第二十六話 お互いの家族




 季節は再び巡り、大学院の後期も終わりにさしかかろうとしていました。私は試験勉強などで益々忙しくしていました。


 私がマテオのところに引っ越した方が二人の時間をもっと取れるというのは分かっていました。ロリミエの中心街にあるマンションの方が大学へもバイト先へも断然便利です。


 マテオやレナトさんが私の外出先に迎えに来てくれる時もわざわざ叔父の家まで送ってもらうのも申し訳なくて、マテオのマンションへ帰っていました。


 ですから最近は叔父の家よりもマンション泊の方が断然多くなっていました。それでも私は完全に同棲することだけは二の足を踏んでいました。


 今まで散々世話になった叔父夫婦の家を出て行くのも悪い気がします。二人にはせめて卒業までは置いていて欲しいと伝えていました。


「キャスがマテオさんの家に越すのなら、寂しくなるけれど引き止めはしないわよ。喜んで送り出すわ。貴方たち、さっさと一緒になってもいいのじゃない」


 叔母の言う通り、私もそうしたいのは山々です。それでも、正式に将来を彼と共にするということはあまり実感できません。マテオが結婚するとしたらお相手はイタリア人か、イタリア語を流暢に話す人なのだろうな、と漠然と私は考えていました。いくら生まれも育ちもヴェルテュイユだとしても、マテオの体には生粋のイタリア人の血が流れているのです。


 マテオはナンシーのことはよく話してくれますが、他の家族の話はあまり聞かせてくれません。ロリミエ郊外の実家にはご両親と弟さんが住んでいるそうです。


 マテオが言わないのなら私も別に根掘り葉掘り詮索するつもりはありません。けれどイタリア人男性は、特に独身男性は母親との絆が強いものだとばかり思っていたのです。


 私の方はと言えばマテオにも家族の話をよくしていました。それでも彼と交際を始めてからの私は、彼が不在の時をわざわざ狙って帰省していました。例えばマテオが年末年始に実家に顔を出した時や、外国に出張した時です。


 彼のことですから私が実家に帰ると知ると、車で二時間の距離なら自分が送って行くと言うに決まっています。マテオの高級車で実家に乗り付けると小さな町ですからすぐに噂になるでしょう。両親はともかく、自動車修理工の兄は車の価値が一目で分かる筈です。


 両親は良くも悪くも田舎で堅実に生きている人間で、彼らの娘は既に結婚適齢期を逃しかけていると考えているのです。私が大学院に進学することでさえ、反対はしなかったものの、あまり良い顔をされませんでした。


 ですから、私の恋人に会うと両親は絶対に無言の圧力をかけてくるに違いありません。それならまだ良い方です。『式はいつ? 子供は何人?』などと不躾な質問をしだすと手に負えません。


 ある朝のことでした。私は出勤するマテオをマンションから送り出し、台所で片付けをしていました。その日は午後から講義が入っているだけで、午前中はレポートを書くのにあてるつもりでした。


 珍しく呼び鈴が鳴るのを聞き、最初は荷物が届いたのかと思いました。覗き穴から見ると年配の女性二人が扉の向こうに居ます。警備が行き届いているこのマンションですから、ペントハウス階まで上がって来られる人間は限られています。マテオの家族か知り合いに違いありません。


「お早うございます」


「マテオ エ クィ?」


 女性の一人は私の横を通り抜けてずかずかとマンションに入って行きます。もう一人の女性は流石に玄関に留まったままです。


「いえ、先ほどご出勤されました。あの、どちら様でしょうか?」


 マンションに既に踏み込んでいる女性が振り向きました。肩くらいまでの黒髪を綺麗にセットした、格子柄のスーツの彼女はいかにも有閑マダムという感じです。


「あら貴女、新人? それにしてもやけに若いのね。ああ、ラモナを手伝っているという彼女の娘さんでしょう」


「い、いえ、私は……」


 私は家政婦だと思われているようです。普段着のTシャツ姿ですから無理もありません。私が自己紹介するべきなのか迷っている暇もなく、彼女は言葉を続けます。


「今日はダウンタウンで用事があるからちょっと寄ってみたのだけど。留守ならしょうがないわね。あの子は全く、電話にも中々出ないわ、我が家にも顔を出さないわ、なしのつぶてよ」


 この女性はマテオのお母さまだと確信しました。自己紹介をするにしても、マテオさんとお付き合いをさせて頂いている、と言わない方が良さそうです。


「ルチア、平日に自宅に居る方がおかしいじゃないの」


「連日遅くまで仕事だって言うから朝ならもしかして、と思っただけよ。マリア、お手洗いに行きたいのなら確かそこの左手のドアよ」


「ええ、こちらです」


「助かるわ。遠慮なくお邪魔するわね」


 マテオのお母さまは台所を見て回っています。


「久しぶりにここに来たけれど何だか以前と随分印象が違うわ。あの子のことだから家具も調度品も何もかも全て黒と白で統一していたと思っていたけれど」


 私が少しずつ揃えたテーブルクロスや食器のことを指しているのでしょう。優しい色の花柄など、マテオの趣味とは大きくかけ離れています。大きな食卓の真ん中の一輪挿しと二人分向かい合わせに置かれている水色のランチョンマットに彼女は鋭い視線を向けているような気がします。


「ああコーヒーのいい匂いがするわね。一杯頂くわ」


「これは朝食の余りですから、新しくお入れしましょう。すぐにできます」


「いいのよ、これで。私たちもここでゆっくりお茶している暇もないから」


 マテオのお母さまとそのお友達にコーヒーを入れ、私がラモナさんと一緒に焼いたクッキーがあったのでそれもお出ししました。時間がないと言いながらお二人ともクッキーを出した分だけ全て平らげています。


「本当にもう行かなくては。今度の土曜日の午後には必ずうちに来るように息子に伝えておいて」


 マテオのお母さまは怒涛のように現れ、あっという間に去って行かれたのでした。


「あぁ、びっくりしたわ……」


 私はソファに倒れ込みました。心臓がまだドキドキしています。息をつく間もなく、そこで私の携帯が鳴りました。


「キャス、母が何の用だったんだ?」


 思った通り、マテオでした。


「マテオ、どうして? 貴方って千里眼でも持っているの?」


「いや、玄関の監視カメラに出入りする人間が映るようになっている」


「え、カメラ?」


「ああ、母と友人だろう? 何をしにきた?」


「平日の朝だけど、貴方がもしかしたら在宅中かもしれないと用事のついでに寄ってみただけとおっしゃったわ。すぐにお帰りになりました。それから土曜日の午後、必ず実家に顔を出して欲しいと貴方に伝えるようにおっしゃいました」


「キャス……土曜日は一緒に出掛けようと約束したじゃないか」


 私はあとレポートを何通か提出すれば夏休みに入ります。頑張ったご褒美としてこの土曜日はマテオが私をカジノに連れて行ってくれる予定でした。


「ご家族の集まりがあるのなら、私たちはまた今度にしましょうよ、マテオ」


「分かった……今週末行かなかったら母が来週から毎朝のように押し掛けてきそうだ」


 マテオがうなるような口調で渋々と同意しました。機嫌の悪さが電話口から伝わってきます。彼のお母さまに家政婦だと間違われたことは何となく言えませんでした。




***今話の一言***

マテオ エ クィ?

マテオは居る?


今回は遂にマンマ登場です。正にこの息子にしてこの母ありき!?

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