三十二年目 言葉


 秋が過ぎ、冬が来る。草木は実りを落として葉を朱に染め、虫達は最後の一鳴きを惜しむようにキィキィと呟く。獣は冬越えの塒にしっかりと蓄えを貯めこんで、しかし少しだけつまみ食いをしてしまったり。……誰もが冷たい冬へ備えている。身を寄せ合い、息を殺し、其の先の景色を見るために。密やかな冬の先にはまた春が巡ってくるのだと、皆知っているのだから。



 とん……とん……とん。規則正しく板張りを叩く音がする。板張りの渡りを突いて響くそれは、細工の施された木製の杖だ。持ち手には2つの石が埋め込まれており、指先の流れに沿うようにと自然に矯められた土台と合わせ、華美でない美しさを示している。そして何より、その杖は小振りだ。


 とん……とん……と音が止まる。杖の持ち主は縁側に置かれた揺り椅子の前まで来ると、そっと倒れ込むようにして椅子の上に身を投げ出した。何度か身を捩って腰を据えると、ふぅ、と小さく息を付いた。臙脂色の和服を着込んだ少女の、しかし堂に入った彼女の背負うものが何なのか、知っている者は驚くほど少ない。


 ――湯治から帰って後、その椅子は彼女の定位置のようになっていた。幾らか回復したと言えども感覚は鈍く、力が抜けるような痺れに脚を引き摺っている。家事の殆どは彼に任せ、化生は大きな椅子に背中を預けて一日を過ごす事が多くなっていた。


 ――陽の光を浴びて何をするでもなく、静かに微睡んで笑う。誰に咎められるでもなく、何を嫌うでもなく。只々静かに、心穏やかに一日を終える。時には人の子と寄り添い、茶を啜る事もあるだろう。一杯の笑顔を見せる蝙蝠の子に微笑みを浮かべながら、優しく頷くこともあるだろう。愛し子の不器用な愛情に触れて、優しくその頭を撫で擦ることもあるだろう。


 この場所は今、彼女の場所なのだ。誰が奪うでもなく、誰が憎むでもなく、彼女は神でも仏でもなく、悪鬼でも怪異でもない。

 庭先を見やると、不器用な愛し子が整えた草花のかたちが眼を楽しませる。枯山水よりは実際の草花の、生きている世界を喜ぶ化生への心遣いがそっと彼女の下へ秋の匂いを運んでくる。忽ち冬へと進む移り気な秋の、ほんの気まぐれのような優しさ。彼の心遣いがどうであったかは、ほう、と満足気に相貌を崩す化生の様子が総てだろう。


 廊下を渡ってきた人の子が具合を尋ねると、嬉しそうに化生は笑みを返す。今日は調子が良いのだ、と、顔を綻ばせる彼女に一つ頷いて、そっと抱き締める人の子。彼には音のない彼女の言葉が聞こえたのだろう。


 化生はこの頃、声を出さないようにしていた。先の旅路より目覚めて以来、彼女の言葉は壊れてしまった。簡単な単語であれば問題ないだろう、ちょっとした感情を示すこともまた出来るだろう。けれど最早、意味のある文脈としての言語は彼女にとって随分と手強いものとなってしまった。


 人間に喩えるならば失語症の一つ、発話の障害だろうか。聴覚で言語を理解できる、脳内で文脈を理解する事はできる、けれども意味のある繋がりとして発声することが、もう難しくなってしまっている。


「あぁ……、んぁ……く、……」


 口を開きながらも、もどかしげにしている化生、その背中を抱え込むように優しく撫でながら、人の子は大丈夫ですよ、と優しく声を掛ける。


「大丈夫ですよ……ゆっくりで良いんです。ええ、少しずつ、少しずつ……急ぎはしませんから、ゆっくりと……大丈夫、大丈夫ですから」


 華奢な化生を抱き留めながら、あやすように撫でさする人の子の熱が伝播したのか、化生は心地良さそうに眼を閉じて、うう、とも、ああ、ともとれない不明瞭な音を出しながらぽろりと涙を流した。

 悲しいのではない、怖いのだ。ひたすらに怖い。自分が取り残されてゆく感覚、そこに在ったものが抜け落ちる感覚。これが櫛であれば多少の歯抜けでも機能はするだろう。しかし、どこまでなら欠けて良いというのだ? 櫛が櫛でなくなるまで、あと幾つ許されると言うのか。かたちが総て抜け落ちて、何もかもなくなるまで……、喪失を埋める事など誰にも出来はしない。


 人の子は彼女の涙を袖口で優しく拭うと、戯れのような小さな口づけを化生に触れさせる。悲しみを覆い隠すように、晴らすように。

 人の子は太陽には成れない、人を、妖を、世を照らすかたちは人の身に叶うものではない。……けれでも一つ、ただ一つ。悲しみに涙を流す己の半身を慰めてやることは出来るだろう。特別な力など彼は持たない、一族の持っていた借り物の権能は総て天へ還り只人と成り……だからこそ彼女の隣に居ることが出来る。手を繋いでいられる、神ではない彼女を抱き締めてやれる。


「あぃ……し……る……」


 掌の熱に病を癒す力などはない、けれども心は温めてくれるだろう。凪の優しさは、身を預けて眼を閉じる安らぎは、化生の泡立つ心地を鎮めてくれる。身体の触れ合う距離で、片翼の歩む末の旅路を、優しさで包んでやることは出来るのだ。


 ――抱き合う己の父母を見つめながら、彼等の愛し子は自問し続ける。己は何故生まれてきたのかと。を迎える母の後継としてとして生み出された己の形、けれどそれは、今のようなものでなくとも良かった筈だ。徒に母の身を苦しめて、彼等の幸福な時間を奪う事はなかった筈だ。

 私は望まれて生まれて来たのだと父母は言った。……だというのに、ああ……私はあんまりにも幼くて、どうすればその愛を返す事ができるのか分からない。受けた幸福を返す為に何をすれば良いのか、彼等に何を返せば良いのか、私にはまだ分からない……未熟者だ、私は。奇跡のような彼らの子であるというのに、祝いに満ちた生であるというのに、それでも、まだこんなにも至らない。


 彼等の先を、幸福なままの世界を見たいというのは我侭なのだろうか。私には彼等が、自ら幸福を削っているように感じてしまう。ああ、ああ、嗚呼……。このどうしようもない感情というやつ、いっそ無くしてしまえばと思うような非合理の叫声。私は彼等を愛している、だからこそ、こんなにも……。


 握り拳を胸元に押し当てながら、どうぞ零れてくれるなと愛し子は願う。最愛の父母を喜ばせる答えは、まだ見つかっていないのだから。

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