断章 幽世午睡

????年目 ■■■■■■


 風の音を感じて眼を覚ます。鼻を擽るのは甘く優雅な白檀の馨香けいこうと、瑞々しい大地から湧き上がる生命の迸りだ。どうやら寝入ってしまったらしく、辺りを伺うと傾いている陽の光を浴びながら、彼女が微笑んでいた。


「起きたか、随分と寝こけておったようじゃのう……ふふ、なんとも懐かしい心地になった、偶にはよいかもしれんな」


 いつのまにやら、彼女の膝を借りていたらしい。呵呵と嗤う彼女に静かに微笑み返し、腕を少し持ち上げて彼女の背に指を置く。


「……ん、どうした?」


 此方を覗う化生の熱を感じようと、身体をずらしながら横抱きに抱き締める。


「……こぉれ、悪さをするでない、悪戯小僧め」


 崩した彼女の身体からざらりと流れる黒髪と、抱き返されるように薫る芳香。鼻を擦り付けるように彼女の着物へ顔を近づけると、頭を丸ごと両の手で抱きすくめられて身動きが取れなくなる。


「……ふふ、どうした、どうした。……怖い夢でも、見たのかい?」

「夢……そうですね、私は夢を見ているのかもしれない」


 言葉もなく意味もなく、ただ縁側で縺れるように身体を横たえて抱き合っている彼等の事を、誰が知っているだろうか。

 男は身体を起こすと、きちんと座りなおして化生の隣に座る。


「……茶が冷めてしもうたのぅ、淹れ直さねば」


 盆の上に置かれた急須と二人分の湯呑み、本当に随分と寝こけてしまっていたようだ。陽光があるとはいえ、そろそろ肌寒くなる季節だ。彼女の方を抱き直すと、華奢な体躯が撓垂れ掛かり、今度は男の方が動けなくなってしまった。


「今となっては儂等に出来るのは見守るばかり。愛する子らの奮戦を尻目に悠々楽隠居とは、流石に体裁が悪いのぅ……」

「二人とも立派に務めを果たしておりますよ、私達の自慢の子供達ですから」


 男の指が彼女の髪を慰めながら、男と女、日の光がそれぞれの熱を混ぜ合わせてゆく。それは静謐な午後、安らぎの昼。もう手は届かなくなっても、大切に見守り続ける化生と人の、大切な日々。


「……また庭いじりでも始めようかの、どうにも手持ち無沙汰でいかん」

「此方では外に出ても問題ありませんからね……また、何処へなりと繰り出しましょうか」

「それも良いなぁ……今更ながら、こんな所に儂だけで来ておったらと思うと背筋が凍るよ。……ありがとう、なぁ……」


 両の手を後ろに回して男の首筋に触れる化生に、抱え込まれるようにして男は顔を下げる。


「私も寒いのは苦手ですからね……、愛していますよ、これからも、ずっと」


 死すらも人と化生を分かつことはない。在り方は変わったのだろう、いずれこの幻も薄明に照らされ、掠れて消え去るのだろう。


――けれども、今は。


「後事を託し、連れ合いと共に昇り……それでもまだ、共に在りたいと願う、我が事ながら強慾よのぅ……人の慾深が随分伝染ってしまったかの」

「強慾の対価がこれならば、寧ろ嬉しいくらいですね」

「呵呵呵、違いない」


 白檀の薫りに包まれて、化生と人は抱きしめ合う。その在り方はちっぽけな、けれども美しい、二人の、二柱の、夫婦の――。


「……ああ、そうじゃ」


 化生は何かを思い立ったかのように彼から手を離すと、注がれていた茶を手に取る。すると見る間にふつふつと液体が沸き、ほうほうと湯気を浮かべはじめた。


「こうすればよかったんじゃな」


 ずず、と小さな口をつけて茶を啜る様子を見るに、確かに茶は温まっているようだ。


「また、なんとも珍奇な使い方を……」


 男は言葉少なに非難するが、そもそもの発端が自分であるが故にどうにも言勢が弱い。それに、ここではもう、彼女のそれは命を削るようなものではないのだ。


「微温いよりは善かろ、ほれ、飲むか?」

「……はいはい、頂きますよ。本当、こんなだらけた姿、あの子達に見せられませんね、教育に悪いったら」

「呵呵、なァに、熟年なんぞこンなものじゃろうて……肩の荷が降りてどうにも気楽なんじゃ、暫く許しておくれよ」


 ふふん、と自嘲するように鼻で嘲笑いながら、穏やかな顔を湛えて化生は眼を閉じる。膝上に座る彼女を、人の子は腕の下からそっと抱きしめ直す。


「此方に来てから、昔馴染が順に顔を出して来たからの、さして気を遣うわけでもないが、流石に疲れた」

「真逆形見分けを頂いたご本人とは思いませんでしたよ……お逢いできたのは良かったですけれども」

「呵呵、全く全く、思いも付かない事がようよう起こる。とは言え相も変わらず真面目くさった奴じゃったのう、こんな御所まで拵えて、礼に礼を返されてしもうた」


 ぺたん、と軽い音で彼女が床板を叩く。神樹が木を削って家を造るのはどうなのだ、と男は問いたくもあったが、生真面目に平伏の様子を崩さない来訪者に聞くのは流石に憚られた。ともあれ、頂いた物を云々言うでもなく、なにより彼等の家と寸分違わぬ形を為したそれは只管魅力的な提案だった。


「また、近いうちにお礼に伺いましょう」

「向こうは気にしておらんじゃろうがの、それでも、ま、誠意には誠意を返さねばな。古い友人、じゃからのう……。もう少し、身体に慣れてから動き回りたいものじゃが」


 むぅ、と少し顔を顰める彼女の背を、男は上へ下へ、ゆっくりと撫で擦る。


「お疲れですね……かく云う私も、こうして若い頃の姿なのはまだ慣れません。吃驚するほど身体が軽いったら」

「一番良い塩梅の身体になっておるからのぅ、儂は兎も角、お前さんにとっては激動じゃろうの……二十、いや十代の頃か?」


 そうですね、と化生の問い掛けに答えながらも、男は半ば確信を持ちながら己の身体を探る。恐らくその姿は、彼が一番化生と長く過ごすための……。

 握っては開く掌の向こうから、彼女が微笑みを返す。


「儂の言った通りになったじゃろう? 閻魔なんぞに止められやせん、とな。――そうだとも、けっして、けっして……」


 言葉少なに、吸い付くように、縋るように、重なるように身を寄せ、眼を閉じる。

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