ホタルに願いを込めて…… ⑤


****


 パン作りが終わってから、千藤家は愛美も含めて総動員で家の大掃除をして、翌日の何時ごろに純也さんが来ても大丈夫な状態になった。


 そして翌日の午後二時ごろ。準備万端整った千藤家の前に、一台の車が停まった。国産のシルバーのエスアールブイ車。

 その運転席から颯爽さっそうと降りてきたのは――。


「やあ、愛美ちゃん!」


「純也さん! いらっしゃい!」


 笑顔で片手を挙げた大好きな男性ひとを、玄関先で待っていた愛美も満面の笑みで迎えた。


 純也さんは大きなスーツケースと、これまた重そうなボストンバッグを持っている。愛美の荷物ほどではないにしても、男性にしては荷物が多い気がするけれど……。 


「愛美ちゃん、悪いんだけど車のトランク開けてもらっていいかな? 今ロックを外すから」


「えっ? ……ああ、はい」


 愛美は戸惑いながらも、彼のお願いを聞いた。


(……もしかして、まだ荷物が?)


 愛美がトランクを開けると、そこには信じられないものが積まれていた。


「これって……、バイク?」


「そうだよ。もう一台の僕の愛車。――愛美ちゃん、ありがとう。あと降ろすのは自分でやるから」


 純也さんが車から降ろしたのは、ライトグリーンの中型のオフロードバイク。

 愛美はバイクのことはまったく分からないけれど、純也さんの話では二五〇ccシーシーサイズらしい。


「これで、愛美ちゃんを後ろに乗せて山道とか走れたら楽しいだろうな……と思って積んできたんだ。……あ、ちなみに僕、大型二輪の免許持ってるから」


「へえ……、スゴいですね。なんかカッコいいです」


 愛美はそう言いながら、頬を染めた。思わず、バイクの後部座席で彼の背中にしがみついている自分の姿を想像してしまったのだ。


「――あらあら! 純也坊っちゃん、いらっしゃいまし! まあまあ、こんなにご立派になられて……」


 そこへ、多恵さんも飛んできた。家の中で家事でもしていたのか、エプロンを着けたままだ。


「多恵さんも、元気そうだね。急な頼みをしてすまないね。僕の部屋は空いてるかな?」


「はい、もちろんでございます! いつ坊っちゃんがいらっしゃってもいいように、ずっとそのままにしてございますよ。さあさ、坊っちゃん! お上がり下さいまし!」


 多恵さんはもみ手しながら、純也さんを家の中へと促した。


「……どうでもいいけど。多恵さん、僕のことを『坊っちゃん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかな? もう三十なんだけど」


 純也さんは困惑気味に、多恵さんに物申していた。

 いくら相手が元家政婦さんでも、アラサーの男性が「坊っちゃん」呼ばわりされるのは恥ずかしいんだろう。


「何をおっしゃいます! 私と夫にとっては、坊っちゃんはいつまでも坊っちゃんのままですよ。ええ、私はやめませんよ! いくら坊っちゃんのお願いでも」


「……ダメだこりゃ」


 やめるどころか、多恵さんの「坊っちゃん」呼びは余計にひどくなっている。もう意地なのかもしれない。


「多恵さんはきっと、いくつになっても純也さんが可愛くて仕方ないんですね。ほら、お子さんいらっしゃらないでしょ? だから純也さんのこと、自分の息子さんみたいに思ってるんですよ」


「はあ。そんなモンかね」


 愛美の意見に、純也さんは困ったように肩をすくめてみせた。

 善三さんと多恵さんの夫婦に子供がいないことは、愛美も去年の夏休みに聞いていた。それも、本人から聞くのは忍びなくて、佳織さんから聞き出したのだ。――多恵さんは昔、病気によって子供ができない体になってしまったんだ、と。

 だから余計に、昔自分がお世話をしていた、我が子くらいの年頃の純也さんのことを今でも息子のように思っているんだろう。


「純也さん、暑かったでしょ? お部屋に上がる前に、ダイニングで冷たいものでもどうですか? っていっても麦茶しかないですけど」


「悪いね、愛美ちゃん。ありがとう。じゃあもらおうかな」


「はい!」


 ――愛美はキッチンへ行くと、お客様用のグラスによく冷えた麦茶をぎ、「どうぞ」と言ってダイニングの椅子に座っている純也さんの前にそっと置いた。


「ありがとう。いただくよ」


「坊っちゃん、よかったらお菓子でも召し上がります? 確か戸棚に、頂きもののお饅頭が――」


 彼がお茶を飲み始めた途端、またもや多恵さんがもみ手しながら純也さんにすり寄ってきた。

 すかさず、純也さんが眉をひそめる。


「多恵さん、まだ家事の途中じゃないのかい? 僕に構わなくていいから、自分の仕事に戻りなさい」


「……あっ、そうでした! 私、まだ洗濯ものを干してる最中でしたわ! 失礼しました!」


 多恵さんはやっと自分のやりかけの仕事を思い出し、慌てて物干し場へ走っていった。


「まったく! 多恵さんは僕の世話を焼きたくて仕方ないんだな。もう子供じゃないのに」


「ふふふっ。とか言って純也さん、全然迷惑そうじゃないですよ」


 ブツブツ文句を言いながらも嬉しそうな純也さんの向かいに座り、愛美もつられて笑った。

 何だかんだ言っても、多恵さんにあれこれと世話を焼かれるのはイヤではないらしい。


「ん、まぁね。僕の母親は――珠莉の祖母ってことだけど、自分で進んで子育てするような人じゃなかったから、僕の世話はシッターの女性か家政婦だった多恵さんに押し付けてたんだ。だから僕にとっても、多恵さんは実の母親以上に〝お母さん〟なんだよ」


「……なんか信じられない、お金持ちって。自分がお腹痛めて産んだ子なのに、自分では育てようとしないなんて。子供に対する愛情ないのかなぁ」


「愛美ちゃん……」


 愛美は純也さんの話に、自分自身のこと以上に胸を痛めた。

 愛美の両親みたいに、我が子の成長を最後まで見届けられなかった親もいる。でも両親は、確かに最後まで愛美のことを愛してくれていたと思う。

 そして愛美も、両親のいない自分の境遇を「不幸だ」と思ったことはない。亡くなった両親と同じくらい、施設の園長や先生たちに愛情を注いでもらっていたから。


「愛美ちゃん……、君が怒ることないよ。僕は別に、母のこと恨んじゃいないし、もう大人だから気にしてもいない。『ああ、そういう人なんだ』って思ってるだけでね。ただ、多恵さんには申し訳ないと思ってるから、できるだけ彼女の思い通りにしてあげたいんだよ」


「純也さん……」


「でも、愛美ちゃんは僕の代わりに怒ってくれたんだよね? ありがとう」


「いえ、そんな。お礼を言われるようなことは何も!」


 愛美はただ、純也さんの境遇にちょっと同情的になっていただけだ。自分は同情されるのがキライなくせに――。


(わたしって勝手だな)


 でも、純也さんはさすが大人だなと思う。子育てをほとんど放棄していたような自分の母親を恨まず、「そういう人なんだ」と達観しているなんて。


「ううん、愛美ちゃんは優しいね。今まで僕が出会った女性の中には、そんな風に怒ってくれた人はいなかったから。一人もね」


「そうなんですか……」


 その女性たちにとって大事だったのは、純也さんが〝辺唐院家の御曹司〟という事実だけで、彼がどんな境遇で育てられてきたのか、どんな気持ちでいたのかはどうでもよかったんだろう。


「――さて、この話題は終わり。そろそろ部屋に行くよ。そうだ、愛美ちゃん」


 膝をパンッと叩いて立ち上がった純也さんは、荷物を取り上げると愛美に呼びかけた。


「はい?」


「明日、僕に付き合ってもらえるかな? 久しぶりに渓流けいりゅう釣りに行きたいんだ。よかったら、君もやってみる?」


「えっ? はいっ! ……あ、でもわたし、釣りなんかやったことないですけど」


 愛美が育った〈わかば園〉は山の中だし、釣りに行った経験もない。はっきり言ってド素人だ。そんなド素人が、簡単に釣りなんてできるものなんだろうか?


「心配ご無用。僕が教えてあげるし、〝ビギナーズラック〟って言葉もあるからね」


 彼はおどけながら、愛美の心配を払拭ふっしょくしてしまった。


「じゃあ……、お願いします!」


「うん。じゃ、上に行こうか」


 ――愛美は純也さんと一緒に、二階へ。彼の部屋は、なんと愛美の部屋のすぐお隣りだった!


「ここが純也さんのお部屋……」


 そこは、愛美が使わせてもらっている部屋とはだいぶ違う空間だった。

 シンプルなクローゼットとベッド、そして机と椅子があるだけ。照明器具も他の家具もシンプルで、本当に、眠るか仕事をするかだけの部屋という感じだ。


「うん。殺風景な部屋だろ? 特に、ここ数年はあまり来てなかったから、あんまり荷物は置いてないんだ」


 そう答えながら純也さんは荷物を下ろし、机の上にノートパソコンを置いて電源に繋いだ。


「それ……、お仕事用のパソコンですか? でも今休暇中なんじゃ……」


「そうなんだけどねぇ。どうしても急がなきゃいけない案件だけは、こっちにメールで送ってもらうことにしたんだ。社長って大変だよ」


「そうなんですか。じゃあ、あんまりわたしとは遊べないですね」


 愛美はガックリと肩を落とした。彼が休暇でここに来ているなら、一緒に過ごせる時間もたっぷりあると思ったのに……。

 

(でも、お仕事があるなら仕方ないか。ここに来てくれただけで、わたしは嬉しいもん)


「そんなことはないよ。仕事は夜になってから片付けるし。遊べる時は思いっきり遊ぶ。オンとオフの切り換えがきっちりできることも、一流の経営者の条件なんだから」


「えっ?」


「それに、愛美ちゃんは何か僕に相談したいことがあるって言ってたろ? それもちゃんと聞いてあげるよ」


「はい。……ちゃんと覚えて下さってたんですね」


 愛美は胸の中がじんわり温かくなるのを感じた。一ヶ月も前に、電話で話した内容なんてもう忘れられていると思っていたのだ。


「もちろんだよ。僕は、一度した約束は絶対に忘れないからね」


「ありがとうございます! ――でもあの件は、あの後もうほとんど解決しちゃってて……」


「それでもいいから、とにかく話してごらんよ」


「はい……。でも長くなりそうだから、別の日にゆっくり聞いてもらいます」


「分かった」


 純也さんの返事を聞いた愛美は、「ところで」と彼の大きなスーツケースの中身(ファスナーは開けてあるのだ)を眺めながら言った。


「釣りの道具って、コレですか?」


「そうだよ。愛美ちゃんの分もあるから」


 スーツケースの中には洋服などが入っているのかと思いきや、中に入っているのは釣りに使う竿(〝タックル〟というらしい)やルアーのボックスなどだった。

 他にも色々、キャンプ用具などのアウトドア関係のものが詰め込まれている。


「釣りって、生きた虫をエサに使うんじゃないんですね。もしそうだったら、わたしどうしようかと思ってました」


「さすがに初心者の、それも女の子にいきなりそれはかわいそうだからね。明日教えるのはルアーフィッシングだよ。この時期は、イワナが釣れるはずなんだ」


「イワナかぁ。あれって塩焼きにしたら美味しいんですよね」


 実は愛美も、実際にイワナの塩焼きを食べたことがない。これは本から得た雑学である。


「そうそう! 特に釣りたては新鮮でね」


「わぁ、楽しみ! じゃあ、明日は早起きして、多恵さんと佳織さんと一緒にお弁当作りますね」


 釣りの話で盛り上がる中、愛美はあることに気がついた。


「そういえば、服とかはどこに入ってるんですか?」


 スーツケースの中には、それらしいものはほとんど入っていない(釣り用のウェアや長靴などは別として)。


「ああ、普段の服はそっちのボストンバッグの中。男の旅行用の荷物なんてそんなモンだよ」


「へぇー……」


 確かに、服や洗面用具などの〝普通の〟旅行用の荷物は少ない。けれどその代わり、彼の場合は他の荷物の方が多いともいえる。


「片付けは自分でやっとくから、愛美ちゃんは下で多恵さんたちの手伝いをしておいで」


 はい、と頷いて、愛美は一階のキッチンへ下りていく。そろそろパン作りの準備を始める頃だからだった。

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