憤怒 wrath_09

 先生の言う事は難し過ぎて、時々理解できない。

「たいていの人間は、愛する人に裏切られるより死なれるほうが楽なんだ。裏切られた惨めさや憤りは、相手が心底から罪を認め、改心してくれない限りどうにもできない。それでも人間は謝罪の言葉だけでは裏切りを許せないし、許したつもりでも裏切りによって付けられた傷はいつまでも膿んで残る。生きている限りいつまでも続く不随意の苦痛になってしまうんだ。だけど、自分を愛してくれていると信じているうちに大切な人に死なれた場合は、弔いながらも、不思議と『自分はあの人に愛されていた』と安らかな気持ちでいられる。死者を哀れんで泣くことは決して人を惨めにはしない」

「誰かが死んで泣くのは惨めじゃないんですか……」

「裏切られることに比べたら、ね」

「死なれるより、裏切られる方が惨めで辛いって事ですか?」

「間違いなく、その通りだ」

 あまりにも自信に満ちた態度で堂々と宣言されたので、浮かんだ疑問や反感は泡沫のように呆気なく死んでいった。

 乾いた砂に水が染み込むように先生の言葉は魂に届いた。

「そうなんですね……」

「そうだよ」

「あいつを殺せば、もう峰子さんは傷付けられませんか?」

「もちろん」

 理屈はよく分からなかった。だけど、先生が言うなら完全に正しいのだと思う。先生は真理だけを言葉にする。先生は惨めな自分を生まれ変わらせてくれる神だ。先生の言う通りにする。先生が好きだから。先生だけが救ってくれるから。

 先生は噛んで含めるように説明してくれた。

「和臣の母親は亡夫の実家には寄り付かないのだったよね。姑の峰子さんに一切の気遣いをしていない。そういう女は例え息子が殺されたとしても、姑と悲しみを分かち合おうとはしない。つまり三鷹を離れた後の和臣の動向は、おそらく峰子さんには伝わらない。和臣の素行が悪かった事も、一度として祖母を見舞いもしなかった事も、何ひとつ、彼女が耳にする事はないだろう。知らされるのは、ただ孫が殺されたという事実だけだ。だから、君が和臣のふりをしていたことは、彼女には永遠に知らされない」

 永遠に秘密を守れる。峰子さんを守れる――

「君は逮捕されるかもしれないが、峰子さんの見舞いをしていた孫が偽物だったということはバレないだろうということだよ。逮捕されるのは峰子さんの知らない他人だ。優しい孫に愛されていたという想い出は、生涯、彼女の誇りになって残るだろう」

 先生は祭壇の上で託宣を告げる神官のように高らかに宣言した。

「死者は美化され、二度と彼女を傷付けない」

 その瞬間、目も眩むような強くて清らかな光に包まれた気がした。

「ああ、そうなんですね。やっと意味が分かりました」

「ただし、殺すのは三嶋だけではいけない。それではすぐに動機が知れてしまう。その線を辿られれば、君がしていた事まで露見する。だから、木を隠すには森の中だ。無差別の快楽殺人に見せかけなければいけない。最低でも三人、出来れば五人殺すべきだ」

 その恐ろしさに身震いした時、温かい手が肩に添えられた。

「……と言うのは冗談だよ」

「え……?」

 やるな、という事ですか?

 俺は先生が何を言わんとしているのか理解できなくなって混乱した。峰子さんを守る道はそれしかない、と言ったのに、今度は手のひらを返して冗談だと言う。

 先生は何を言っているんだ?

 謎かけ、だろうか?

 難解な作中でのミスリードのように、俺を試している?

 俺は上手く解ける自信が無くて情けない顔をしてしまった。先生は俺がバカだから失望したかもしれない。それが恐くなって全身から汗が噴き出した。耳に膜が張ったようになり、鼓動がうるさい。空気が薄くなったように感じる。苦しさに喘ぎながら先生を盗み見たら、正面から視線が合ってしまった。

 先生は優しく微笑んでいた。良かった。まだ見捨てられていないかも……

 許されるなら、たぶん、先生の足元に這いつくばって縋りついていたと思う。

 先生は、ゆっくり、遠回しに、つまり密やかに、俺の進むべき道を示してくれた。他の誰にも知られないように。

「君なら上手く問題を解決出来るはずだ。躊躇したり、やっぱり出来ないなんて逃げを打って、失望させないでくれ」

「それって、どうすれば……?」

「軽蔑したくないんだよ。君を、好きでいさせて欲しい」

 憧れの先生に好きと言われて目が眩んだ。心を奪われ、思考回路を塞がれる。誇りを感じ、あまりにも高く舞い上がって、もう地面に戻れなくなった。

「殺せということですよね?」

「いや、そういう意味じゃない。君なら解決出来るはずだと言っているだけだ」

 でも、先生は「他に方法は無い」と言った。じゃあ、やっぱり、三嶋を殺せという意味じゃないのか。殺さなければ、あいつは彼女を傷付ける。殺さなければ――

 考えに浸っていたら、トンと先生に肩を叩かれた。反射的に顔を上げる。先生は先刻から少しも変わらず穏やかに笑っていた。

「ところで、三嶋に抱かれるのはどんな感じだった?」

「え……?」

 カウンセラーのような顔で、唐突に妙な事を言われて動揺する。どうしてそんな事を訊かれるのか分からない。

「私が君としてみたいと言ったら、どうする?」

 どくん、と心臓が跳ねて、体の奥が疼いた。恥ずかしい話だが、先生が相手なら、そうしてみたいという願望があった。あれほど嫌だった行為が、相手が先生なら甘美な行為のように思える。思わず口走っていた。

「……素面では嫌です」

「素面じゃなければいいの?」

 あ、と微かな声を零して身じろぎした。願望を見透かされたのではないかと身の置き所の無い切羽詰まった気分になる。そういう意味じゃありません、と聞こえない声で言い訳した。あなたをそんな目で見ているわけでは……

「断るという選択肢もあるんだよ? 君はまずそんな当たり前のことから学んでいかなければいけないね」

 戸惑って顔を上げると、先生は相変わらず穏やかな顔で笑っている。先生の言わんとするところが分からない。

「揶揄ったんですか?」

「そうじゃないよ。ただ、君に自分を大切にするという事を教えたいだけだ」

 先生は俺に何かを教えようとしてくれているのだろうか。分からない。

「素面でするのが嫌なのはどうして?」

「え?」

「自分の意思で楽しんだことになるから?」

「あの……」

 正直に答えるべきなのか迷って、二度、瞬きした。

「自分の意思でなければいいの?」

 畳みかけるように問われて、思わず頷いていた。

「そうかもしれません」

 薬のせいにすれば、和臣に無理強いされたのだと言い訳できる。それなら、見苦しい嬌態も自分から切り離して他人事として片付けられる。目を逸らしていられる。

「じゃあ、縛ってあげようか。それなら無理強いされたことにできるよ?」

 射すくめられて俺は動きを止めた。目を見開き、先生の顔を凝視する。そうしてくれるなら、そうして欲しい。そう言いかけた時、差し出した甘いお菓子を取り上げるように先生は逃げた。

「冗談だよ。嫌な事はしなくてもいい。ただ、少し興味があったんだけどね。私は女性としかしたことがないもので」

 巧い逃げ方だ。その言い方なら、したくないと言ったのは俺の方になる。先生は責任を負わずに面倒な相手を拒絶した。でも、それでいい。先生には綺麗でいて欲しい。ガッカリはしたけれど、それ以上にホッとした。

 安堵すると、習い性になった尊敬と憧れが首をもたげる。やはりこの人はすごい人なのだ、と馬鹿の一つ覚えがやって来た。俺は目を輝かせていたと思う。

「すごいですね……」

「なにが?」

「俺は、綺麗な女の人とは挨拶するのが精一杯です」

「ははははっ……」

 先生は笑った。声を上げて、弾けるように。

「どうして笑うんですか?」

「いや、失礼。悪く思わないでくれ」

 肩になれなれしく手が置かれる。

「君という人物が魅力的で愉快だからだよ。実に、可愛くて、可哀想だ」


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