名もなき朝の唄《ハコの動画配信》

市來 茉莉

1.自称・写真家の死

 吹雪が止んだ朝、その人が湖畔で息絶えていた。

 雪を被って、相棒のカメラは三脚にセットされたまま。

 その人がいつも連絡していた編集部へ、彼が亡くなったことを父が報せる。

 今後の仕事などあったのか、彼の作品はどうなっていくのかと問い合わせたが、特に返答もなかったという。


 命を賭けた作品? そうだったかもしれない。でも、それが世間のたくさんの目に触れることはなかった。


 夜明けの雪開け写真だなんて、ありきたりだな。

 父は彼の遺作を見たときに、そう言っていた。

 芸術ってなんだろうな。やるせなさそうに小さく息を吐いて呟いた父の声色も脳裏に張り付いている。



 ハコも夢破れ、いまここにいる。

 心のどこかで諦めてはいないけれど、いまはそう……、こうしていくしかなくて父が営む湖畔のフレンチレストランで給仕をしている。


 子供の頃からボーカリストになることが夢だった。東京の音楽専門学校を卒業後も、ボイストレーニングを受講しつつ、アルバイトとオーディションに駆け回っていた。だが、いつまでも親を頼れず、資金が尽き、三年前に地元北海道、七飯ななえ町の大沼に戻ってきた。


 葉子ようこはレストラン給仕の仕事を手伝うことで、実家に帰れることになった。


 そこにいたのだ。自称・写真家だという『桐生きりゅう 秀星しゅうせい』という四十歳になろうかという独身男が。

 柔和な物腰のその人は、父が雇っていた『ギャルソン』で、葉子に仕事を教えてくれる上司ということになった。




 オーナーシェフである父から『頼む』とだけ言われ、メートル・ドテル(給仕長)を務める彼が葉子を預かることになった初日。


「えー、シェフのお嬢様ですね。ハコさんですか」


 最初から名前を間違えられた。


「葉っぱの子で、ヨウコです」

「あ、そうだよね、そう読むよね。申し訳ない」


 そんな読み方する人は初めてだよ――と思いつつも、確かに変わったかんじの男性というのが、葉子の第一印象だった。

 だが仕事は一流で、父が『できればずっといてほしいんだよな。あんなレベルの給仕、こんな地方のフレンチでは来てくれない』と認めるほどの男だった。


「お辞儀の角度、甘い」

「まだ背が丸まっている」

「カトラリーを置く位置を間違えている」

「お客様への目線を落とす位置が高い」

「仕草が美しくない。指先まで神経を尖らせるんだ」

「でもさすが、発声、発音はよし!」


 フレンチレストランの給仕の基本を叩き込まれた。

 まだ諦めていない夢がある。本当はこんなことしていたくない。お金がないからしかたがない。嫌々やっているんだ。どこかでいつもそう思っている。そうすると、彼にその雰囲気を感じ取られ、そんなときにはビシッと活を入れられてきた。

「ひとつの仕事を軽んじる者は、夢など叶えられない」

 普段は優しい顔と温和な雰囲気でほのぼのしているのに、お客様に対しての接し方や料理や食材に対しての敬意の持ち方には厳しかった。


 それでも『ハコ』が徐々に真剣に給仕に身を入れるようになったのも、彼がこんなに一流の仕事をするのに『写真家』にこだわっていたからだ。


 四十前、独身。まだ夢を諦めていない男が、愛しているカメラを担いで全国さすらいながら、夢を失わないために生きていくために仕事をしている。しかもその仕事を極めている。

 

 そんな人を目の前にして、言える? 夢があるから真剣に生きていく気力を、この仕事には使いたくないだなんて言ったら、夢にも生きていくことにも『負け宣言』をしていると思わされる人だったのだ。


 自称・写真家なのは、彼が仕事の傍ら、毎日、愛する大沼公園の景色を撮影しては、誰も見ないSNSにアップしたり、受賞選考にかすりもしないコンテストに応募したりしているからなのだ。その応募経歴から受賞はせずとも、編集部とのツテができるようになったらしい。たまにカットとして使いたいと編集部から申し出があって、ちょっぴりのお小遣いになっているのだと教えてくれた。


 彼の生きる本質はその『毎日の撮影』であって、ギャルソンはその夢を続けて支えるための生きていく方法でしかないのだ。

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