第6話 変転


 頬の濡れる感触で目覚めると、灰色の雲にどこまでも覆われている空があった。ぽつりぽつりと水滴が落ちてきて、手や顔に当たる。その冷たい感触のおかげで、ぼやけていた頭の中がはっきりとする。辺りに漂っている雨の匂いを嗅いで、この雨はたぶんじきに激しくなるだろうと何となく思った。


 麻布につけている頭を持ち上げて、起きてみると気が付いた。何だか身体が奇妙な感じである。怠いわけでは無い。だから病や疲労では無いだろう。なら昨日飲んだ酒のせいか?


 いやそうじゃない。


顔を上げて、異変に気が付いた。


 どうして空から落ちる無数の雨粒が止まって見える?


 どうして、あんなにも遠くで寝ている奴の息づかいが聞こえる?


 どうして風が吹く向きを予測できる?


 この空気の粘り気は何だ?


 体を起こしたまま我を忘れて光景を疑った。ハッとしてすぐに周囲を観察した。

周りを森が囲んでいる。少し遠くに山の峰が見える。傾斜のある地形も変わっていない。そこにある物もまったく同じものだ。あそこに昨日の宴の跡がある。くたばったように寝ている野郎共がたくさんいる。あるものは昨日のままで、何ら不自然なものはない。


 しかし、見え方がおかしい。聞こえ方がおかしい。まるで昨日とは別の場所に居るみたいだ。

手掛かりを探している最中に、視界に何か不自然な物が入った。それを探してキョロキョロと周囲を見ていると、不意にその違和感の正体は自分の肢体だとわかった。


 視界に映るのは、明らかに俺のものではない、女のような華奢な手足だった。手足を見ていると、顔の前に長い黒髪が垂れてくる。垂れた髪を払って立ち上がると、やけに視点が地に近い。背の低いのに気が付いて、はっきりと自分の身体に何かが起きたのだと理解した。


 昨日覚えず物の怪共の妖術に掛かったのか。しかし、一体いつだ。誰が俺に。

様々な疑問が頭に浮かんでくるが、とにかく自分の姿が気になる。だから、鏡面を探そうと、戦具が積まれた一画へと向かうことにした。


 草の上を歩いている途中、周りの武者が目に入る。約半分がまだ寝ていたが、次々に目覚めていく。目覚めている者が自分の近くに寝ている者を起こすからだ。


 アレを見ろ。アレを見ろ。

起きると奴らは決まって俺を指差して、そうざわざわと騒ぎ立てた。騒ぎは瞬く間に広がっていくのだった。そして、俺を見て必ず顔を青くした。俺の歩く方からどいて道を空けた。


 空いた道を通って、戦具置場にようやく着いた。昨日の駕籠かごやかつらや着物が置いてある。

鏡を探しながら周りを探る。皆が目覚めて俺を見ている。嫌な気分だ。不安が胸の奥で虫のように這い回って気持ちが悪い。


 奴らは寝ていたのに、突然立ち上がり次々と武器を手に取り出した。それに少し焦って探すと銅鏡が出て来る。戦化粧に使う鏡である。

 俺が銅鏡を手に取って、その鏡面を自分の方に向けたとき、大きな声が空に響く。


「――が出たぞッッ!」


 確かに聞こえたはずなのに、彼らの言う言葉が理解できない。真っ白になった頭の中に何も音が入ってこない。

手が震える。思わず鏡を落としそうになる。いっそ落としてしまえばよかった。落ちて割れてしまえば良かったのに。


 何を間違った?どうして俺なんだ。どうしたらいい?何を言えばいい?何もかも分からないのに、何もかもが終わってしまうことだけは分かった。

靡いた長い髪が鏡にかかる。

俺の髪じゃない。そう呟いても目の前から消えない。

恐る恐る髪の毛を払って、もう一度鏡面を覗く。何度も何度もまぶたしばたたいて見直す。

しかし、像は変わらない。


目の前にある鏡面には、楚々そそとした美しい女の顔が映っていた。

きっと男ならばハッ…と紅い想いに打たれるに違いない、綺麗な女だった。


きっと誰しもが、この女に強く惹かれるはずだ。

 もしも、この女の頭に二本の角が生えていなかったなら――――


鏡を捨てて振り返ると、俺を囲うようにして、大勢の武者が武器を持って立っていた。

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