三十年目 家


 夢を見ている


「――――、―――」


 神に捧げる祝詞が紡がれる。しゃらん、しゃりんと鈴が鳴り、しゃがれた男が癖の強い抑揚で勿体振って詠み上げる。それは神を喜ばせるものであったのだろう――かつては。今では単なる大気の身動ぎに過ぎない。神を岩屋に押し込んで、どうか其処から動いてくれるなと哀願しているだけに過ぎない。彼等は神の僕ではない――ならば、神とはなんだ。


 ほんの少し昔の話だ。化生にすれば吹いて飛ぶような刹那の、膿んだ己が辿り着いた姿。変えることの出来ない、かつて。


 彼女は世界に愛されている、世界は彼女を愛している。その御溢れに与ろうと敬拝した素振りで頭を垂れる人の群れ。元は唯の神官一族だったものが、気まぐれに彼女の与えた余禄に大層感激し――もっともっと、と強請る内に腐り果ててしまった、人間の形を忘れた獣たち。……人は堕落してしまったのだ。奇跡を願うものは対価を払わねばならない。まして人の身であれば、尚更。


 しゃらん、しゃりんと形ばかり厳かな祝詞が紡がれる。良、善、嘉、と、耳障りの良い音だけが吐き出されている。それに何の意味があるだろう、そんな音楽が何故彼女に届くだろう。


 彼女は眼前の儀式を見るでもなく、視界を中空に浮かべる。それは梁を越え屋敷を越え、集落を俯瞰するように高く浮かび上がる。神に頭を垂れる人々が、その一方で人に傅かれている。神への捧げ物として、獣に収められている。


 彼等は神へ仕えてはいない、神の齎す奇跡に仕えている。彼等は神を見ている……化生の事を見てはいない。


 己の力で思考する事を辞めた、生きている肉が列を成している。神の力を授かると称して若い女が捧げられている。飽食し、貪り奪うためだけに生きている人間の形をした何か醜悪なもの。彼女は嘆息すら吐くことはない……そんなものはもう、無くなってしまった。


 己の間違いを悔やんだとしても、もう取り戻すことはできない。彼女は間違えた、それだけの話。


――取り戻す事が出来ないなら、ああ、いっそ――


 ……世界は何も知らない振りをして、彼女の悲しみを汲んではくれなくて、彼女が嘆いても何も答えてはくれない。星は彼女を通して世界を見ているのに、それでも見続けるだけで何も語らない。馬鹿みたいに明るい光が木々に降り注ぎ、山を真赤に染め上げている。その何もかもが辛くなって、化生は幻の眼をも、又塞いでしまおうとして……


 歌が聞こえる。


 童子が静かに歌っている。生きていてくれてありがとう、生かしてくれてありがとう、優しい暖かさをありがとう、潤いの雨をありがとう。心地良い風をありがとう、稲穂の稔をありがとう、虫たちの囁きを、鳥達の囀りを、ざあざあと揺れる木立の合唱をありがとう。私は彼等と共に歌います、貴方と共に歌います。生きていることはこんなにも素晴らしいことなのだと。命とはこんなにも素晴らしいものなのだと。


 彼女は咄嗟に振り返ろうとして、けれども意志の力でそれを留める。……見てしまえば、きっと、駄目だ。抑えることができなくなる。後ろ髪を引かれながらも、お飾りの神は又しずしずと砂上の玉座に戻る。心を揺らしてはいけない、神とは絶対でなければならないからだ。あがめること。たたること。その天秤を揺らすことはできない。すでに器より溢れたそれであれば、尚更。


 退屈な玉座に戻りながら、また化生の意識も水面へと昇り来るのを感じる。記憶のあぶくがぱちりぱちりと弾けては、彼女の顔を曇らせる。



――我々を荒野に放り出すのか、ひとごろし、ばけもの、呪われろ!


――所詮神のまがい物か! 化物に我々が理解できるはずもない! おまえなんぞ呪われてしまえ!


――なんで言うことをきいてくれないの、そんな酷い事をするなんて!



 泡が顔の無い肉の塊と成り彼女を取り囲む。嘗て居て、今は居ない何者か。そのかたちは希釈されてしまって、最早一個の人間の形さえ保つことはない。


 ぱちん柏手を鳴らす。それだけで幕が降りたように世界が闇になる。塗り潰された彼等はもう、彼女を見ることはできない。彼等はもう神を忘れてしまった。記憶の中とは言え半身を引き裂かれる感覚に、彼女は思わず自身を抱きすくめる。痛みよりもなにより寒いのだ……誰かの中にいる自分が消えるというのは。



「……その呪いを誰が与えたのか、お前達は忘れてしまった」


 呪いすら、彼女が彼等に与えたものであったというのに――彼等は其れすら忘れてしまった。




 ざばぁと意識が浮上する。


 見慣れた天井、心の安らぐ匂い。香を焚くでもなく仄かに薫るそれは甘やかであるのにどこか清涼感があって、それはつまり化生にとって馴染み深い、己の帰る場所という香なのだろう。


「おや、眼が覚めましたか」


 そして傍らより耳へと届く、馴染みの音。彼は傍らに置いた机に向かって何か作業をしているらしい。ああ、どうにもくぐもって聞こえるが、それでも愛しい、愛しい音だ。


「……夢を見ておったよ……旅先から随分と寝こけてしまったようじゃのう。まだ、目覚める事ができる、か……」


 誰にでもなく口にする化生に、人の子は膝を上げてそっと彼女の布団近くへと座り直す。そして静かにこう云うのだ。


「おかえりなさい」

「ああ、……今、戻ったよ」


 人の子は化生をそっと抱き寄せると、その小さな唇を優しく噤んだ。


 目が覚めたのですか、おば様! なんてバタバタと蝙蝠の少女が走ってくる音が聞こえる。焦らずとも母は逃げませんよ! と彼女を窘めつつも早足に此方へと向かう愛し子の声も又近くにある。――ああ、なんと幸福なのだろう、誰かに囲まれて生きるということは。化生は人の子から顔を離すと、その幸せを目一杯に抱き締めた。

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