天翔猪~武将 岡部元信伝~

桜枝 藍

序章

下総国堤台城

 戦国の世の中が、ようやく終わりを告げようとしています。

 三年程前に、美濃国の関ヶ原という所で大きな戦があり、徳川家康さまが勝利を収めたことによって、徳川家の天下は固まったようです。まだ大坂には太閤さまの嫡子の秀頼さまがご健在ですが、今は多くの大名や武将たちが豊臣ではなく徳川に従うようになりました。

 今年の二月に、家康さまが朝廷から征夷大将軍の宣下を受けられて、江戸に幕府を開いたことで、もう天下の帰趨は完全に決したと言って良いでしょう。


 慶長八年春。わたしは、久しぶりに関東の地に足を踏み入れました。

 いえ、久しぶりどころではありません。わたしが駿府を出て、初めて小田原を訪れたのは、今から六十年近くも前のことでした。

 当時、関東では、泥沼のような戦が続いていました。

関東だけではありません。駿河、甲斐、尾張、三河、わたしの知る限り、どこの地でも、多くの武士たちが自らの生き残りをかけて戦い、奪い合い、そして死んでいったのです。今川氏が滅び、武田氏が滅び、そしてこの関東を支配していた北条氏も滅んでしまいました。


 六十年ぶりに訪れた江戸の町は、見違えるような変貌を遂げていました。

 小田原の北条氏が太閤秀吉さまに屈服させられた後、徳川家康さまが三河から関東に移封されたのは、十年あまり前のことです。

 家康さまは、それまでは小さな湊町でしかなかったこの江戸に本拠地を定められました。そして山を削り、川の流れを変え、湿地を埋め立てて、江戸を関東一の大きな町に作り上げたのです。わたしの遠い記憶の中にあった船着き場や小さな商家、掘っ立て小屋のような武家屋敷などは、もう跡形も無くなってしまっています、かろうじて、浅草寺の境内だけが、昔ままの場所で名残をとどめているだけでした。


 わたしも若かった頃は野山を自由に駆け抜け、様々な地を巡り歩いたものですが、年老いた今となっては、長旅は体にこたえます。浜松を出てから十日かかってようやく江戸までたどりつきましたが、そこで体調を少し崩してしまいました。

 懐かしい浅草寺で五日ほど泊めてもらって体を休ませた後、わたしは本来の目的地である下総国山崎というところに向かいました。


 下総山崎藩一万二千石の居城である堤台城は、大きな湖に面した小高い丘の上に建てられていました。お城は堅牢な石垣で覆われていて、天守こそありませんが、立派な高櫓や多門櫓などで囲まれています。お城の大手門は、広く開かれておりますが、長槍を持った十数名の兵士がしっかりと守りに就いていました。


「こら、そこの尼。お城に何の用じゃ!」

「あぁ、はい。門のお守りご苦労様です。長盛殿に、浜松のババが参ったとお伝え願えませんか」

「うん? 浜松だと? 殿の昔のお知り合いか? ちょっと待っておれ」

 門番の兵士は、あわててお城の中に駆け込んでいきました。


 わたしは、少し待たされただけで、すぐに中に入れてもらえました。大手門をくぐり、三の丸を抜けて、二の丸に入ると、まだ建てられたばかりのような木の香りの漂う立派な御殿が建てられています。その玄関には、岡部氏の家紋の「左三つ巴」の旗が大きく掲げられていました。


 二の丸御殿の奥座敷で、長盛殿はわたしを迎えてくれました。

「これはこれは、おばば……いや、芳春院さま。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです」

 下総山崎藩の藩主で、岡部家の当主の岡部長盛殿は、わたしにとっては甥の正綱の子ども、つまり姪孫(てっそん)にあたります。確か、まだ四十になるかならないかくらいの歳のはずです。

「はい、長盛殿とお会いするのは、お父上の正綱殿の葬儀以来ですね。もう二十年になりましょうか。ご立派になられました。やはりお父上と似ていらっしゃいますね」

「そうですか。あの頃は、豊臣と徳川との間で、いつ戦いが起こっても不思議で無い状況でしたので、すぐに出陣しなくてはならず、ゆっくりお話ができなくて、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、仕方の無いことです。お父上が急に亡くなられた後、若くしてご当主の座をお継ぎになったので心配しておりましたが、その後も大活躍をされていたようですね」

「はい、父の死を悲しむ間もないまま、戦に追われる日々でした」

「小牧長久手の戦いや信州上田城の戦いなどで、次々とお手柄を立てられたと聞いています。そして、ついにこのような一国一城の主となられました」

「いえいえ、一国一城とは大げさです。それでも、ようやく家康さまから一万二千国の領地をいただいて、譜代大名に加えていただきました」

「ほんとうにご立派ですよ。玄関に掲げられている左三つ巴の紋を見たときには涙が出そうでした。長盛殿のおかげで、ようやく岡部家の長年の悲願が達成されました」

「いえいえ、今の私があるのは、亡き父上のおかげですし、その父上が生き延びることができたのは芳春院さまや元信さま、貞綱さまのご兄弟に助けていただいたおかげだと聞いております」

「わたしたち兄妹は、いつかこの日が来。るのを夢見て、ずっと頑張ってきたのです。貞綱も元信も戦の中で死んでしまいましたが、わたしだけでも長く生き続けてきたかいがありました」

「芳春院さま。ぜひ昔の話をお聞かせください。父から多少は聞いておりますが、おおおじの元信さまの豪傑ぶりや、貞綱さまの勇壮なご活躍のようすをお聞きしたいと、ずっと思っておりました」

「そうですね。今のわたしがお役に立てるのは、昔話をすることくらいですからね」


 わたしは、そのまま堤台のお城に留まって、長盛さまや奥方さまたちに昔語りをすることになりました。

 どこから話を始めようかと思いを馳せるうちに、わたしの頭の中には、「小春」と呼ばれていた十代の頃の記憶が次々とよみがえってきました。

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