怠惰 sloth_08

「我が子ながら、和臣はまったく人に心を開かない子で、何を考えているのか分からないところもあったんです。気味が悪く思える事もありました」

「和臣さんはずっとそんな子供だったんですか?」

 ふっ、と寂しそうな微笑がうかぶ。

「いいえ、小学生の頃はむしろ天真爛漫な性格でした」

「何かきっかけが?」

「あの子が異常に用心深くなったのは中学二年生の夏頃です。クラスメイトがひとり自殺してしまって、酷くショックを受けて……数日学校を休んで部屋に閉じ籠っていたんですけど、出て来た時には、すっかり面変わりしていました」

「和臣さんのセクシャリティについては……」

「息子の事ですから薄々分かってはいました。母親ってね、子供がどんなに隠しても、そういう部分だけは分かるんですよ。あの子、綺麗な女の子と会っても照れたり逃げたりした事がありませんでしたから。刑事さん達も好きな子の前から恥ずかしがって逃げた事あるでしょう。そういうサインがあの子には無かった」

 息子が生きていた頃から暗い悩みが母子の間にあったのだろう。問題が顕在化しなくとも、母の、あるいは息子の影響は、お互いを雁字搦めにする。まるで自分と母の事のようではないかと二階堂は眉根を寄せた。幾分か不健全だと自覚していながら、いつまでも母の支配下に甘んじている。この仕事に相応しくない三つ揃えのスーツを着続けているのがその証拠だ。母と向き合い衝突する事を避けている。どんな家庭にも多かれ少なかれある問題だ。それが、三嶋家ではもっと重く暗かった……

 思うところはあるが、今は仕事をしなければならない。二階堂は深呼吸をして煩悶を追い払い、持参した百件近い名前のリストをローテーブルの上に差し出した。

「携帯端末に登録されていた個人のリストです。何か心当たりはありませんか?」

 あらかじめ業者やショップ、クリニックなどプライベートと関連性の薄い番号は分別し、個人が利用している番号のみ上方にピックアップしてある。六十三人。全員、アリバイは当たってある。千尋は紙面に目を滑らし、目を閉じて首を振った。

「分かりません。母親にも隠し事をしている子でしたから……」

「ここに名前の無い人物でもいいんです。誰か、和臣さんと親しかった人物に心当たりがありませんか? どんな古い事でもいいです。何か手掛かりになれば……」

 顎に指を当て、千尋はしばらく考え込んだ。

「龍之介……」

「え?」

「龍之介だったかしら……」

「……………………」

「ええ、たしか龍之介だったわ。和臣が小学生の頃、そんな名前の友達がいました。まだ三鷹に住んでいた頃、和臣が珍しく家に連れてくる子がいたんです。人間嫌いの和臣が自分の部屋に入れた友達は、後にも先にも、あの子だけでした。よほど気に入っていたんでしょうね。ただ、私はあの子が好きではなかったんです。養護施設の子で、和臣の友達には相応しくないと思ってしまっていました。今にして思えば恥ずかしい事です」

「その、龍之介君とは?」

 二階堂は期待を込めて千尋を見た。何か手掛かりになれば……

「もう十五年も前に引っ越して学校も別々になっているし、付き合いが続いている様子もありませんでした」

 千尋は先刻と変わらぬ疲れた顔で自分の指先を見詰めていた。二階堂は、彼女に気付かれないよう溜息をつく。手掛かりにはなりそうもなかった。

「もうひとつだけお聞かせください。和臣さんの祖母の園部峰子さんの件なんですが、峰子さんは、ここ二年ほど、和臣さんが月に二度か三度の頻度で見舞いに来ていたと仰っておられるのですが、ご存知でしたか?」

「まさか。そんなバカな事、有り得ません」

「バカな事ですか……」

「あの人、園部のお義母様は、こんな言い方はどうかと思うけど、とっくにボケちゃってるんですよ。和臣が行くわけがないわ。そんな思い遣りのある子じゃなかったもの。百歩譲って、あの子が祖母のお見舞いに行っていたとしても、月に二、三度なんて、そんなに時間を割くわけないじゃない。裏は取ったの?」

 二階堂は黙り込んだが、実のところ、裏は取れている。園部峰子が「和臣が来た」と主張した日の大半は、和臣は別の場所に居たと確認された。仲間とパーティーをしていたのだ。写真や動画の証拠も残っている。

 孤独な老女が寂しさに耐えかねて、孫が遊びに来ているという妄想を抱くに至ったという事だろうか。舌に苦いモノが広がって、目を閉じてしまいたくなった。

 駅まで戻る道すがら、二階堂は思わず愚痴を零してしまっていた。三嶋和臣の母親への聴取が徒労に終わり、自分でも不思議なほど落胆していたのだ。

「嫌な話を聞かされただけだったな。以前聴取に立ち会ったんだが、園部峰子さんは、優しそうで上品な、お年を召しても綺麗なご婦人だったよ」

「でも、親友の話も聞けたじゃないですか」

「十五年前に別れたきりの小学生の頃の親友か。古過ぎるだろ……」

 喉が渇いて自販機を探したが見当たらない。古いカフェを見付け、喉が渇かないかと誘い掛けたら晴翔は珍しくノリが悪かった。仕方なく駅まで我慢することにする。

「動機らしきものがあって、尚且つ怪しいのは伊東美津留しかいない。三嶋殺害当夜のアリバイが崩せれば任意で引っ張るんだが……」

 晴翔はもの言いたげに黙っていた。


   ***


 寒々しい室内だった。荷物は年月の分だけ増えているのに、なぜか自分の部屋という気がしない。長い間、彼は特定の好みを持った事が無かった。値段が手頃で、丈夫で、地味で人目を引かない事が選択の基準だった。誰にも興味を持たれたくない。そう思って生きて来た。人目を引いて良かった事は無い。好奇の視線。同情。善意の押し付け。干渉。人格の否定。支配。搾取。暴力。脅されて都合の良い奴隷に落とされる。それが結局のところ自分の辿ったコースだった。人目を引いてはいけない。

 だから、自分の意思でこれが良いこれが好きだと積極的に選び取ったモノはひとつしかなかった。

 兵藤静香――

 初めてあの人の作品を読んだ時、あまりにも自分と違うので、わけが分からない気分になった。どう表現していいのかも分からなかった。潔癖で強い人だと思った。どうしたらあんな精神を持ち得るのか想像もつかない。きっと育ちが良いのだ。自分とは違う。泥の中に頭を沈められた事など無い人なのだ。正々堂々としている。綺麗で、汚いところなんて少しもない、潔癖で強い、美しい人だ。

 あんな人間になりたいと憧れた。あんな人間になれれば、きっと、すべての罪が許されるから。先生になれなくても、せめて、先生の作り出した人格キャラクターになら……

 テレビ画面には軽薄な午後のワイドショーが映し出されている。室内は暗く、他に明かりは無い。ただテレビ画面だけが薄青い光を放つ。

 聞くともなしに聞いていると、神妙な調子を取り繕って視聴者の下衆な興味を煽ろうとするメインキャスターに釣られて、我の強そうなコメンテーター達は無責任な思い込みを銘々勝手に吐き出していた。

「連続殺人の様相を呈してきたこの事件ですけれど、一件目は三鷹のラブホテルで、二件目は歌舞伎町のラブホテルで起こったんですよね。被害者の遺体はどういった経緯でそんな場所に放置されていたのでしょう。殺されてから運び込んだと考えるのは無理がありますよね」

「そら、連れ込んでから殺したに決まっとるやないですか」

「それにしてもホテルの事業主が気の毒ですね。こんな事件が起きると客足が遠退くでしょう。変な話、営業妨害ですよね」

「ええ、最初の殺害現場になった三鷹のラブホテルは現在休業中です」

「みなさん、そないな話をしてる場合とちゃいますやろ。現場には金色に塗られた林檎があったっちゅう話ですやん」

「林檎と言うと……?」

「あんた、鈍いなぁ。例の三鷹の事件の時にも取り沙汰されたやないですかぁ」

「黄金の林檎殺人事件ですね。今回の歌舞伎町での事件も、被害者は刃物で胸を刺されていて、遺体の側に金色の塗料で塗られた林檎が置かれていたそうです。この林檎は何のサインだと思います?」

「小説に影響を受けたファンの犯行だって言われてましたよね」

「そもそも同一犯でしょうか。三鷹の事件は大々的に報道されましたしね、手口を真似た模倣犯の可能性もあるのでは?」

「模倣犯? あなた、今、模倣犯と仰っいましたね? ご存じないんですか? 三鷹の犯人こそが、小説を模倣して犯行を行った模倣犯ではないかと一時期取り沙汰されていたんですよ。模倣犯の模倣犯なんて、なんです、それ?」

「まあまあ。ところで、その作品、なんてタイトルでしたっけ?」

「兵堂静香氏の『黄金の林檎』です」

「フリップに兵藤氏のプロフィールと、『黄金の林檎』のストーリーを纏めてあるので紹介させて頂きましょう」

「それにしても端正な作家さんですね……」

「役者も裸足で逃げ出す色男ですな」

 つまらない奴の一言で思い出した。自分は初めて先生の姿を見た時は、予想外の事に猛烈な怒りが湧いたのだった。

「女だと思っていたのに」

 男だなんて想定外だ。

「先生が女なら、罪を洗い清めてもらえたのに……」

 兵藤静香という筆名は本名だと公式のプロフィールに書いてあった。他の情報は記載されておらず、ただ、それだけ。だから、単純に女性だと思っていた。年配の知的で厳しい母親像を期待していた。それが、まだ三十代半ば……思っていたよりずっと若い。しかも女にモテそうな知的で品の良いイケメンだった。才能も容姿も財力もすべて兼ね備えているだなんて嫌味が過ぎる。少し冷淡で厳しそうではあるけど……

「ずっと騙してたんだ……」

 期待を裏切りやがって――一瞬、そんな乱暴な言葉が脳裏をよぎったが、必死に抑え込んだ。この人を愛せなければ、他の誰を愛せばいいのだ。例え、本当はどんな人であろうとも、俺はこの人を愛し続けなければならない。

 でも、絶望はした。

 自分を正しく善良にしてくれるのは、子供の頃からずっと心の奥に抱き続けた理想の母親のような女性だと思っていた。きちんと躾けて欲しかった。きちんと勉強をして良い学校へ行けるように、夢と目標を持ってやりがいのある仕事に就けるように、社会からはみ出さず、周囲に祝福される結婚が出来るように、子供と家と車を持って──普通に、いや、ほんの少し恵まれて、だろうか……とにかく、満ち足りて、穏やかに安らかに誇らしく年老いていけるように……

 ただ、普通に生きていけるように、女に救ってほしかった。

 だけど、騙されていたのだ。男に恋をしていたなんて最悪だ。

 そう思うのに、兵藤静香を諦めきれなかった。

 ただ、絶望が重い。

 自分を愛してくれる理想の女はいなかった。穢れの無い女はいなかった。いや、ひとりだけはいたけれど、彼女が愛していたのは自分ではなかった。自分はしょせん身代わりでしかなかったのだ。

 結局、自分には愛して救ってくれる女などいなかった。

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