第40話『憧れの人の輪』

 一年生教室の廊下で起こった騒ぎは、はじめこそ大きな騒ぎになったものの、発見と連行が早かったためそれ以上大事にはならなかった。

 反省文提出を食らった才明寺は心底不満そうであり、俺としても才明寺の行動には驚きと頭痛と、俺のためであったことに嬉しく思えたけれど、それでもやっぱり生徒指導室に呼び出されるような騒ぎになってしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 だから俺は授業中に必死で、『反省文の書き方』を簡潔にまとめたメモを作成しそれを才明寺に渡した。才明寺はそのメモを握り締めて「三十分で終わらせてくるから!」と意気込んで生徒指導室へ向かったが、アイツの現国の水準を知っているせいかその言葉に不安しかなかった。

 俺はそわそわしながら才明寺が戻ってくるのを教室で待っているが、細江は帰る準備をしながら俺を見て笑う。

「そんな心配か?」

「心配にもなる。才明寺の中間の現国の点数知ってるか?」

 俺がそう呟くと、細江の視線は泳ぎ「あー……」と声を漏らす。わかるぞ、同じ気持ちだ。内心何度も頷きながらも、俺は肩をすくめる。


「まあ、心配ってのもあるけど……今朝のことは俺が原因みたいなもんだし。申し訳なさが勝ったっていうか……」

 正直現場に居合わせた細江にも申し訳ないと思っている。朝から才明寺と一緒に生徒指導室に放り込まれて……。反省文はなかったものの、あの部屋に入れられることは生徒にとって何より苦痛なことだということは、俺も実感したワケだし。本当にただのとばっちりだ。

 俺はもう帰る準備が出来ている細江を見て「細江にも悪いことしたな、ごめん」と言う。細江は困ったような、でもそれは照れ隠しであるような、そんな何とも言えない顔をすると俺から顔を逸らして言葉を練るように口をもごもごさせる。

「別に謝ってもらうようなこと、柵木にされてないし。というかそもそもあのバスケ部野郎があんなもん貼らなきゃこんなことにならなかったわけだし」

 そう言いながらごにょごにょと言葉を紡ぐけれど、徐々に言葉は小さくなる。ついに声は途切れて何とも気不味い沈黙が湧き始めた頃、細江は漸く俺に視線だけ向けて「また明日」とだけ言うと足早に教室を出て行った。

 ……何だ今のは。何だか俺まで何とも言えない恥ずかしさに襲われる。ずるずると姿勢を崩して机に突っ伏すと、どうしようもなく幸福感に浸されていく感覚に目を閉じた。


 根暗で、嘘つきで、大切なことは何も言ってこなかった自分。

 人の目を恐れ、『常人に見えないもの』を怖がった。

 視線を低くして、生きてるものも生きてないものも出来うる限り見ないようにしていた。

 もう全部諦めるのが楽なはずなのに、まだ変わりたいと思える自分に、正直な話をすると『有り得ないだろう』と思う気持ちは明確に存在した。

 俺自身何をどう変えたいのかわかってない癖に、漠然と『変わりたい』と考えるなんて、ダイエットしてますと言ってたまに五分程度汗もかかないような運動をしてダイエットをしている気になっている人間と同じだ。

 確固たる意志も目標もない。ただ『今とは違う何か』を求めていただけ。


 それなのに。

 自分を腫れ物のように扱うクラスメイトがいないことがまず幸運なのだ。

 特に親しくないから話したりしないことと、『あいつは小学校の時から誰もいないところに話しかけたり怒ったりして妙なヤツだから近づかない方が良い』と噂され無視されいないものとして扱われることとは天と地ほど差がある。向こうでは登校してきた俺に挨拶する人は限られていたけど、このクラスでは目が合えば誰かしらが「おはよう」と声をかけてくれる。その挨拶に、まだ慣れず声をかけられて口から心臓が出るんじゃないかってほど驚いてしまう。

 それだけでも大きな変化なのに、その上俺のことを気にかけてくれる人達がいる。

 俺のために怒ってくれる人がいる。

 家族でもないのに。

 何て恵まれていた環境なのだ。

 常春の国にでも来たんじゃないと思ってしまう。

 暖かく穏やかな学校生活。

 そりゃあ、堂土のように俺のことが気に入らないという人間はいるだろう。だけど、それ以上にこの場所は暖かい。


 ただやはり昨日の手紙を思い出すと、暗い気分になった。

 ……あれも、堂土だったのだろうか。

 これからもアイツとは衝突していくのだろうか。それだけが憂鬱だ。

 俺が机に突っ伏したまま大きく息を吐いていると、前の席で人の気配がした。

 細江の机のカバン掛けに竹刀袋のようなものが引っかかったままだったから、細江がそれを取りに戻ってきたのだろうかと顔を上げると、そこにはいたのが細江ではないことに驚く。

 勿論、才明寺でもない。


「どうしたの、何か疲れてるね」


 そう声をかけてきたのは貴水だった。

 てっきり細江だと思って顔をあげたから、そこにいたのが貴水で内心驚きすぎてすぐに声が出なかった。

 硬直する俺を、貴水は今朝のこともあり疲れていると思ったらしく「大丈夫か?」と怪訝そうな顔をするので何とか「大丈夫」と返す。けど本心は大丈夫じゃない。

 同じクラスではあるけれど、あまり話したこともない相手、しかもクラスの中心的な存在。そんなヤツが話しかけてきているのだ。緊張というか困惑というか。

 今まで話したときは才明寺がいたから、まだ平常心で居られた。

 でも一対一は無理だ。今朝だって、結局俺は大した喋ることができず、ずっと貴水が話すのを聞いているだけだった。

 一体何を話せば……。

 言葉が出てこず黙っているが、貴水は気にする様子もなく話し出す。

「今朝は本当に災難だったよな。柵木くんも生徒指導室呼ばれてたけどあの後は何もなかった?」

「えっと、まあ、何とか」

「中間終わって折角一息つけるって時なのにね。……なあ、柵木くん、今日はこの後時間ある?」

「え」

 貴水の言葉にそれ以上言葉が出てこない。

 何だ、その漫画やドラマでしか見たことがないような、人を何かに誘う言葉。それも男の俺から見ても格好良いヤツに言われると、こっちが物語の登場人物にでもなったような気分になる。

 でも、どうして、急に。それも俺に対して言ってるんだ。どうしてもこの状況に混乱する。

 俺の表情筋が完全に停止していることに気がついたのか、それとも気づいていないのか、貴水は自分の言葉の意図について話し出す。

「俺さ、前から柵木くんと話してみたいと思ってたんだ。それでさ、今日部活休みで男ばっか何人かでこれからちょっと出かけようってことになってたんだけど、柵木くんも一緒にどうかなって思って。たまにはクラス違うヤツともわいわいがやがやするのも楽しいと思うんだけど、柵木くんはそういうの苦手なタイプ?」

 そう言って柔和に笑う貴水。

 彼の言葉に俺は雷に打たれたかのような衝撃に襲われる。


 今、俺、クラスメイトの男子から遊びに誘われたのか。

 この俺が……!


 あまり驚きに言葉が出てこない。間抜けにも金魚のように口をぱくぱくさせてしまう顔は貴水の目にどう映っただろうか。

 わいわいがやがや、だと? 俺のこれまでの学生生活とは縁のなかった言葉だ。それが今、その輪に入る権利を得ようとしているのか?

 いやしかし、今は才明寺を待っているのだ。アイツが帰ってくるまで待っていなくては……。俺は才明寺の机に視線を向ける。貴水もそれにつられるように才明寺の机を見ると「ああ、稀?」と呟く。

「稀のこと、待ってるんだ」

「えっと、あー、うん」

「でも、すぐに戻ってこないんじゃないか。下校時間ぎりぎりまで粘るよきっと」

 貴水は苦笑する。

 才明寺は、貴水とは小学校からの付き合い、と言っていた。互いに歯に衣着せぬ言い合いに積み重ねてきた年月の厚みを感じていたが、貴水は当然才明寺の学力も理解しているだのろう。その推測に、一応『反省文の書き方』のメモを作った俺自身、それくらいかかるんじゃないのかと思っていた。

 とはいえ、置いて帰るのは忍びない。

 貴水はそんな俺に苦笑を浮かべて「稀には俺から言っとくよ」と言う。

「稀のヤツ、いつも柵木くん独占してるじゃん。たまに男同士で交流の輪を広げるのも良くない?」

 わいわいがやがや、の次は、交流の輪を広げる。これも俺には縁のない言葉だった。いざ、自分に対して使われて、心臓が踊るように跳ねるのがわかった。

 誰かに遊びに誘われたのは、いつぶりだろう……。

 才明寺を花火に誘ったけれど、俺からしたらあれは『遊び』ではなかったし。俺は緊張と高揚に襲われながらしどろもどろに言葉を吐く。


「あの、俺、口下手で……人見知りするから、そういう輪に入っても、その、空気悪くするかもしれなくて……迷惑、じゃないか?」


 折角の楽しい空気が台無しなったりしないだろうか。白けたりしないだろうか。

 それが不安だった。

 だけど貴水は、そんなこと心配してるの、と言いたげに笑い「大丈夫だって、俺と柵木くん以外に四人くらいいるけど、今日は顔と名前覚えるくらいで良いって。興味ありそうな話に混じれば良いし、興味なくても聞いてるだけでも良いし。交流のはじめはそういうもんじゃない?」と言ってくれる。

 ああ、そういう感じでいいのか。

 そう言われて気分が軽くなった。

 そうだよな、俺は『変わりたい』って思ってたんだ。願ってたんだ。

 人の輪に入って、話して、笑って、楽しいと思っても、良いんじゃないのか。そうなったら素敵じゃないか。

 俺は緊張で両手を握り込むと意を決して「よろしくお願いします」と貴水に返した。

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