。どこが悪いの?」

「いや。悪くない」と山中さんが慌てたように否定した。

「俺たちが言っている訳ではないんだから」と二年生が追随した。

 ついでにと思い、僕は二年生に尋ねた。

「今、安田と森川はクラスではどうしている?」

「俺は別のクラスだから良く知らないけど、今まで通りにしているみたいだよ」

「この前、二年生の山崎という奴に絡まれたんだけど、あいつも森川の仲間?」

「仲間というか……、山崎は学級委員で、いつもリーダーぶっているんだ」

 そこに山中さんが割り込んできた。

「いいか、西野。相手が手を出してくるのなら別だけど、西野の方からは手を出すなよ。部活以外で下手に柔道の技を使ったら、大変なことになるんだからな」

「それは分かっています」と僕は答えた。

 

◇◇◇

 

 四月下旬の日曜日。僕は母に、香澄の家へ菓子のお裾分けを持っていくよう命じられた。香澄に出くわすのが嫌で渋っていると、「この前智和が一人で食べてしまったお菓子はあちらから貰った物なのよ」と母は言った。

 香澄の家に行くと、お母さんが出迎えてくれた。僕はお裾分けを渡し、すぐに立ち去ろうとした。しかし、お母さんは帰してくれなかった。

 リビングにはお父さんがいた。僕が「こんにちは」と軽く会釈すると、お父さんは笑顔で「よう、久し振り」と言い、目の前のソファーを指差した。

 見慣れた顔、聞き慣れた声。香澄のお父さんとお母さんは言わば第二の両親だった。父とお父さんは同い年で、東京の有名な私立大学の同級生。大学卒業後、ここの隣町に本社を置く大企業に就職し、それぞれ結婚し、家を建て、ずっと近所付き合いを続けている。

「入学早々、二年生と喧嘩したんだって? あんまり、やりすぎるなよ」

 僕はばつが悪くなり、肩をすくめた。

「西野の奴が、学校で色々な話を聞かされたと言っていたよ」

「校長先生と色々話したようですけど、僕には何も言わないんです」

 あの日、父は非常に機嫌が悪く、ほとんど口を開かなかった。

「俺にも覚えがあるが、中学校の上下関係は本当に馬鹿げているよ。街中で大声を上げて最敬礼している連中がいるだろう。俺もああいうのは嫌なんだが……」

 学校としては、生徒に最低限の形を身に付けさせなければならない。ところが、自分の頭で考えようとしない生徒は、知らぬ間に極端に走ってしまう。とにかく生徒が幼稚すぎて、先生たちは困っている。そんな所に、たまに僕のような生徒が入ってくる。そのたびに先生たちは頭を抱えてしまう。

「どの学年にも大人びた生徒が数人はいるらしい。西野は校長先生に、『大人と子供が本気で衝突すると大変なことになるから、大人の方が自重してほしい』と言われたんだってさ。悪くない側に自重を求めるなんて変な話だと西野は怒っていたよ」

 そんな話をしていると、お母さんがプリントを持ってきた。見ると、香澄の数学のテスト。点数は七十五点。

「随分間違いがあるだろう。一年生の三学期の期末試験なんだが、これで良いのだろうかと思って。香澄は、これでも学年では上位だと言うんだ。満点は一人もいなかったらしい」

「智ちゃんは今も先の勉強を続けているの?」とお母さんが訊いてきた。

 僕は「ええ」と答え、ボールペンを借りて、香澄が間違った問題の解答を余白に書き始めた。簡単だった。暗算で解けてしまったものもあった。

 僕が解き終わると、お父さんは用紙を手に取り、「そうだよな……」と呟いた。

「学年全体のレベルが低いのかな……」

「ええ。別の小学校から入ってきた連中のレベルが凄く低いんです。学力にしろ、物の考え方にしろ。それが全体の足を引っ張っています。僕も嫌になってきているんです」

「そうか……。以前のように智和君と一緒に勉強した方が刺激になって良いのかな……」

 その言葉を耳にした瞬間、「絶対に嫌です」と僕は拒絶した。お父さんとお母さんが驚いた顔をした。

「何かあったのか?」とお父さんが尋ねてきた。

「事件の次の日、香澄は僕に『私を常に先輩と呼べ』と言ってきたんです。僕は殴られても仕方がないんだそうです」

 お父さんが「本当か?」と声を上げた。僕は抗議のつもりで大きく頷いた。

「それに、香澄は森川と付き合っているんだそうです」

 お父さんとお母さんが同時にエッと声を上げた。

「僕は幼馴染に一言『香澄』と声を掛けただけなんですよ。なのに学校では、僕が二人の邪魔をしていることになっています。実際、香澄は今も森川と仲良くしています。その上、『上級生を敬え』です。香澄にはもう関わりたくありません」

 僕はそう言い残してすぐに席を立った。

 

◇◇◇

 

 翌日、月曜日の放課後。教室で荷物をまとめていると、そこに香澄が現れた。残っていた同級生がざわつく中、香澄は僕を外に連れ出した。

 香澄は前に立って無言で廊下を歩き続けていた。すれ違う生徒たちの訝しげな視線を浴びながら、僕は黙ってその後を付いていった。香澄は下駄箱で土足に履き替え、校舎の外に出た。どうやら、向かう先は中庭のようだった。

 ベンチに並んで腰を下ろすと、香澄は早速釈明を始めた。

「私は誰とも付き合っていないから」

「森川と付き合っているという噂を聞いた」

「森川君たちが勝手に言っているだけだから」

「なぜ、そんなことを言わせておくんだよ」

 香澄は答えなかった。

「森川はクラスではどうしている?」

「普通にしているけど……」

「普通って……。香澄も同級生も、あいつのことを何とも思わないの?」

「クラスメートだから皆、森川君に気を遣っているだけで……」

 その無神経な言葉に、僕は呆気にとられた。

「香澄には加害者と被害者の区別が付かないの?」

「でも先生は、『きちんと謝ったのだから、元通りに受け入れましょう』って……」

「順番を間違うなよ。加害者の前に、被害者に気を遣えよ」

 香澄は曇った表情のまま、何も答えなかった。

「お父さんには何と言われた?」

「森川君とは縁を切れって」

「当たり前だよ。あんな奴と仲良く出来るのがおかしいんだ」

 香澄は力なく項垂れた。僕は話題を変えることにした。

「先輩後輩の話はどうなった」

「それは、お父さんに色々言われた……」

 一度上下関係を作ってしまったら、それまでの対等な関係は二度と戻ってこない。会社でも友人同士が直接の上司と部下になってしまったら、それまでの付き合いは終わる。仕事とプライベートを分けるなんて器用な真似は誰にも出来ない。関係は一人で決めるものではない。僕に拒絶されたら、話は決裂して終わりだ。

「お母さんには『それでは人の縁が切れてしまう』って」

「それはそうだよ。学校の外で、他に誰かがいる時はどうするんだよ」

 香澄は何も答えなかった。

「はっきりしろよ」

「皆は先輩後輩の立場をきちんと守るべきだと言っている」

「分かった。人の縁を切る。それが香澄の答なんだな」

 その時、僕はふと気付いた。僕たちの方を眺めながら言葉を交わしている者があちこちにいる。さっさと話を切り上げよう。

「これからは俺を『西野さん』と呼べ。そうすれば、俺も『安田さん』と呼んでやる。もう幼馴染は終わりだ」

 僕がベンチから立ち上がろうとすると、香澄は僕の腕にしがみ付き、無理やり僕を引き戻した。

「智和君は知らないと思うけど……」

 この学校にはいじめがある。香澄が入学してしばらくした頃、人付き合いの悪さを理由に、同級生の女子がいじめを受け始めた。いじめは徐々にエスカレートし、最終的にその女子がいじめの首謀者に反撃して、いじめは治まった。その後、その女子は別の学校に転校していった。香澄はその様子を目の当たりにし、男子とも女子ともなるべく仲良くするようにしてきた。

「皆に合わせて、なるべく目立たないようにしていれば、いじめられないから」

 初耳だった。思わぬ話だった。

「この学校にはいじめがあるの?」

「智和君は入ったばかりでしょう。知らなくて当然だよ。それに、智和君がいじめられることもあり得ない。一年生が二年生を立てなくなるまで投げ飛ばして首を絞めたって、物凄い噂になっているんだから」

「勘違いされると困るから言っておくけど、あれは大人の柔道教室では普通だから」

 ようやく、香澄の話を理解できたような気がした。上下関係の強要と目立つ者へのいじめ。二つの問題が絡まり合っている。香澄の担任は信用できない。被害者への配慮を抜きにして加害者を元通りになんてあり得ない。

 その時突然、「何をやっているんだ」という声が聞こえた。見ると、入学式の日に校長室で真っ先に僕を批判した教員、生活指導の高橋先生が肩を怒らせて近付いてきていた。

「揉め事を起こすんじゃないぞ」

「揉めてなんかいません。話をしているだけです」

 先生は僕たちの前に立つと、疑わしげに「この前の話か」と訊いてきた。

「そうです。先生はこの前の話をどう思っているんですか」

「……君は事情を訊かれただけで、叱られたりはしなかっただろう」

 その瞬間、僕はふと思い付いた。

 香澄の担任が当てにならない以上、僕が二年生に直接警告するしかない。事を大きくすればするほど効果がある。大勢の先生の前で警告すれば、誰も香澄に手出しできなくなる。

 香澄は目立つと困ると言う。しかし、僕も香澄もすでに全校の注目の的。現に今も、遠巻きに様子を窺う視線の数は増え続けている。そもそも、こんな場所に僕を連れ出したのは香澄。野次馬を避けるために立ち去ろうとした僕を引き留めたのも香澄。それならもはや、ためらう理由はどこにも無い。

「先生。安田のクラスの連中と僕が話し合う場を作ってください」

 先生は「ん?」と訝しげな表情をした。

「安田のクラスの連中は僕たちに『幼馴染をやめろ』と言っています。あいつらにそんな口出しをされる理由はありません」

「君たちのことは君たちの好きにすれば良い」

「好きにすると、安田がいじめられます。もしそうなったら、僕は絶対に許しません」

 先生は僕を睨みながらしばらく何かを考えた後、「分かった」と言った。

 

◇◇◇

 

 数日後の放課後、僕は担任の先生に付き添われて香澄のクラスへ向かった。

 教室にはクラス全員が揃っていた。窓際の席に緊張気味の香澄、真ん中あたりにおどおどした様子の森川、廊下側の席には自信満々の山崎。さらに、教壇には香澄の担任、後ろの壁際には校長先生と教頭先生と高橋先生。

 僕は香澄の担任に促されて教壇に立ち、事前に考えておいたことを話し始めた。僕と香澄の関係。校長室で話した年齢と学年の話。そして僕は言った。

 赤の他人に丁寧に接するのは当然である。しかし丁寧と尊敬は違う。学年の上下は人間の価値の上下を意味しない。そもそも、早く生まれたのは本人の努力の結果ではない。学年はただの順番である。上級生と下級生は主人と奴隷ではなく、対等な赤の他人だ。自分への尊敬を要求するなんて、逆に軽蔑に値する。

 僕の話が終わると、香澄の担任が「安田さんからも何かあるのでしたね」と促した。皆の注目が集まる中、香澄は席から立ち上がり、少しためらった後に早口で話し始めた。

「私は誰とも付き合っていません。変な噂を流さないでください。幼馴染に普通に話し掛けるのもおかしなことではないと思います。暴力も間違っています。そういう人には関わりたくありません」

 そう言うと、香澄はすぐに腰を下ろしてしまった。

 僕たちの話が終わり、香澄の担任が意見を募った。すかさず学級委員の山崎が手を挙げ、指名されるよりも先に席から立ち上がった。

「西野君は何も分かっていません。学校には学校のルールがあります。学校はそのルールを身に付ける場所です。西野君の言う通りにすると、接し方や口のきき方など、全てが変わってしまいます」

 まさに優等生まがいの発言だった。山崎は得意げに言葉を続けた。

「西野君は安田さんと同い年だと言っていますが、それでも上下関係があるのは確かです。例えば、もし二人が双子だったら、姉と弟だったはずです」

 この男は何も考えていない。僕はすぐさま反論した。

「双子でも同じです。生まれの数分違いに何の意味があるんです。なぜ、ただの順番が上下関係になってしまうんです。これだけ話を聞いても、山崎君はまだ主人と奴隷の関係を作りたいのですか」

「上級生を君付けで呼ぶな!」と山崎が怒鳴った。

「山崎君が君付けで呼ぶから、それに合わせているだけだ!」と僕は怒鳴り返した。

 その瞬間、「二人とも」という香澄の担任の声が響いた。わずかな間の後、再び山崎が口を開いた。

「僕には西野君が何にこだわっているのか、全然分からない」

「こっちは下級生になりたくてなった訳ではない。無理やり下級生にされただけだ。だから、人として自分が山崎君よりも下だとは思っていない。そう言っているんだ」

「それなら、西野君はどうしろと言うんだ」

「大人同士は歳や身分に関係なく、『さん』付け、丁寧語だ」

「西野君は今、『さん』付け、丁寧語じゃないだろう!」

「だから、山崎君に合わせているだけだから!」

 再び、「二人とも」という香澄の担任の声が響き渡った。すると突然、山崎が「多数決で決めよう」と言い出した。僕は呆気にとられ、「多数決?」と訊き返した。

「多数決が集団のルールだ」

 人の心を多数決で決める。あまりの馬鹿馬鹿しさに、僕はすぐさま宣言した。

「ちょっと待て。相手を尊敬するか軽蔑するかは、自分で決めることだ。もし多数決で今まで通りになっても、俺は考えを変えない」

「何のためのルールだ」

「もし安田も多数決に従わなかったら、仲間外れにしていじめるのか?」

 すると、山崎は自信たっぷりに言った。

「それこそ西野君には関係ない。二年生の中でいじめが起きたら、二年生で解決する。安田さんは僕たちが守る」

「でたらめを言うな!」と僕は怒鳴った。「去年、この学年でいじめがあっただろう。被害者が学校から出ていって、加害者が残っただろう。出ていくとしたら加害者に決まっているじゃないか。被害者を守れなかった奴が何を言っているんだ。偉そうなことを言う前に、加害者を追い出して、被害者を呼び戻せ!」

 僕は香澄の担任に向き直った。

「先生も変です。加害者は加害者です。『謝罪したから元通り』なんてあり得ません」

「森川君のことですか? 彼は君に謝り、十分に反省しています。やり直しのチャンスを与えるのが学校です。いつまでも加害者ではありません」

 唖然とした。僕はここまで敢えて黙っていたのに、この担任は森川の名前を口にした。僕が問題にしているのはもっと一般的なこと。この担任は話をごまかそうとしている。

「先生も山崎君と一緒です。元通りと言うのなら、去年のいじめの被害者を呼び戻すべきです。呼び戻せないのなら、元通りなんてあり得ないと認めるべきです」

 香澄の担任は露骨に嫌な顔をした。しかし何も答えなかった。

「この前ここに来た時、僕は突き飛ばされて殴られた。なのに、今日ここに来てみると、何も無かったことにされている。皆、加害者を大切にしている。誰も被害者のことを考えようとしない。だから、いじめが無くならないんだ!」

 教室が静まり返った。ふと見ると、香澄が青ざめ強張った表情で僕を見詰めていた。

 静寂を破ったのは山崎だった。

「とにかく決を採ろう。先輩後輩関係を西野君の言う通りにした方が良いと思う人」

 クラスの四分の一ぐらいがすぐさま挙手した。小学校で見掛けた顔も多かった。

「今まで通りで良いと思う人」

 だらだらと半数以上が手を上げた。見知らぬ顔がほとんどだった。僕が思わず「嘘だろう……」と呟くと、教室の奥の方から「下級生にタメ口をきかれるとむかつくし」という言葉が飛んできた。その瞬間、こいつらは駄目なのだと僕は悟った。

「何も変わっていないのに、何も無かったことにして元通りなんてあり得ない。とにかく、安田をいじめたら俺が許さない。それだけは覚えておいてほしい」

「さっきも言っただろう。安田さんは僕たちの仲間だ」と山崎がうそぶいた。

 僕は溜め息をついた。うんざりした。

 討論会が終わり、僕は校長室に連れていかれた。校長先生と教頭先生、高橋先生と僕。校長先生は皆に椅子を勧めることもなく、真っ先に僕に尋ねてきた。

「今日の話は西野君が考えたのですか? それとも誰かと話し合ったのですか?」

「僕独りで考えました。あと、先生が儒教と言われたので、それも調べてきました」

「そうですか……」と校長先生は呟いた。「西野君の主張は理解できます。現に、私は西野君に対して『ですます調』で話しています。これが大人同士の話し方です。また、尊敬も他者が強要するものではありません」

「『俺を尊敬しろ』と言う大人なんて、僕は見たことがありません。中学校の先輩後輩関係は間違っています」

「西野君のような生徒ばかりではないのです。柔道教室では大勢の大人の中に君一人でしょう。逆に、中学校では大勢の生徒の中に少数の大人です。だから、どうしても形を強制する必要があるのです」

 僕は校長先生を見据えて、事前に調べておいた成果を見せ付けた。

「でも儒教では、『目上を敬い、目下を慈しむ』ですよね」

 校長先生は一瞬、言葉に詰まる様子を見せた。

「……その通りです。本来、礼儀も道徳も片務的なものではありません」

「でもあいつらは、それを『目下を貶める』に捻じ曲げています。しかも、そんなでたらめを多数決で無理やり押し付けてきました。あいつらには儒教なんて関係ありません」

「分かりました。私は西野君の主張を認めます。一般社会の普通のやり方に従う。そのようにしてみてください」

「山崎だけは許せません。あの男はこの前も、『俺たちに挨拶しろ。お前は殴られて当然だ』と脅してきました。あの男がいる限り、暴力は絶対に無くなりません」

 高橋先生が驚いたように口を挟んできた。

「いつの話だ」

「入学式の次の日です。今度あの男が絡んできたら、森川と同じように叩き潰しますから」

「駄目だ」と高橋先生は強く否定した。

「初日は暴力。次の日は脅迫。今日は『むかつく』。あいつらは暴力団です」

「暴力団ではない。腹立ち紛れに強く出すぎるな。森川が君を避けているのは、我々が命じたからだ。元通りではないんだ。山崎にも同様の注意をしておく。だからもう、山崎のことは放っておけ」

「それから、安田をいじめる奴がいたら僕は容赦しませんから」

 高橋先生は溜め息をつくと、うんざりしたような口調で言った。

「君にあれだけ言われたら、安田に手を出そうとする奴なんてもういない」

 再び校長先生が口を開いた。

「これからは、生徒だけで問題を解決しようとせず、すぐに私たちに申し出てください」

 高橋先生が何かを言い掛けた。しかし、校長先生はそれを無視して話を続けた。

「ところで奴隷制度と差別問題ですが、それは違います。義務教育からは自分の意思で離脱できますが、奴隷制度からは出来ません。差別は嫌悪に基づく区別ですが、学年はそうではありません。組織内の上下関係について言えば、生徒の皆さんには指揮命令系統の論理を理解してほしいのです。それは権限と責任の論理です。主従の論理ではありません」

 校長先生の言葉に、僕は息をのんだ。

「西野君に指摘されて、私も改めて調べてみました。義務教育の段階でも、学力や能力で学年を決める国が結構ありますね。世界的に見れば、年齢と学年が入り混じっている方が普通なのでしょうし、今回のような問題など起こりようがないのでしょうね」

 先生たちの間で教育談義が始まった。その傍らで、僕はショックを受けていた。

 僕は幼稚園の時から香澄と僕自身を守るために闘ってきた。しかし、言い負かされたと感じたのはこれが初めてだった。奴隷制度と差別問題。あれだけ調べて考えたのに、あっさりと論破されてしまった。

 教育談義が途切れた所で、僕は一つだけ確認した。

「去年のいじめの件は、今はどうなっているんですか」

 その瞬間、校長先生の表情が曇り、声から力強さが消えた。

「あれは私たちにとって痛恨事です。西野君の言う通り、もはや元には戻せません。私も気になるので、定期的に向こうの校長先生に様子を尋ねてはいるのですが……。一方で、やり直せるケースがあるのも事実です。西野君もそれは理解してください」

 そして校長先生は、「終わりにしましょう」と宣言した。

 

◇◇◇

 

 あの討論会以降、香澄は山崎と行動を共にするようになった。見掛けるたびに、香澄は山崎に朗らかな笑みを向けていた。その一方で、香澄は僕を避けていた。学校では完全に無視。僕の家にも全く姿を現さない。

 考えてみれば、香澄は僕の問いにほとんど答えていない。討論会の多数決でも、どちらにも挙手していなかった。

「幼馴染に親しげに接するのは変ではない」

 それは親に言わされたこと。

「私を常に先輩と呼べ」

 それが香澄の本音。

 子供の頃からの記憶。僕たちの約束。大切にしていたのは僕だけだった。

 

◇◇◇

 

 同時期、僕に嫌悪感を示す同級生が現れ始めた。

 僕は参考書や問題集、通信教育の教材など使って二年生の勉強をしていた。一年生の一学期にもかかわらず、理科などは二年生の後半を勉強し、数学に至っては二年生の課程が終わろうとしていた。そんな僕にとって、小学校の復習を織り交ぜながら進む授業は苦痛以外の何物でもなかった。

 授業中、僕が勝手に自習をしていると、一部の同級生が「ずるい。皆と同じ勉強をするべきだ」と声を上げた。一部の教師まで「自信過剰。自習をやめろ」と命じてきた。異なる在り方を認めない排他性。自分がレベルアップするのではなく、他者にレベルダウンを要求する厚かましさ。そういうものに僕はうんざりした。

 僕は言い掛かりを付けてくる同級生たちを罵った。僕には執拗に「授業を受けるべきだ」と言うくせに、不真面目な生徒には何も言わない。自分たちも真面目に勉強に取り組んでいない。人の足を引っ張るな。

 僕は教師たちを問い詰めた。様々な学力の生徒がいる中で、敢えて授業のレベルを下に合わせる理由を説明しろ。僕に予習を禁じるのなら、復習のような授業もやめ、完全に教科書通りに進めるべきだ。悪平等はやめろ。

 たびたび授業が混乱するようになり、僕は校長室に呼び出された。

 僕は校長先生に訴えた。僕が連中の授業中の私語を注意したのが始まりであること。連中が自習を批判するのは仕返しのためであること。教師が努力と怠慢を同列に扱っていること。小学校ではこんな経験はしなかった。僕が勝手に自習していても、先生たちは黙認してくれていた。同級生たちも僕の実力を理解していた。

 そして僕は、主要教科の授業中は別室で自習したいと申し出た。校長先生は、そういう話は一学期の中間テストで結果を出してからにして欲しいと言った。

 僕は中間テストで全科目満点を取り、再度校長先生に訴えた。

「別室登校には理由が必要なんです」と校長先生は言った。

「僕の隣のクラスの女子だって保健室登校しているじゃないですか」

「あの生徒には理由があるんです」

「先生は、中間テストで結果を出せと言いました。僕は結果を出しました」

「そんなに授業を受けるのがつらいのですか?」

「小学校の復習ですよ。出来て当たり前です。それに、僕に上の学年の勉強が出来ないはずはないんです。現に、数分違いで上級生になった安田がやっているんですから。僕が小学校で自習を認められていた理由は……」

「それは私も聞いています」と校長先生は遮った。

 校長先生は何かを考え込むと、ゆっくりと口を開いた。

「私は先生方に『自習でも良い』と言っているのです。『西野君が積極的に授業に参加したら、それこそ逆に授業のレベルが上がりすぎてしまうだろう』と。それでも、『自習をされると、他の生徒が不満を漏らす』と主張する先生がいましてね……」

「授業に参加したら邪魔、参加しなければ自信過剰。僕は教室の置物です」

 校長先生の顔に驚きの表情が浮かんだ。

「つまり、いかなる形での勉強も許さない教員がいるのですか?」

「はい。複数名」と僕は力を込めた。「もう、授業には出席したくありません。別室での自習を認めてもらえないのなら、僕は義務教育から離脱します」

「その前に、私がその教員たちを指導します」

「いいえ。もういいです。僕は義務教育から離脱します」

 校長先生は溜め息をつくと、きっぱりと言った。

「分かりました。別室登校の理由を作りましょう」

 

◇◇◇

 

 後日、僕は校長先生とスクールカウンセラーの勧めに従って検査を受けた。そして、僕は両親と共に校長室に呼び出され、自分が何者なのかを告げられた。

「突出しています。異常や障害の類いではありません」とカウンセラーの先生は言った。

 上位二パーセント強、四十四人に一人は「非常に優秀」に分類される。僕はその中でも上の方。しかも、そればかりではない。頭の回転の速さ。抜群の記憶力と言語能力。物事を深く考え、貪欲に知識を吸収し、自力でどんどん成長していく。

「だからこそ難しい」とカウンセラーの先生は言った。

 僕以外にも、道徳の捻じ曲げや悪平等を感じ取っている生徒はいる。事実、討論会の多数決でも、少なからぬ生徒が僕に賛同していた。しかし、大半の生徒は感じ取っているだけに過ぎず、僕ほど深く考えていない。衝突を恐れて、僕のように戦ったりもしない。

 一方、僕は本質を追究せずにはいられない。追究すればするほど、苛立ちが募り、怒りが増し、最後には暴発するように戦ってしまう。

 多分、時間の流れは平等ではない。外からの刺激や情報に敏感に反応し、内からも思考や意欲が湧き上がる。僕はそんな濃密な時間の中を生きている。多くの人は、そういうオーバーエキサイタビリティーという特性を持たない。そのため、そのような特性を理解することも出来ない。

「人前に立とうとする生徒自体は珍しくないのです」と校長先生は言った。

 例えば入学早々、生徒会役員に立候補し、全校生徒の前で演説するような一年生もいる。ところが、演説の内容は一年生なりのものか、大人からの借り物。姿勢も良く言えば融和的、悪く言えば迎合的。そういう所が僕とは決定的に違う。

「今は我慢するしかありません」と校長先生は言った。

 今の僕に戦い抜く力は無い。「奴隷制度や人種差別」などと的外れな主張をしてしまうのがその証拠。戦い続ければ、いずれ僕の方が潰される。

 世間は僕のような存在を知らない。知っても理解できない。現に、僕の実力に気付きながら「自信過剰」と言い放った教師もいた。だから、検査結果は漏らさない方が良い。

 もし適切な教育を受けていたら、僕は今頃さらに先の勉強をしていただろう。しかしこの学校では、そのような通常とは正反対の特別支援教育など行なえない。だから、主要科目の授業中は別室で自習したら良い。

「結局、何の役にも立たない結論ですが……」と校長先生は締め括った。

 確かに、ギフテッドと知ったところで何かが変わる訳でもなかった。

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