続・羅生門

蒼河颯人

下人のその後の行く末

 ──その黒洞々たる、漆黒の闇夜の中を振り続ける氷雨は、もうその名の如く、まわりの草や木を、凍てつかせるぐらいに冷たかった。木々の葉や枝から滴る水玉さえも、空にどんよりと広がっている雲が、真っ黒な墨を溶いた水を滴らせていると言ってもよいぐらいに、重々しいものであった。


 時々、肌を刺す様な風が吹いては、その葉や枝から落ちる寸前の、その重苦しい雫を辺りに撒き散らし、下人の手や足、顔や着物を真っ黒に染めんばかりに濡らしていた。


 下人は、目的を果さんと、闇夜の中を走っている。自分の心を、どんどん闇の鴉色に、染めてゆく雨粒を気にもしないで、自分の本能の赴くままに、走っていた。


 ──もう、右のほおに出来ているにきびにも、手を持っていこうとしない…──


 下人は、京都の町に向かっていた。下人は、先程の老婆から見出した教訓を胸に…いや、そんなことはもう気にも止めずに、ただただ、己の気付かぬ、奈落の底への道をまっすぐ突き進んでいたのだった。


 ──京都の町へ……盗みを犯しに行くのである──


 下人の心に芽生えた、盗人になる事を肯定する口実は衰えることを知らずに、まわりのものを犠牲にし、深い根をはってしまって、下人自身の肉体が滅び、朽ちるまで、そのまま利用され、行動へと移されていた。


 下人は、京都の町中へ猫の様に、音を立てずに入り込んだ。


 けれども、京都の洛中のさびれ方の非道さが、この町中の荒れ方を物語っていた。昔の、栄えていたあの頃とは、雲泥の差であるのは、火を見るより明らかだった。


 下人は、肉食鳥の様な目を大きく見開いて、生活の糧になりそうなもののある家を、くまなく探した。そして、見つけては、腰に帯びている聖柄の太刀を一閃させ、脅してはそれを奪ったーそうする筈だった。


 京都の町中は、不気味なぐらいにしいんと静まりかえっていて、前にも書いた様な有様で、あの家もこの家も崩れかかり、既に廃墟と言っても良かった。見たところ鼠一匹もおらず、誰一人居なかった。人々は殆んど、生活の糧を求めて、他の国へ行ってしまったのである。


 一方、羅生門の楼の中に取り残されていた老婆は、何を思ったのか、はしごに手をかけ足をかけ、下に降りようとし、うっかり足を滑らせてしまった。老婆のその裸の体は、あっという間に闇の底に吸い込まれていき、後はぴくりとも動こうとしなくなった。


 それから、何時間か後の事である。降り続く雨を冒しながら、闇の竹藪の中を走り続けている、一人の男がいた。下人であった。


 下人は、やっとの思いで手に入れた蘇芳や鈍色や黄櫓染の着物を脇に抱えていた。辺りに転がっていた屍や、辛うじて生き延びていた人間どもの着物である。


 そこへ、下人の行く手を阻む者が現れた。自分よりも一まわり以上大きく、無精髭を生やした、鬼の様な顔をした男であった。下人と同じ様に、揉烏帽子をかぶっているところを見ると、下人と同じくらいの、身分の者である。


「たれだ。何故、邪魔をする」


 下人は「身の毛も弥立つ」様な感情を、必死にこらえていた。よく見れば、相手の男も、腰に太刀を帯びている。助けを読んだとしても、自分も盗みを犯しているのだから捕まる。それに第一、場所が場所であり、ここに居る二人以外、動物の他に誰が居ようか。


 先程まであった勇気と満足感は、いつの間にかすっかり冷めてしまって、今度は恐怖が、心の奥底からぐっと込み上げてきた。冷や汗が、額から鼻柱を流れ、鼻先から、一粒のしずくとなって流れ落ちた。もう、下人の心には、とんでもない者に会ってしまったという、後悔の念と、運の悪さを憎む気持ちしか、残っていなかった。こんな時間にこんな所に居る者は、只者ではない事は痛い程、よく分かっていた。


 その熊の様な大男は、下人をそのぎょろりとした、大きな目で、じっと見下ろしていた。


 いきなり、太刀の鞘を払って、そのぎらりと鈍く光る、白い鋼の色をそのその目の前に突きつけた。そして大声で狼が食らいつく様に言った。


「俺は追い剥ぎだ。持っているものも、着物も皆、ここに置いてゆけ。さもなくば、命を置いて行ってもらうぞよ」


 下人は、持っている着物も、自分の着物も手放したくなかったし、命も捨てたくなかった。…となると、助かる方法は、この目の前に居る男を、斃す以外に何があろうか。だが、その反対の事が、現実になるのは、火を見るより明らかである。


「三十六計逃げるに如かず」


 もう、残された手はこれしかなかった。


 太刀を振りかざした大男は、罵りながら下人を追いかけた。


「おのれ、どこへ行く」


 下人は、抜かれた相手の男の太刀を、自分の太刀で受けながら、必死になって逃げた。その争いの際に、辺り一面に、上へと伸びている竹が次々と斬られ、尖った刃先となっていった。


 下人は、肩で息を切り、太刀を落としてしまいそうに、両手を、わなわなと震わせて、目を、眼球が目蓋の外へ出そうになる程、見開いていた。下人は無我夢中になって、兎に角、この場から上手く逃げる様に、努めた。


 その時、不運なことにください下人は、雨の為に、じっとりと濡れている草に、足を滑らせ、目の前に広がる、黒々とした鬱蒼たる下り坂を、ごろごろと転がり落ちて行った。この男の、背後に待ち受ける運命の境目は、その丁度先に生えている、先程の戦いの際に、刃物と化していた竹のみが、知っていた。


「悪く思うまいな。俺もこうしなければ、飢え死にをする体なのだ」


 熊の様な髭面の大男は、もう口をきくことのない下人から着物を全部奪った後、こう言って、嘲り笑いながら、どす黒い坂道を、駆け下りて行った。雨も、いつの間にか止んでいて、後は、又、気味の悪い静寂の時が流れ始めていた。


 ──丁度、子の刻を回った頃の出来事だった──



                   「完」






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