怠惰 sloth_06

 早瀬管理官に促され、科捜研の石倉という研究員が立ち上がった。分厚い瓶底眼鏡をかけて背を丸めた小男で、鼠を彷彿とさせる独特の容姿をしている。

「酒の種類が特定されました。アブサンです。珍しいリキュールなので、捜査の一助になればと思います」

「アブサン、聞いたことが無いな」

 郷田が訛声で唸る。郷田の無骨な外見では、まあ聞いたことも無いだろうと、二階堂は内心で勝手に納得した。

「文学好きには人気がありますよ。イメージが好まれているんです。十九世紀にフランスを始めヨーロッパの芸術家達の間で流行しました。幻覚効果があるなんてデマが流れて一時期は製造が禁止されていた酒です。まあ、なんということはない、当時は安酒だったので、浴びるように飲んでアルコール中毒になった患者が脳に異常をきたし幻覚を見たり錯乱したりするケースが続出しただけ、というオチですが……」

「なんだ、安酒かよ」

「いいえ。今、国内でアブサンを買うと高いですよ」

 うぐ、と郷田は黙り込んだ。どうも石倉が苦手のようだ。

「両被害者の胃の内容物、睡眠導入剤とアブサン、それに合成麻薬MDMAの他に、もうひとつだけ一致するものがありました」

 期待を込めて、一斉に石倉に視線が集まる。

「チョコレートです」

 期待が落胆に取って代わった。決め手にはなりそうもない。しかし、石倉は捜査員達の失望の溜息など気にもかけず無表情で続ける。分厚い眼鏡の奥で細い一重の目が資料の文字列だけを追いながら鋭く光る。

「みなさんは、犯人が被害者にどうやって薬物を飲ませたのか気になりませんか? 普通は初対面の人物に薬を差し出されても警戒して飲みませんよね。でもチョコレートならどうでしょう。雰囲気が良ければ口にしてしまうんじゃないでしょうか」

「薬物入りのチョコレートですか」

 一理ある。

 ナンパされた、あるいはナンパした相手に、薬を飲めと言われても飲むわけがない。例え一夜を共にするにしても、それとこれとは別なのだ。セックスは出来ても信頼は出来ないという勝手な部分は、女性の場合は分からないが、男性なら多かれ少なかれある。ワンナイトラブの相手が差し出した薬など絶対に飲まない。だが、チョコレートやキャンディなら油断して食べてしまうかもしれない。いや、感じ良く勧められれば、ほとんどの人が食べてしまうだろう。チョコレートなら薬の味を誤魔化すのにも向いている。

「しかし、どうやって混入させるんです? 薬剤は砕くなりなんなりして、チョコを溶かしてから混ぜないと。さすがに粒や粉を塗したのでは気付かれますよ」

「犯人は女子供のように手作りチョコを作ったって事ですかね」

「それにしたって、中学生が作るバレンタインチョコのようないかにも手作りという代物では、やはり警戒するんじゃないでしょうか」

 否定的な意見を受けて、石倉は生真面目な顔で端的に言った。

「商品に見えたのかもしれません」

「そんなバカな」

 ははは、と嘲弄するような笑いが広がる。茶化すような雰囲気の中、石倉は蛙の面に小便で、あくまでも淡々と説明を続ける。

「とにかく、チョコレートに混ぜたと考えると納得がいくんですよ。酒に混ぜるのは意外と面倒なんです。まず、犯行に及ぶその場で、ターゲットのグラスにどうやって薬物を混入させるかが問題になってきます。あらかじめ瓶に入れておく方法が妥当ですが、それだと自分も飲まなければならない状況になった場合に困ります。それに、瓶に混入させると酩酊させる量を飲ませるために大量の薬剤が必要になってきます。重度のアル中でもない限り、アルコール度数五十五のアブサンをその場で一瓶飲むわけがない。高い薬に無駄が出るんです。それに、酒だけで酩酊させられるなら、眠剤もMDMAも要りません」

 確かに、ターゲットがどの程度の量、酒を飲んでくれるか分からない。まともな人間なら酩酊するほどの量は飲まないだろう。意識を失わせる為に必要な量を摂取させる為に強い酒を大量に飲ませなければならないというのでは無理がある。

「その点、チョコレートは良いですよ。トリュフなどの形状にすれば、一粒にターゲットを酩酊させる為に必要な量の薬剤を混ぜ込んでおけます。スパイス入りのチョコなんてのもありますし、元々カカオの苦味を砂糖とミルクの甘味でコーティングして食べやすくしてある食物ですからね、薬物の味も、どうとでも誤魔化しが利きます」

 なるほど、とさすがに捜査員達にも納得が広がった。

「ただ、少し妙な感じがするんですよ」

 石倉は、腑に落ちない、と呟いて首を捻った。

「どういう事だ?」

「被害者はチョコレートだけではなく、ほぼ同時刻にアブサンを飲んでいるんです。だから、おかしいんです。試してみたんですが、この二つ食い合わせが最悪なんです。アブサンを飲んでからチョコレートを食べると、舌に膜が張ったように味覚が鈍磨して味がほとんど感じられないんです。マリアージュ……いまはペアリングと呼ぶほうが流行ってますかね……とにかく最悪の組み合わせです。ブランデーやウィスキーならともかく、アブサンをチョコレートに合わせるのは不自然です。どうしても飲ませるのであれば、薬物入りのチョコレートで酩酊させた後に……ということになるでしょうが、すでに酩酊させているのに、わざわざ度数の高い酒を追加で飲ませる必要があるでしょうか?」

「殺害に関係が無い行為ということか……」

「ええ、おそらく。アブサンを飲ませる事は、黄金の林檎や水晶の置物と同様の儀式的な行為に思えます。MOではなく犯人の署名とかんがえて良いのではないでしょうか」

 MO、署名――FBIのプロファイリングの用語だ。

 二階堂は、付け焼刃の知識を必死に脳の奥から掘り起こした。

 確か……「MO(modus operandi)=犯行の手口」と「署名(signature)=犯人の個性を示す特徴となるもの」は違う。FBIの連続猟奇殺人捜査官は、まず、その二つを見分ける訓練から始めるらしい。ラブホテルと言う密室に誘い込む事と絞殺、そして、薬物入りチョコレートは殺害に直接関わる必要な手口=MOだ。では、犯行の手口としては意味の無いアブサンは、動物を彫った小さな水晶の置物、心臓を抉り出して埋め込まれた黄金の林檎と同じく犯人の署名か? そうだ、と答えを出す前に、捜査の為の移動中、途切れ途切れに読んだ書籍に書かれていた別の知識も思い出す。署名に見えるものが、捜査を撹乱する為の「演出」、あるいは犯人なりのメッセージを、社会または特定の誰かに伝える為の意匠=「ポージング」である可能性もあるのだ。

「俄かの浅知恵ではダメか……」

 二階堂は首を横に振り、手に余る考えを吹っ切った。

 異常な連続猟奇殺人犯の頭の中など、常人の自分に読めるわけがない。

 他の捜査員達も馴染みの無いプロファイリングの話には興味を示すどころか、消極的にではあるが忌諱しようとする風向きだった。

 結局、薬物はチョコレートに混入させたのだろうという見解の統一のみがなされ、その話は落着した。些細な発見はあったものの、その時の捜査会議は、特に進展無しという結論で解散になった。


   ***


「伊東さんのパーティー仲間、全員当たってみましたけど、八月十九日、金曜日の夜に、山梨のキャンプ場でバーベキューしてたってアリバイは崩れそうもないですね。十七人中九人の携帯端末にその夜の伊東さんの写真が残ってましたからね。鉄壁ですよ」

 十七人全員に会いに行き、伊東美津留が本当にキャンプに一緒に行ったのか確認したのだが、全員が特におかしな様子も見せずに「深夜三時近くまでみんなで飲んでいた」と答えた。例え、深夜三時以降、友人達が寝静まってから抜け出しても、三嶋和臣の死亡推定時刻である午前三時から四時の間までに山梨から三鷹に到着する事は出来ない。

「伊東は少なくとも三嶋和臣は殺していない」

「そうなっちゃうんですよね……」

 念の為、伊東が映っている画像をコピーさせてもらって持ち帰り、科捜研に画像解析を依頼してみたが、当日当地の気象と星の位置など条件に齟齬は見られなかった。

 鵜辺野の身辺は三嶋と同じで特に問題は無いように思われた。関係者全員が口をそろえて「恨まれるような人ではなかった」と言う。

 携帯端末に登録されていたアドレスの多くがもう使われていないか、別の人物が利用していた死に番だったし、その他の番号の利用者――父、母、妹、父方母方の祖父母四人、高校時代の友人八人、仕事場であるイタリアンレストランの関係者十二人、仕入先の業者や行きつけの飲食店十三件の確認が取れ、その他に残った十九人が新宿二丁目で知り合った仲間と見られたが、皆一様に「何も知らない」と言った。

「やりにくい事件ですね……」

 そんな事を話しながら二階堂と晴翔がエレベーターに乗り込んだ時、堅城と但馬のペアが慌てて閉まりかけのドアの隙間に滑り込んで来た。

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