【第四章/強欲 avarice】

強欲 avarice_01

 黄金の林檎は闇の中にふわりと灯る篝火のようなものだ。

 必ず人の目を惹き付ける。

 投げてやれば誰もが喜んで手を出す。

 黄金の林檎は、あり得ない幸運であり、妄想だ。

 くだらない欺瞞だというのに、屈辱に押し潰されそうになっていた彼は、よだれを垂らさんばかりに欲しがった。貴重な可能性に見えるそれは救いであり、希望だからだ。助かりたいと悶えている人間が都合の良い嘘に縋らずに済むには、よほどの自制心が要る。

 ところで、何を屈辱と捉えるかは人それぞれだ。

 嘲弄される、罵られる、暴力を振るわれる、能力を認められず軽んじられる、凌辱される、搾取される、否定される、無視される――これらのことには大抵の人間が屈辱を感じ、強い憤りを覚えるだろう。だけど、人間は複雑で、人によっては優しくされたり同情されることが屈辱になる場合もある。様々だ。

 それでも、ひとつだけ、すべての人間に共通する性向がある。

 屈辱から抜け出そうとすること。

 人間は、屈辱を受け入れられるようには出来ていない。だから、逃げる。逃げ方もまた人それぞれだ。あからさまに反抗する人、知恵を絞って対抗する人、目を逸らし忘れたふりをする人、自分を騙し実は自分が望んでいるのだと思い込んで誤魔化す人。うまく逃げられずに苦しむ人も多いが、ともかく、人間は屈辱から抜け出し逃れようとする。

 彼の逃げ方は独特だった。

 弱い自分に耐えられず、強い存在になり替わろうとした。彼以外、誰も信じない荒唐無稽な理屈を組み上げて、妄想の迷宮に逃げ込んだのだ。

 彼をそこに落とし込むには、ほんの少し背中を押してやるだけで良かった。


   ***


 二〇一六年、十一月四日。午後。

 三嶋和臣の祖母、園部峰子の邸は三鷹市の閑静な住宅街にあった。その辺りは鬱蒼とした雑木林が贅沢に残る区画で、広い庭を持つ豪邸が多い事でも有名だった。

 園部家は明治から続く資産家で、峰子の住む家は昭和後期に建てられた西洋風の可愛らしい邸宅だ。広い庭はイングリッシュガーデンで、よく手入れされた芝生の横に煉瓦敷きの一隅があり、白いテーブルとベンチが置かれている。天気の良い日はそこで紅茶でも飲んでいるのだろうか。秋咲きの薔薇が満開で、淡い芳香が漂っていた。

 大理石の玄関はステンドグラスの光が揺れていて、家政婦に案内されて通された本物の暖炉がある客間も贅を尽くした造りだった。壁に掛けられた絵画や、磨き込まれた組木細工の床が往年の権勢を雄弁に物語っている。

「刑事さん、またいらっしゃったの?」

 峰子はリビングの中心に置かれたアンティークの安楽椅子に、気品のある姿で座っていた。白い髪をゆったりと結い、明るいグレイのワンピースを纏い、肩に白いレース編みのケープをかけている。盲いた瞳は自然に閉じて、リラックスしているように見えた。

「綺麗なお婆ちゃんですね」

 声を潜めて言った晴翔の方を、峰子はくるりと向いた。

「あら、ありがとう」

「あ、すいません、聞こえちゃいましたか。失礼しました」

 晴翔は軽く舌を出し、悪びれずに頭を下げた。峰子はまるでそんな晴翔の姿が見えているように、ふんわりと微笑む。

「悪口は嫌だけど、褒め言葉なら大歓迎よ。わたくし、目は見えませんけどね、耳はとっても良いの。なんでも聞こえますよ」

 二階堂は少し虚を突かれたような気分になっていた。穏やかな老婦人だ。孫が陰惨な事件に巻き込まれて殺害され、悲痛な思いで過ごしているだろうに……気丈なのか、あるいは現実を理解していないのか。

 二階堂は無礼を承知で、挨拶もそこそこに訪問の目的を切り出した。

「本日は、こちらを頻繁に訪ねていらしていたという、お孫さんの話をお聞かせ願いたいと思いまして……」

「孫の話ね。前も二度ほど聞きにいらっしゃったのに……」

 そこで、峰子はハッとしたように動きを止めた。

「あら、あなた、右側にいらっしゃるあなた」

「私ですか?」

 指を差された二階堂は、何事だろう、と身構える。

「ええ、そう、あなた。二度目の事情聴取の時にいらっしゃった刑事さんでしょ。ご苦労様です」

「声でお分かりになるんですか?」

「ええ、分かりますとも。目が不自由になってからは、一度聞いた声をしっかり覚えて置けるようになったんですよ。最初の頃は間違える事もありましたけれど、もう間違えません。どなたがいらっしゃっても聞き分けられますよ」

「すごいですね」

 晴翔は無邪気に追従する。嫌味にならないところが晴翔の特質だ。それにしても、まさか目の見えない老婦人が一度訪ねただけの相手を見分けるとは、と二階堂は意外だった。

 話が一旦落ち着いたところで、住み込み家政婦の米原が明るく気さくな調子で割って入る。

「今、お茶を淹れてまいります。どうぞ、お掛けになってお待ちください」

「いえ、お茶は結構です。お気遣いなく」

 慌てて遠慮したのだが、米原はそそくさと部屋を出て行ってしまった。二階堂は米原が紅茶を淹れて戻ってから峰子に話を聞く事にした。米原の反応も見たい。

 テーブルに四人分のティーカップとクッキーが並び、どうにもしまらない雰囲気で聴取は始まった。

「さっそくですが、八月二十一日、三嶋和臣さんがこちらにいらっしゃったという件についてお話しして頂けますか」

 八月二十一日――三嶋和臣が殺害された翌々日だ。

「ええ、来ましたよ。いつも通り、お土産にタルト・タタンを持って来てくれて、みんなで一緒に頂いたんです。それがとっても美味しいんです。わたくし、もうあれ以外は頂けないわ。酸味と甘味のバランスが素晴らしくて、世界一のタルト・タタンですよ」

 へえ、と晴翔は呑気な態度でクッキーを頬張る。

「本当にお好きなんですね。どこの店で買った品か分かりますか?」

「それは内緒って、あの子が……」

 うふふ、と悪戯を隠す少女ように、峰子は軽やかな笑い声を喉の奥で転がした。

「俺達も先日タルト・タタンを出している店を見付けました。隣駅の吉祥寺にあるんですが、あれもなかなか酸味と甘味のバランスが良くて美味かったです」

「そうなの? でも、きっと孫が持って来てくれるタルトの方が上だわ」

「ええ、そうですね。きっとそうだと思います」

 晴翔は柔らかく調子を合わせて頷いた。

「ねえ、以前から言おうと思っていたんですけれどね。警察が一生懸命捜査をしてくれているのは嬉しいんですけれど、わたくしの孫は死んでなんていませんよ」

「奥様、そんなお話は……」

 家政婦の米原が慌てて女主人をたしなめる。奥様、ダメですよ、と重ねて言われ、峰子はおっとりとした声音で、そうだったわね、と素直に応じた。

 三嶋和臣が亡くなった事をこの老婦人は理解していないのかと憐れになり、二階堂は胸元を押さえた。手痛い失望も込み上げる。やはり手掛かりにはならないのか。認知はしっかりしているように見えたのに、これではアテにならない。

 心を鬼にして二階堂は必要な質問を吐き出した。

「和臣さんがこちらに通っていた証拠になる物はありませんか?」

 その言葉を聞いた途端、峰子は豊かだった表情を消し、見えない目で真っ直ぐに二階堂を射抜いた。その眼差しは、刑事さんはわたくしを疑っているのね、と悲し気に彼を責めている。それでも構いませんよ、と峰子は静かに目を閉じた。自分の見ている世界とあなたの見ている世界は違う、と。

「本人が映っている写真はありませんが、あの子が取ってくれた写真ならありますよ」

 晴翔は目に見えて残念そうな顔をした。本人が写っていないのでは、和臣が園部邸を訪れていた証拠にはならない。二階堂には、晴翔が峰子に同情しているのがありありと分かった。

「念の為に見せてください」

 二階堂が言うと、米原は渋々の態で、邸のどこかから分厚いアルバムを持ってきた。晴翔が受け取り、パラパラとページを捲っていく。二階堂はそれを横から覗き込む。他愛の無い日常を写した優しい写真ばかりだ。アルバムの中で四季が移り変わり、幸せなだけの歳月が流れる。収められているのは笑顔ばかりだ。

 ある写真の貼られたページで、ぴくり、と晴翔の指が止まった。二階堂もその写真をじっと見詰める。峰子と米原が正月のお節料理の重箱を前に、にこやかに寄り添っている写真だった。だが、その背後……

「二階堂さん、これ!」

 その写真の隅を指差して、晴翔は大声を上げた。

 高価な食器が収められたカップボードの横、細密な装飾がなされたアンティークの飾り棚の上に、照明の光を反射してキラキラと輝く、馬と、牛と、猿が、あのリアルな造形の三匹が、他の沢山の動物に混じって、資料写真そのままの姿で写っていた。

 十二匹いる。

 あの水晶の動物――物証班が散々探しても、遂に販売店を突き止められなかった、あの水晶彫りの動物だった。完全に同じデザインだ。

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