2021/01/05 悪魔は現れ給えり

「姉さん!」

 教室に入るなり叫ぶ折手おりて

 入り口の前に立つ彼の背中越しに私は見た。

 深夜の教室の中央でこちらを見据えている制服の女――マキの姿を。

「――――ッ!」不吉な笑みを浮かべ、紅い瞳がこちらを捉えている。

「折手!」私は彼を押して教室に入ろうとする。

 それほど広くない教室だ。二人がかりならマキを捉えるのも難しくはない。


眞下ましもさん、手助けは要らない。これは、家族の問題だ」

 肩に掛かる私の手を払い、折手は教室に一歩踏み込む。

「しかし、マキは悪魔に取り憑かれているんだぞ」

「そんなことは関係ない!」振り向きもせずに言った。「あれは俺の姉さんなんだ……」

 語気の強い口調に自分でも驚くのが分かった。

 格子状に並ぶ机に分け入り、マキに歩み寄る。

「しかし、なんだって姉さんなんだ!」彼は独りごちる。

 ふらふらとした足取りでマキに近付く折手は右手を握りしめていたが、戦意がないのか後ずさる彼女には届かない。

「やはり抵抗があるではないか。私は構わないよ、二対一でも。卑怯とは言うまい」

 目の前の女――マキが言った。否、彼女に取り憑いている悪魔がそう言っているのかもしれない。

「たった一人の肉親なんだ……」

「返してほしいのだろう? ならば、奪い取ってみせよ」

 悪魔の安い挑発に乗る折手に私に内心イライラしていた。戦意がないのか、どこか身体を悪くしているのか、まともに動いてもいない身体で向かっていっても返り討ちにあうだけだ。

「それみろ」

 突き飛ばされて、机を巻き込んで転ぶ折手。

 女の形をした悪魔はその様を見て嗤っている。

「どうした。こいつがヤられているのを只見ているだけでいいのかい? たった一人の肉親を求めてこの街にやってきた小僧が、その姉を取り上げられているのを見るのは実に滑稽かもしれまいが、それを楽しめる程の器でもあるまいに」

 折手はふらふらと立ち上がる。

「馬鹿か、お前は」


「俺が、を探してこの町に来たのは確かだ。だがな求めていたからじゃない。憎んでいたからだ!」

「アンタは、両親を亡くし、たった一人の肉親になった弟を、俺を捨てたんだ!」

 折手は振りかぶって殴り掛かるが、また躱されて黒板に激突する。

「家の金を持って、逃げたアンタがこの町で気ままに振る舞っているのを知ったから俺は探しに来たんだ。だが、どうだ? この学校で見つけたお前は。孤独に生きる道を選んだ癖に、悪魔に取り入られているじゃないか」

 一体何の冗談だ、と叫ぶ折手。

「俺がどれだけあの寺で孤独に、惨めに生きてきたか、アンタには分かるまい! 俺という重荷にくしんを捨てることで自由を得たアンタには。だからな、そんなアンタが、ここで孤独じゃない生き方をしていることに腹が立つんだ!」

 近くの机を腹いせに蹴り飛ばす折手は、激しい感情に身体が支配されているように見えた。

「そんな姉さんに縋るしかないお前には心底同情するよ」

 急に声のトーンが低くなる。

「あの高慢で、エゴイストな姉さんのことだ。察するに、自ら迎え入れたってところだろうなァ!」

 折手は嗤っていた。

「――――ッ……」

 マキが半歩引き下がった。

 悪魔が折手の言葉に気圧されているのだ。

 いや、しかし、


 『わにに呑まれたイワンに同情せずに、却て呑んだわにに同情してゐるぢやありませんか。』


 私は《わに》という小説の一節を思い出してしまっていた。


「だったらどうすると言うのだ! この女は、この身体は、私の物だ!」

「それだがよォ」

 何かがキレてしまっている折手は普段は見せない凶悪な顔で笑っている。

「一つ提案なんだ」指を立てて悪魔に迫る。

 彼の考えが読めた

「折手!」彼の名を叫ぶ。

「眞下さんは黙ってろ!」

 最早……、何も言うまい。

「俺を、この身体を、宿主に選んではくれないか」

 両手を開き抵抗の意思がないことを示しながら主張する。

「お前の存在を姉さんから奪わせてほしい。どうだ、悪くないだろう」

「馬鹿な……」

 マキの皮を被った悪魔が驚愕した。

 折手は、姉を憎むばかりにマキが持つ物を奪おうとしていた。

 彼は彼女を助けようとしてしていたのではない。これは復讐なのだ。

 普段は校内を高慢な態度で踏ん反りかえっているマキが見せる恐怖や驚きの綯い交ぜになった表情は滑稽で愉快そのものであったが、折手のその選択はあまりにも愚かに映った。

「折手……、それはを敵に回すことだと理解して言っているのか?」

「勿論だ」即答する。「俺には、もうこれしかない」

 彼の言う【これ】がなんなのか私には分からなかったが、男がそこまで言うのであれば見届けてやっても構わないと思った。

「ふふふ……」悪魔は口元に手を当てて笑う。「良かろう……。そうまで言う。ならば、貴様の身体貰ってやろう!」

 刹那。マキの身体が紅く発光し、その光は奔流となって折手に全身に降り掛かっていった。

 折手が悪魔と融合するまで、私は黙って見ていることにした。


「どうだ?」

 発光が終わった途端、マキは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 私は彼女を介抱しながら、折手を見上げていた。

「実感はない。だが、高揚感はある」

 マキに一つ復讐してやったという感情が、表情に見て取れた。

「だが、それは刹那的な物に過ぎない。違うか?」

「さあ」肩を竦めてみせる。「どうする? 俺を、やるかい?」

 私は下を向き息を一つ吐いて、再び折手を見上げた。

「見ての通り、要救護者が一名。手を塞いじまってる。こんな状態じゃ一人で戦えるか」

「腕なんかなくても俺を殺せるのに?」

「気が変わる前に、どこへでも消えちまいな。次に会った時は全力でお前を追い回す」

 彼はその言葉を聞いて、窓から飛び降りていった。ここは三階だぞ?

 折手の背中を見送る私は少しだけ笑っていたかもしれない。



お題:【著作権フリーの作品から1行引用】した小説を1時間で完成させる。

引用:《鱷》ドストエフスキー(著)、森林太郎(翻訳)

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