幽藍の空に歌う

さかな

第1話 出会い

 冷たいしずくが頬を濡らす感触に、華々ファファは目覚めた。見慣れた自室とは違う、砂と埃と汗の匂い。ここはどこだろう、とぼんやり考えてからようやく自分のいる場所を思い出す。


 半月前、少女の住む遼煌リャオファンを遊牧民の一派が襲った。北を広く支配する匈露ションルと組んで略奪の限りを尽くした遊牧民の一派はウー族と呼ばれている部族だ。黒い頭巾と覆いで顔の半分を隠し、気性の荒い黒馬を乗りこなす荒くれ者たちだった。


 混乱の最中、父母とはぐれて連れ去られてしまった華々は他の捕虜達とともに粗末な石室へと入れられていた。普段遊牧民たちは定住するための居を設けず、天幕を張って生活している。ここは捕虜を捕まえておくための場所のようだった。


 同じように囚われた女たちと身を寄せ合いながら、華々は白い息を吐いた。赤髪黒目の自分と見た目の違う女たちも混じっているところを見ると、どうやらいろいろなところから捕虜を集めてきているらしい。狭い石室には十人ほどの女が詰め込まれ、いつまたどこかに連れて行かれるかわからない恐怖に怯えながら皆細々と生活していた。


 もう夏に手が届こうかという時期になっても、夜はまだずいぶんと冷え込む。華々は粗末な羊毛のうわ掛けの下からそっと抜け出して、用を足すために外へと歩いていく。

 

 入口の見張りは一瞬ちらりと横目で見ただけで、華々が外に出ても何も言わなかった。夜は枷におもりがつけられるので、到底見張りを振り切って逃げることはできない。そのため用を足すついでに空を見上げるくらいの自由は許されているのだった。


 空に煌々と浮かぶ細月に、華々はため息をつく。満月アロにはまだ程遠く、頼りない白光を放つ月の遥か下の方に、狼の瞳デラが青白く輝いていた。


 一年を通して北の方角に見える青い星「鷹の尾ルマ」、夏になると空高く上る赤い星「狼の心臓ベルタ」、冬の訪れを告げる星々「六人の乙女ハルディア」――華々の母はイェ族と呼ばれる遊牧民の氏族出身で、星に関する様々な知識を歌とともに聞かせてくれることが多かった。


『道に迷ったら空を見上げなさい。そうすれば、星が進むべき道を教えてくれるわ』


 そう教えてくれた母の言うとおりに瞬く星々を眺めてみたが、まだ未熟な華々は自分の居場所も故郷の町がある場所もさっぱりわからない。だが母の声を思い出しながら星を見つめるだけで、不安が少しだけ無くなっていくような気がした。


 ハリファの花が開くとき

 夜を明かして踊りましょう

 星満ちる夜に歌をうたえば

 名を明かして約束しましょう

 アロとデラが天で会うとき

 リアとフアのあいだを通って

 あなたの元へと駆けてゆき

 雪紗せっさのベールを脱ぎましょう


 気づけば、記憶の母の声とともに華々もうたっていた。遊牧民たちは季節の良いときを選んで祭りを行う。華々のお気に入りのこの歌は、夏に火を囲んで若い夜族の男女が対になって踊り、恋人を探す時の歌なのだという。


 いつかこの祭りに行って恋人を作りたいというのが華々のあこがれだった。


(今年こそ、お祭りに参加できるはずだったのに)


 華々は深々とため息をついて、身に纏う衣の刺繍にそっと指を滑らせた。複雑な紋様が縫い込まれた毛織りの衣は、母が一針一針丹精込めて縫い上げてくれたものだ。なんでも、扁桃アーモンドの花をかたどった魔除けの紋様が縫い込まれているのだという。


 あなたも十三歳になったし、祭り用の新しい衣が縫い上がったら火祭りに参加していいわよ。そう言ってくれた母との約束は、夏を前に華々がさらわれてしまった今、果たされそうになかった。


「――おい、女。その歌はなんという」


 しばらく夜空を眺めてから中に入ろうとしたとき、不意に低い声が響いた。少し遅れて、その声が見張りの男のものだと気づく。


 おそるおそる後ろを振り向くと、男がじっと華々の方をみていた。感情をうつさない瞳は凪いだ夜の湖のように真っ黒で、頭巾と布で覆われた顔からは表情を伺うことはできない。


 何か気に触ることをしただろうかと返す言葉を探しあぐねていると、男は鋭く射貫くような視線をそらし、ただ気になっただけなのだと弁解するように付け加える。その言葉に少し安心した華々は、声が震えないように腹に力を込めて答えた。


「……火祭りガルナーダムの歌、です」

「お前の親は夜族か?」

「母が夜族出身なので、よく歌って聞かせてくれていました」


 火祭り、と言う単語から母の出身を言い当てたところをみると、夜族の祭りは他部族にも知られる有名なものらしい。男はその回答に満足したのかそれ以上何か質問をすることはなく、元の場所に座って黙り込んだ。そろそろ華々も中に戻れ、ということだろう。


 少女はおとなしく石室の中へ入り、夜が明けるまでの短いあいだ手足を縮めて浅い眠りについたのだった。




 歌の名を聞かれた夜をきっかけに、華々は見張りの男と時々言葉を交わすようになった。見張りは四人いて、昼と夜に回り持ちで交代をする。男は夜の見張りを担当しており、打ち解けてくるとともに華々の体調などにも気を遣ってくれるようになった。


 手先が器用らしく、見張りのときは細いナイフを使って木を彫っていることが多いこと。他の烏族の男達は捕虜を乱暴に扱うことも多いが、彼だけは同じ人として優しく丁寧に接してくれること。その二つは、華々が彼と言葉を交わすようになってから知ったことである。


 男は華々の歌声を気に入ったらしく、外に出たときに時々歌を聞かせてくれと言われることもあった。花摘みの歌や星見の歌、羊の歌など母に教えてもらったものを色々と歌ったが、男のお気に入りは火祭りの歌のようだった。


「――お前は火祭りに参加したことがあるのか?」


 故郷の街からさらわれて一ヶ月ほどたった日の夜。


 いつものように請われて歌を紡ぐ華々に男が唐突に問いかけた。参加したことはないが近くで見たことがある。そう答えると、どんな祭りだったのかもっと聞かせてくれと頼まれた。


 夜族の火祭りは一種の儀式であり、他部族のものが参加したり見たりすることは許されないので、興味があるのだろう。遠くから見た様子を話すだけで良いのならと前置きをしてから、華々は記憶をたどりながらゆっくりと話し始めたのだった。

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