暴食 gluttony_09

 なるほど、と晴翔はわざとらしく両手を打つ。

 警察庁のキャリア――国家公務員一種試験に合格した警察庁職員は捜査員ではなく官僚だ。警察という組織を管理運営する国家公務員、いわゆるお役人、靴底を擦り減らして足で捜査する現場の兵隊から見れば、綺麗な部屋で書類仕事をしながら下っ端をこき使っている──とやっかまれる事務指揮官である。しかし上層部の感覚が現場と乖離しては組織の健全な運営は望めない。そんなわけで、将来の幹部に現場を経験させる為、警視庁捜査一課にも最低一人は警察庁から出向したキャリアを充てる風潮になっている。その一人に、早瀬あずさが抜擢されたという事だ。

「現場で失敗させて経歴に傷をつける為って噂があるそうですね。サッチョウのお偉いさんもなかなかえげつない事しますよねぇ」

 ピクリ、と再び二階堂の頬が痙攣した。

「その噂、誰に聞いた?」

「堅城さんですよ。さっき話し掛けたら教えてくれました」

「あいつ……なんて口の軽い奴なんだ……」

「雲の上には女性の出世を少しでも遅らせようとする勢力があるってことでしょう? いわゆる嫌がらせ人事ってやつですよね。エリートは怖いですね」

 二階堂は低く呻いていた。早瀬管理官はまだ若い。順調すぎる出世だ。女性が頭角を現すことを面白く思わない勢力もあるだろう。早瀬管理官はすでに一件、三鷹ラブホテルにおける三嶋和臣殺害事件を捜査本部の第一期期間内に被疑者逮捕に至らず解散させたと見做されている。

 事件捜査における第一期期間とは、帳場と呼ばれる捜査本部を立ち上げてから三十日間を指す。その期間内に犯人を逮捕できなければ、警視庁の規定で三十日間を目途に一旦は捜査本部が解散される。重大事件を捜査する帳場は捜査一課だけでは人員が足らず、生活安全課など他部署からも無理に捜査員を動員するので、他の業務が滞り警察署としての機能を維持できなくなるからだ。事件は日々発生する。ひとつの事件にいつまでも多くの人員を割いてはいられないというのが実情だ。帳場が解散された後は管轄署の刑事数名が継続して事件の捜査を受け持つ。捜査の規模が縮小されるということだ。故に、第一期期間内に事件を解決できなかった場合、それは敗北と捉えられる。

 早瀬あずさは三嶋和臣が殺害された事件で成果を上げられなかったのだ。これが男性であれば、担当した事件のすべてが解決できるわけではないという、無念ではあるが避けようのない現実として考慮されるが、女性ならば能力を疑問視する事由になり得る。邪推と言われれば邪推であり、なんら証拠は無いが、捜査一課内ではまことしやかに、そう噂されている。

 正直に言えば、二階堂は早瀬あずさの力になりたいと思っていた。まだ誰にも打ち明けたことは無いが……

「事件がお蔵入りすれば早瀬管理官の査定に響く。三鷹では第一期期間内にホシを上げることが出来なかった。捜査本部が解散になって、早瀬管理官も悔しい思いをしているに違いない。これ以上の失態は犯せない。今度こそ、なんとしてでもホシを挙げる」

 二階堂は思い詰めた真摯な声で言い、晴翔は目を見開いた。

「あっ、さっそくそれ言っちゃいますか」

「どういう意味だ?」

「二階堂さんって、意外と分かり易い人なんですね」

「なんの話だ?」

「なんでもないです。早瀬管理官に良いところを見せようと張り切り過ぎて、足を掬われないよう気をつけてくださいよ」

「なっ、なにを……?」

「ちなみに早瀬管理官って恋人いるんですか?」

「う、うるさい。余計な話はするな。俺が知るわけないだろう」

「うわ、分っかりやすっ!」

「な……っ?」

 なんなんだ、この春夏秋冬晴翔という軽薄な男は。俺が早瀬管理官の心配をしたからと言って、それがいったい何だと言うのだ。何を勘繰っているのか知らんが、訳知り顔で勝手に納得しやがって。まったく気に入らない。

 こいつとの相性は最悪だ――

 ダンッと、二階堂は箸を持った手でカウンターを叩いてしまっていた。腹を立てながら掻き込んだので、せっかくの美味な食事を味わう余裕もなく、あっという間に食べきってしまった。そんな事にも腹が立つ。

「飯には付き合ったぞ。もう、いいか?」

 立ち上がりかけたら、不躾に肘を掴まれた。

「ダメに決まってるでしょ」

 別人のような真剣な顔で晴翔は二階堂の目を真っ直ぐ見据えていた。しかし、虚を突かれた二階堂が動きを止めた次の瞬間には、元の軽薄な雰囲気に戻っている。幻のような一瞬だった。コントロールされるように晴翔の話に惹き込まれる。

「二階堂さん、まさか、本気で飯食う為だけに誘ったと思ってないでしょうね?」

「違うのか?」

「捜査資料持って来てますよね?」

「持って来てはいるが」

「じゃ、本題に入りますか」

「さっきから、おまえは何の話をしようとしているんだ?」

 二階堂がまじまじと晴翔の顔に見入った時、控えめに志穂が会釈をして体の向きを変えた。

「お二人さん、私は外出てますんで、どうぞ、ご遠慮なく」

「ありがと、志保姉」

「………………」

 要は、捜査会議をしようという事だった。それなら最初からそう言え、と文句のひとつも言ってやりたくなったが、この上ごたごたするのは不合理だ。二階堂は煩悶を飲み込んで、渋々と捜査書類を取り出した。しかし素直に出すのも癪なのでカウンターに叩きつける。動じず真顔でひとつ頷いて、晴翔はおもむろに切り出した。

「さっき、歌舞伎町の被害者だけでなく、三鷹の被害者の携帯端末に登録されていたアドレスのリストにも軽く目を通したんですが、気になる事があったんです」

 カウンターに置かれた資料から一枚の紙を取り出し、すっ、とひとつの番号を指差し、別の紙に印刷されたリストも横に並べ、同じようにひとつの番号を指差す。

「この番号、重複してます」

 あっ、と二階堂は声を上げそうになった。

 二人のアドレスリストそれぞれに同じ番号が乗っている。つまり――

「三嶋和臣と鵜辺野遼、共通の知り合いです」

「おまえ……」

 双方、百件近くの登録があったが、その中のひとつ、確かに同じ番号だ。

「軽く見ただけで見つけたのか?」

「記憶力は良いほうなので」

 ぞわり、と鳥肌が立った。初めての手掛かりらしい手掛かりだ。明日には他の誰かも気付いただろうが、一歩先んじた。重要な件に最初に気付いたのが春夏秋冬晴翔だという事は気に入らないが、これはチャンスだ。刑事は仲間同士と言えども競合し、お互いを出し抜こうとする習性がある。手柄が出世に直結するからだ。それに、世間を騒がせる連続猟奇殺人犯逮捕の突破口を自分が切り拓ければ、早瀬あずさの役に立てたという密かな満足も得られるだろう。二階堂は、目の前の軽薄な男を見直す気になっていた。

 春夏秋冬晴翔、見た目の印象と違って出来るじゃないか。

「明日、朝イチで早瀬管理官に報告して、この番号の持ち主の調査は俺達に任せてもらいましょう。まだ被疑者とは言えませんが、この番号の持ち主が何か事件に関する重要な情報を知っているかも知れません。みんなで食い漁ると警戒して口を閉ざす事もあるかも知れませんし、まあ、そうでなくとも、大抵ろくな事になりませんから。せっかく見付けた手掛かりです。大事にしないとね」

 帳場が立って最初の三日間は、過剰な取材合戦を抑制する為に、相応の情報を提供する目的で記者会見を開く習わしがある。それが始まる前に管理官に対象への聴取の命令を取り付ければ他の捜査員を牽制できる。さすがに、事件決着まで、というわけにはいかないが、数日か、最悪でも明日一日は手掛かりを独占できる。

 二階堂と晴翔は、エールの軽い酔いに任せてぽつぽつと語り合った。

「一件目のガイシャの鑑取り、やり直す必要があるかもしれませんね。拾い切れなかった裏の交友関係があるかもしれません」

 晴翔に言われ、二階堂も実はそう思っていた事を自覚する。

 拾い切れていなかった事実があるはずだ。

 三嶋和臣の交友関係を再び洗い直す。三鷹の捜査本部の時に散々洗ったのだが、歌舞伎町の被害者との間に共通の知り合いがいたとなれば、話は別だ。無駄になるのでは、という危惧も無い事はないが、事件解決の突破口になるのではという期待の方が大きい。鵜辺野遼の身辺を洗いながら、三嶋和臣の身辺も洗い直す。それが正しいと思える。

「それにしても、この事件ヤマの帳場、マズいムードですね。人体が割れてホシが男だって分かってから、みんなモチベーション駄々下がりで……犯人も被害者もどうせゲイだって感じで、急に温度が下がりましたよね。対岸の火事というか、他人事というか」

 晴翔の愚痴に、二階堂も頷く。

「確かにそうだな。熱意を持って捜査に臨めなければ、本領を発揮する事も出来ないだろう。慢心して犯人を取り逃がすようなことにならなければいいが……」

「俺は四年前まで歌舞伎町交番に勤めてたんで、マイノリティが絡む事件の難しさは身に沁みて分かってます。本音と建て前がみんな乖離してるんです。本腰を入れて捜査をする刑事は少数派だと覚悟したほうがいいでしょうね」

 沈んだ声でそう言った晴翔は、疲れて遠くを見るような顔をしていた。

「たぶん、明日からの捜査は難しいと思いますよ。新宿は元々、口を割りたがらない参考人や証人が多いんです。ましてや二丁目は……」

「語りたがらない、か……」

「まあ、でも、考えようによっては功を競うライバルが減ったと考える事もできますよ」

「それは……良い事……なのか……?」

「さあ、俺には分かりません」

 数秒、複雑な表情で二階堂と晴翔は視線をぶつけ合った。

「手柄立てましょう、二階堂さん」

 晴翔が手を差し出している。

 嫌な奴だ。嫌な奴だが――

 二階堂は、ほんの数秒、躊躇ってからその手をしっかり握った。

「分かった。手柄を立てよう」

 気に入らない奴だが、相棒は相棒だ。協力して損は無い。

 タイミング良くノックが響き、志保が戻って来た。

「悪だくみの相談は纏まった?」

「お陰様で」

 それは良かったわね、という顔で志保はカウンターの中に戻り、ワインクーラーからシャンパンを抜いた。

「はい、相棒結成の祝杯、どうぞ」

「志保姉、ちょ……それ、なに出してくれちゃってんの?」

「モエのロゼだけど?」

「バ、バカじゃないのっ! そんな高い酒、誰が払うんだよっ!」

「ええ~っ、不良刑事二人に内緒話が出来る場所を提供してあげたのに、売り上げに貢献してくれないの?」

「公務員の安月給でそんな高い酒、無理だって~っ!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ晴翔と志保の脇で、こほん、と咳払いが響いた。

「俺が払う。授業料代わりだ。同じ釜の飯を食う意味が理解できた」

 二階堂が気前良く受け合うと、晴翔は声も無く目を見開き、志保は得たりと満面の笑みを浮かべた。

「あら、まあ……晴翔、今度の相棒さんホントに良い人じゃない」

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