第32話 少女の胸の中

「触るな! それに触るなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」




しずくが咆哮する。周囲の空気が振動しているのが分かる。その声はきわめて大きな声だった。風になびく木々がピタリと止まる。




しずくを縛っていた木の箇所がブチブチとちぎれていく。




「さあ、怒りの感情の化身よ。現れろ!」


ドクターが歓喜の声をあげる。その手には、何か筒状の物体が握られている。




しずくの輪廓を薄い赤い光が包み、彼女を宙へと誘う。彼女が両腕を広げると、赤と青、二種類の光が交差しながらしずくの身体の周りを飛翔する。その光は絡み合いながら雲を裂き天高く登っていく。




「うぅ。ごめんなさい、ごめんなさい」


しずくの漏れるような声。痺れるような感覚が俺の肌を撫でる。悪寒だ。消えてしまいたいそんな気持ちが空間を支配しているように感じる。




その背中から青い翼が出現する。 突如、青い翼がボコボコと泡立ち、背中からちぎれていく翼。




「な!?」


ドクターの声だ。




ちぎれた翼はさらに泡立ち赤黒く染め上がっていく。翼だったそれは、すでに翼の造形は保ていない。ぼこぼこと楕円系の三つの玉が連なったような形状に変化している。玉は浮上しており、その玉からどろっとした液体が垂れるように地面に落ちる。


その玉はしずくの背後で不気味にそびえ立つ。




「な、なんだ? これは? 怒りの感情の化身ではないのか?」


 ドクターが目を見開き表情が強張っている。




『やはり、君たちは【人の感情】というものをまるで分かっていない』


 アリエムがため息をつきながら、言葉を続ける。




『確かに、怒りの感情がトリガーにはなった。だか、それは割合的には少ない』




「貴様!、何を言っている?」


ドクターがアリエムに体を向け問う。




『感情の化身は、強い感情を媒介に誕生する。それが世界の理だ。それは正しいよ。人間の癖によくここまで辿りついたね』




「怒りの感情ではないだと? ならば――」




『嫌悪エクテラだ。この子は自分自身のうちに眠る自分本位な考え方、妹の真の安寧を望みながらなにもしなかった。自分に対する凄まじい嫌悪感に満たされている。嫌悪感という感情でいっぱいになっていた器に怒りという感情が加わり、嫌悪の感情が押し出された。そうして感情が世界の理に乗って実在化した』




 アリエムが淡々と語る。三つの支柱に支えられた三つの玉を中心に地面を少しづつ凍らせていく。そして、この玉を支える支柱から、青い翼を持った蝶が羽ばたいていく。




「なに! だが、やることはかわらん! 蒲生! 取り押さえろ――」


(なぜだ。完璧に誘導したはずだ! )


 ドクターが蒲生に命令する。俺でも分かる。こいつが取り乱していることを。




「う、美しいよ。しずく…………」


 蒲生は、両手を広げうっとりとした表情で、しずくに近づいていく。冷気が蒲生の足元まで迫っていた。それでもなお、ゆっくりと蒲生はしずくに近づいていく。ドクターの指示など聞いてはいない。




「何をしている。貴様!」






「そうさ、ここは僕たちの愛の巣。そうさ、そうさ」


 ついに冷気が蒲生を襲う。幾羽の蝶がゆっくりと地表を舞う。蝶の通り過ぎた箇所が次第に凍てついていく。森の木々が生気を失って枯れていく。蒲生の身体が氷に纏われていく。そして、完全に蒲生の身体が氷の中に納まってしまう。




 しずくが瞳を閉じたまま、ゆっくりと蒲生のもとに降りていく。彼女のまつ毛には白い氷のようなものが張っていて頬には凍った涙の跡が見える。そして、しずくが振り払う。すると、ぱきっと乾いた音とともに蒲生を纏う氷が一瞬でバラバラになる。




『よく、ここまで一人の少女が感情をため込んだものだ。これは昨日僕に言われたからなんかじゃない。きっとずっと彼女は苦しんでいいたんだろう。このまま、妹と居続けることが正しいのか。初めは怒りの感情を持っていたのかもしれない。だけど、次第にその感情は自分とこの世界に対する嫌悪感に変わっていったんだね。みんな僕の後ろに!』


 アリエムは、かがりの前まで飛翔する。その指示に従って、俺と相馬、はなはアリエムの後ろに付く。アリエムが前足を交差させる。すると、アリエムの前足から黄金の翼が出現する。




『みんな、来るよ』




「お前、知っているのか?」


 俺がアリエムに問いかける。




『あれは、嫌悪の感情の化身。感情の化身を一人の人間の感情だけで生成するなんてあり得ない。だけど、嫌悪の感情の化身は何度も見たことがあるよ。いや、嫌悪の感情の化身だけじゃないけどね。そして、僕らの知っている形とも違う。僕の知ってる限りでは、嫌悪の感情の化身は自分と世界を壊すまでとまらない』




「ラーーーーアーーーー」


 しずくが空に浮かび、しずくの身体が光を帯びていく。彼女の頬を無数の涙が垂れ流れる。そして、胸に手を当て、歌いだす。


 三つの球体がピキピキとひび割れていく。その球体の真横にひと際大きなひび割れが生じていく。まるで、ばけものの口のようだ。


 声が聞こえてくる。しずくの口は歌を歌い続ける。それでもなぜか、しずくの声が聞こえてくる。




『ごめんね。ごめんね。ごめんね。私、あなたのこと見殺しにした。一瞬でも生きてて良かったと思っちゃった。私、このままでもいいと思っちゃったの。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』




 しずくの声が止まり、次第に歌が大きくなっていく。三つの連なった球体からも歌が聞こえてくる。四


つに重なった歌声。どことなく寂しさを纏っているように感じる。三つの連なった球体が地面とつながったまま、それぞれが独立して、しずくの周りを回る。すべてが、繋がり合いながら。そして、冷気を含んだ風が吹き荒れていく。




 アリエムの前で何かが衝突し合っているように見える。アリエムが俺たちを守っているのだろう。そんな中、ドクターに視線を向けると、そこには悲鳴を上げているドクターの姿があった。




「ああああああああああ!、あああああああああああ!、身体が崩れていくうううううう!」


 ドクターの身体が、氷とともに強風で崩れていく。ドクターが手に持った筒状のものを嫌悪の感情の化身に向ける。すると、筒を中心に凄まじい勢いで空気を吸っていく。だが、感情の化身はびくともしない。




「な、なぜだ!」


ドクターの足が完全に崩れ落ち、こちらに向かって倒れ込む。




『分からないのかい? リンクが強いんだ。そんなおもちゃじゃあ意味はない。切り離せた個体もいたようだけど』


 アリエムがじっとドクターを見下すような口調でこちらに視線を向けてくる。




「はな、はなちゃんじゃないか。頼む。助けてくれ! お願いだ…………あ、」


 倒れ込みはなに命乞いをするドクター。その表情は、必死そのものだったが、はなは答えない。ただじっと、彼を見つめている。


 とうとう、冷気は彼の身体を包み込み、彼の肉体が萎み朽ちていき彼の肉体は限界を迎えた。吹き荒ぶ暴風を受け彼の身体だったそれは、消える。




 『あっけないものですね』


 ぼそりとはなが後ろから、呟く。彼女の命を奪った存在の死を目の当たりにして彼女はどう思うのだろう。




『あれ? しずく! え、なにこれ、動けない!』


 俺の後方で声が聞こえてくる。かがりだ。意識を取り戻したらしい。




「みんな、お願いするよ。よっと」


 相馬が手をかざす。すると、後方に待機していた巨人(恐怖の感情の化身)から無数の手が伸び、かがりを縛る木を壊していく。解放されたかがりがふわっと浮いて相馬の腕へ。




『しずくが! しずくが! しずくが!』


 相馬の腕で、かがりが暴れる。




「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だから!」


 相馬が慌てて、かがりを落ち着かせようと声をかけている。




『しずくは悪くないの! かがりね。全部思い出したの』




「思い出した?」


 俺がかがりに問いかける。




『うん。かがりね。お誕生日の日に死んじゃったの、そのとき神様にお願いしたの【しずくを守って】って、私はどうなってもいいって。それでね。神様にお願いしたのしずくを見守らせてって』


 キラキラと瞳を輝かせて、かがりは語りだす。




『だけど、しずくはもう持たないかもしれないよ』


 アリエムがボソッと呟く。




「どういうことだ!」


 俺がアリエムに向き直る。




『言っただろう。あのしずくの後ろにいるあの嫌悪の感情の化身は、自己嫌悪を内包している。つまり、宿主を壊すこともまた望まれている。見なよ。彼女を』




「な、身体が、身体にひびが!」


 俺は驚愕していた。言葉を発したのは相馬だった。




『それだけじゃない。あの歌だ。あれは、世界の終わりを願う歌。神にこの世の裁定を申し込んでいる。この世がどれほど、醜いか。不要なものなのかを。だけど、その感情だけでは、謁見は許されない。だけど、不足していても、この山周辺の生気を消すには十分なんだろうね。そして、彼女自身も』




「なんで、あんなに悲しそうなんだ……」


 俺は、しずくの表情から目が離せない。




『しずく!』


 かがりがしずくに向かって飛び出していってしまう。




「かがり!」


 俺はかがりを追って暴風の中に飛び込んだ。身体から力が抜けていくのを感じる。




『馬鹿か! 青葉!』


 アリエムが叫ぶ声が聞こえる。しずくの後ろでそびえる三つの連なった球体がゆっくりと円を描くように回る。辺りの木々さらにが枯れていく。かがりの手を引いて彼女を後ろにさがらせ、前に無理矢理身体を押し出す。




『へ?』


かがりの気の抜けたような声が聞こえる。かがりを背に嫌悪の感情の化身を前に手を見つめる。手が腕が感覚がない。ひび割れている。




 自分で思う。馬鹿だと言われその通りだと。でも俺は変わりたい。エルが引き出してくれた感情。普段ならできないこともこいつとなら。仮に俺がエルに操られている面があったとしても、それでも、【僕】は心の中で、そう願っていた。だから思うんだ。俺は素直になる。助けたいんだ。偽善と言われてもなんでもいい。ただ、それだけなんだ。




「掴み取るんだ。俺は何も出来なかった自分から変わるんだ。自分の意思で! エル。俺の気持ちが分かるか。応えろ俺の想いに! 一回でいい。あのばけものを貫く力を貸してくれ!」




⦅言ったはずだ。青葉、その鳥は君の感情を変える。そしてその行動さえも⦆




『ぱぱ』


 エルの声が聞こえる。




 胸の奥が熱い。怒りとは違う。熱いんじゃない。とても暖かくて安心するような感覚。


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