2021/01/09 遅刻

お題:【慌てない 慌てない】をテーマにした小説を1時間で完成させる。




 その日、山田はいつもより早い時間に目覚めた。


 本人は自然と目覚めた気になっていたが、実は強烈な強迫観念によって半ば強引に覚醒したのである。


 枕元のスマートフォンを触り、時計の表示を見る。


 午前四時五〇分。間違いなくいつもの起床時間よりも早いし、なんならあと二時間半は寝ていても出勤には間に合うだろう。


 しかし、山田は思ったのである。


 あっ、これ遅刻するぞ、と。


 深呼吸を一つ。


 山田は布団から跳ね起きた。この瞬間ばかりは山田のばね定数が急激な上昇を見せたのである。


 この時点で約一分が経過していた。


   ***


 その日、彼は急な出張で京都に行くことが決まっていた。急なスケジューリングのため、予めチケットを容易しておく時間もなく、当日の新幹線の席を購入しなければならなかった。

 山田と一緒に出張する同僚もいるのだが、現地集合であった。

 待ち合わせ時間は午前九時頃。

 山田は関東のY市に住んでいるため、新幹線で移動しても京都には二時間半は掛かる。新幹線に乗るためにも、最寄り駅から停車駅に移動する時間、最寄り駅に向かう時間等々が一時間弱掛かってしまう。

 したがって、午前五時前に起きた時点で山田の「遅刻するぞ」という予感は的中していた。

 布団を跳ね起きた山田は普段は三〇分はだらだら支度をしてようやく出勤する癖に、五分程度家を出た。

 一張羅のスーツ、それから出張先で必要な道具を一式詰め込んだ大きなリュック。

 太陽もまだ昇っていない暗い街を移動する彼の姿はアドレスホッパーか夜逃げのようであった。

 快調なスタートを切り出した山田であったが、それもそのはず。

 感情がシャットダウンしていたのである。自分が遅刻したことで同僚にも会社にも勿論出張先の相手にも与える迷惑が計り知れないことが彼の精神の負担になっていた。

 革靴を履いて、最寄り駅へ向かうバス停へと着く。

 だが、そこでハッとなった。

 通勤バスは午前六時からの運行が開始されるのである。

 現在は午前五時ちょうど。当然バスは来ないのである。


(慌てない、慌てない)


 粟立つ精神を宥める山田の足は徐々に競歩並みの速度へと加速していく。

 感情を放棄し、ひたすら前へと進む足の運動制御と目的地到達に必要な時間の逆算に突入していた。

 最寄り駅まで徒歩で歩いたら約三〇分掛かることを経験的に知っていたが、それでは新幹線の時間に間に合わなくなる。間に合わないと出張に行けない。

 山田にとって、遅刻は社会的な死を意味していた。

 脳内のインジケーターは不快な警告音を鳴らしていた。

 

(慌てない、慌てない。まだそんな時間ではない)


(【急ぐ】というのは、【】を【ぐ】ということ、つまり平静を欠く愚かな行為だ。今思いついたけど……)


 放棄していた感情が只管に焦りを出力し始めている。

 今彼が搔いている汗は二〇キログラム程度の荷物を背負ったまま競歩していることに由来するのか、はたまた冷や汗なのかは検討もつかなかった。なにしろ検討する余裕もない。


(【急がば回れ】というではないか、何か近道はないのか?)


 そんなものはない。最寄り駅までは真っ直ぐ大通りを行くだけ。


(タクシーはどうか?)


 ない。不幸にも彼が歩く大通りを走る車輌は影も形もなかった。ましてや、今から電話でタクシーを呼んでいる時間もないし、そもそもどこに呼べばいいかも分からない程に混乱していた。


 最早彼に残された選択は一つしか、なかった。


(俺は今日、限界を超えてみせる……!)


 早々にランナーズハイに突入し始めていた山田は静かに決意を固める。

 たとい現地で動けなくなろうとも、現地には辿り着いたという事実を作るために足の心配をしている場合ではなかった。

 言うなれば浅はかな保身ではあったが、一人の男の決心は固かった。その時ばかりは山田の脳裏に自分を強く育ててくれた両親の顔が浮かんでいた。その理由が遅刻というなんとも情けないものではあったが、彼の自己肯定感を強く後押しし追い風になっているのもまた事実であった。

 既に背中にはシャツが張り付くほどの汗を搔いていたし、脹ら脛ふくらはぎもパンパンに膨張していた。

 たとい道半ばで筋肉が裂けて悲鳴を上げようとも、歩を進めることだけは止めてはならなかった。

 その先にセリヌンティウスが待っているかのように。


   ***


 新幹線の乗車駅に辿り着いた一人のサラリーマンは全身に汗を搔き、今にも死にそうな顔をしていた。

 怪訝そうに彼を見つめる駅員や他の利用客には気にも止めず、山田はホームへと降り立った。

 靴擦れの痛みもなんのその、歩く機械と化した山田には他のことは一切気に掛からない。

 購入した当日席のチケットを握りしめ、いざや行かん京の都へ。


 と、席に着いて安堵していた山田だったが、彼が飛び乗ったのは偶々臨時運行していた新幹線「こだま号」。停車駅が多く、したがって停止時間も多い。当然、待ち合わせ時間には間に合わない。

 山田がそのことには気付くことはなく、最後まで慌てることなく京都まで爆睡していた。

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