お題【任意の言語】をテーマにした小説

 じめっとした暑さが身体に纏わりつく、そんな不快な夏の日のことだった。出版社に勤める私は急遽先輩の代役として、先輩が担当している作家の元へ原稿を取りに行くことになった。作家の名は南野誰某なんの だれそれ、勿論ペンネームで、本名は南野慎太郎みなみの しんたろうというごく普通の名前だ。偏屈と噂されている彼の元に行くのは正直言って気が引けているのだが、いい加減に原稿を取りにいかないと紙面に穴が開いてしまうという面倒なタイミング故に誰かが行かねばしょうがない状況になり、そして編集部の中でも新人よりは仕事を覚えていて、熟練社員よりは仕事を押し付けやすく、ちょうどよく手が空いているような人間に該当するのが私だった。


「南野先生、ご本人でお間違いないでしょうか?」


 家の中に上がらせてもらった私は、眼鏡をかけた男性に迎えられた。少し白髪交じりの髪は伸ばしてあるというよりは切るのを放棄しているという感じで、乱雑にゴムでまとめられている。年はもう40を超えているはずだが、30代どころか20代後半と言っても通用するくらいには若々しい。


「ああ、君が八重樫君の代理で来たという……ええと、なんといったか」


横手よこてです。本日はよろしくお願いいたします」


「ああ、ああ、そう堅くならなくてもいいよ。ところで横手君、キミは……私の家に来るにあたり何か聞いていることはないかね?」


 南野先生の問いかけに、思い当たる節がひとつだけあった。それは仕事の引継ぎとしてではなく、以前休憩室でコーヒーを飲んでいた時に世間話の延長として語られたものだったが。


「南野先生に原稿を貰う時は暫く世間話をする、そのように伺っていましたが」


「ああ、八重樫君はそう言ったのか。ああ、うん。適切だろうな。君はラバーダックデバッグということを知っているかね?」


「いえ、初耳ですが……」


「プログラマーが問題解決に用いる手法らしくてね、自分が作っているプログラムのことをゴム製のアヒルのおもちゃに向かって話しかけるんだ。決して気が触れたからではない。そうすることによって問題の解決策を思い付くことがあるんだ。そして私はゴムのアヒルの代わりに八重樫君に話を聞いてもらっているんだ」


 人にものを教えるとかえって理解が深まる、と家庭教師のバイトをやっていた友人に聞いたことがあるが、そういうことなのだろうか?なんとなく理解したつもりになった私は「はぁ、なるほど」なんて気の抜けた相槌を返し、南野先生も特にそれを咎めることなく話し続ける。


「そこでだ、今日は横手君にアヒルになってもらいたいのだが、かまわんかね?」


「えーっと、それを聞いて何か感想や意見を求められたりは」


「ああ、しないとも。私はただ話し続けるから君は聞いていてくれればそれでいい。勿論、相槌をくれるに越したことは無いがね」


 正直に言えばよくわからない部分もあるが、とにかく話を聞くだけでいいというのならばさした負担になるまい。長引いた時に備えて鞄からスポーツドリンク入りのペットボトルを取り出しつつ、私はそれを承諾した。


「ありがとう、流石八重樫君はいい後輩を育てている。さて、話というのは単純だ。言語というものは常に変化するだろう?例えば今時アベック、ナウい、と言った言葉は所謂死語とされており日常生活で使われることは少ない。正確に言えば廃語なのだがまあそこは勘弁したまえ。歴史的な単位になるがいとをかし、なんて言葉も日常的に使われないだろう。言語そのものという単位で言えばプロシア語なんかはまさしく使われなくなった死語だね。ここまではいいかな?」


 捲し立てる南野先生に思わず圧倒されそうになるが、スポーツドリンクを一口飲んでから大丈夫ですと返した。先生は特に表情を変えることなく続ける。


「もしかしたら我々が知らないだけで、存在した痕跡すら見つかっていないような言語だってあるかもしれない。旧石器時代、文字を残す文化を持たなかった我々の祖先がどういう会話をしていたのかなんてわからないわけだからね。さて、ここからが本題になるのだが……我々の使っているこの日本語、これは未来においてどうなっていると思う?」


 聞くだけでいいと言われたはずなのだが早速意見を求められた。


「ええと、そうですね……数百年くらいしたらこの言葉も使われなくなっているんですかね?」


「うむ、その可能性は否定できないだろうな。例えば今は英語と中国語がグローバルな言語とされているが、それだってもしかしたら何年か後には無くなるかもしれない。未来において核戦争が起きないと誰も否定できない以上、どんな言語、そしてそれを話す民族にも途絶える可能性は存在する。そんなのは寂しいと思わないか?」


 たしかに、日本語が無くなるのは寂しい気持ちがある。しかしそう返答するよりも早く南野先生は言葉を続ける。


「そこでだ、私は思ったのだよ。現在過去未来、あらゆる時代のあらゆる人間が理解できる言語が開発できればいいのにな、と。無理だと思うか?ところがふたつだけその可能性が存在する。それはなんだと思う?」


 正直に言って思いつかない。そんな苦い顔を知ってか知らずか、いやきっとどちらでもいいのだろう。私のことなんて関係ないように話を続ける。


「ひとつは非言語コミュニケーションだ。歌詞のわからない洋楽に感動するように、指を指してThisを表現するように、言葉ならぬ言葉が存在する。しかしこれは記録として残しにくいのが難点だ。そこでもうひとつの方が重要になる。それはだね」


 南野先生は息継ぎをして、少し勿体付けてからそれを口にした。


「バベルの塔崩壊以前に使われていた言語だよ」


「それって……」


 聞いたことがある。昔世界中の人間は同じ言葉を使っていて、協力してバベルの塔という文字通り天に届く高さの塔を作ろうとした。それに怒った神様が人間の使う言葉をバラバラにして、二度と全人類が力を合わせるなんてできないようにしてしまった。という神話だ。


「神話、或いは御伽噺……ですよね?」


「そう思うかね?」


 その言葉に、私は背筋が冷たくなった。そうなるだけの迫力があった。


「私はね、手に入れたのだよ。それについて記された書物を。ただ、誤算があってね……その言葉は既に失われている。だから、私にはその書物を読んでもなんて書いているのかわからないのだ。言語学者の知り合いでもいればよかったのだが、そううまくはいかなくてね」


 そう言いながら、いつの間にか南野先生の手には一冊の本が掴まれていた。古い装丁の本だ。たしかに、見たこともない言葉でタイトルらしきものが書かれている。だが、それはきっとバベルだのなんだの無関係なものだ。


「先生、その本が仮にそのバベルの塔以前の言語で書かれた本ならば、おかしなことがありますよ」


「む、なんだね?」


。どう見たってそれだけ状態のいい本ならば作られてからせいぜい数百年くらいじゃないですか?」


 そう。大昔、羊皮紙で書かれたような本だって今の時代にはそれなりにボロボロになっている。南野先生の言うような本ならば書かれてから千年や二千年では効かない。それにしてはあまりにも新しすぎた。


「……ふぅむ、なかなかいい出来だと思ったのだがね。だがいい着眼点だ。八重樫君はやはり良い後輩を育てたよ」


 どうやら話はそれで終わったらしく、南野先生はそのまま引き出しから原稿を取り出すと封筒に入れて渡してくれた。話が終わってからというものの先生は終始上機嫌で、見送りまでしてくれる始末だった。


 結局、先生はわざわざ古い本らしきものを作ってまで話をしたかったのだろうか?或いは、ナントカ語という単に死語になった言葉で書かれた書物を偶然手に入れて、それがバベルの塔の話と結びついたのだろうか。モヤモヤしたものを抱えたまま、私はそのまま帰路に就いた。



                  ◇



「いい着眼点だったなぁ、横手君。だが一歩、足りなかったなぁ」


 南野慎太郎は古い装丁の本を撫でながらゆっくりと呟く。


「確かにこの本は新しい。書かれてから三百年くらいかな?ふふふ、本当にいい目をしている。だけどね、これはただの写本なのだよ……世界最古の本はせいぜい紀元前五百年程度がいいところだが、内容を書き写し次代まで引き継ぐだけならば媒体は何でもいいのさ」


 そう言うと立ち上がり、ゆっくりと歩いて本棚に戻す。


「■■■■■———」


 その本のタイトルをぼそりと呟きながら。


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