第5話 闘争

 1


 ゆっくりと着実に『やつ』は、僕に近づいてきていた。そう、刻一刻と、『やつ』と僕の距離は詰まっていく。


 逃げなければ、僕もあの女のばけものに殺される。僕は必死に病院からいままで来た道を戻る形で走る。


 ばけものは、依然として右手に包丁を携えて、ゆっくりと足をするように追ってくる。

 僕は、思った。病院のみんなにしらせなきゃ! でも、あいつが追っているのは、僕じゃないかもしれない。そうだ! 黙って家まで帰ればいいじゃないか。でも、先生たちに報せなきゃ、みんなは、間違いなくあいつに殺される。


 人間としての当たり前に持ち合わせている倫理観、自分だけ助かればよいという利己的な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え頭の中で逡巡する。


 そう、思考を巡らせているときだった。足元に小さな石ころが転がっていたらしい。僕は、その石ころに足を滑らせて、その場に正面から地面に突っ込む。普段なら、転びなんてしない、後ろめたさから、恐怖から足が固く重くなっていた。


 走って取れていた距離もじわじわと詰まっていく。次第に、ばけものの足を引きずる音が大きくなる。近づいていることを肌で感じる。


 僕は、地に膝を付けたまま、ゆっくりと後ろを振り返る。もう、ばけものとの距離は一メートルとなかった。僕は、再び立ち上がろうとするも、そのまま、足を滑らせて立つことができない。もう、ばけものを正面にとらえながら、尻をついて後ろに後ずさることしかできない。


「く、くるな、来ないでくれ」


 最初にばけものに襲われていた男性が脳裏に浮かぶ。ばけものが包丁を手に僕を目掛けて振りかぶる。ああー、死んでしまうのか。あの人にもう一度会いたかったな。走馬灯のように、これまでの記憶が想いが蘇ってくる。


「ゴギガガガガ」

 もう死を覚悟したそのとき、ばけものの一撃は空を切り、僕に届くことはなかった。その代わりに、ばけものが悲鳴のような呻き声をあげる。


「おおー。当たりましたね。あなた、私の教え子に何をしているのです。殺しますよ!」

振り返ると、京の宮が数本のメスを片手でジャグリングしていた。そして、ばけものに視線を移すとばけものの頭部には、一本のメスが突き刺さっていた。


「こう、月明りと街路灯の明かりしかないとみえずらいですね。あなた、何が目的でこんなマネをするのです?」


「グゴゴゴ」


「何です? ん? 青葉くん、これが君たちの言っていた。ばけものというやつですか。本当に顔がないのですね」

京の宮に接近するばけものを一瞥して、京の宮が教え子を襲っていたものが異常な存在であることに気づく。


「ならば、仕方ありませんねっ! 『弱いもの』いじめを始めましょうか!」

京の宮は一本のメスをばけもの目掛け投てきする。京の宮の手から放たれたメスは一直線にばけものの頸動脈に突き刺さる。


「ギガがガぁ」

短い声で、ばけものが唸る。しかし、京の宮の攻撃に怯みはするものの、その進攻は止まらない。


「おかしいですね。頸部を傷つけられれば、そんなに元気に動けないと思うのですが? そういう意味でもばけものということですか。どうすれば、あなたは死ぬのでしょう? こんなものが【実在】できるとは。興味がわいてきました」

 京の宮が不敵に笑う。すると、今度はばけものが自らの手にした包丁を京の宮に対して、投げていた。包丁は風を切り凄まじいスピードで縦に回転しながら京の宮に迫る。


 包丁と京の宮の距離がつまり、眼前まで迫って来る。もう間に合わない。そう思ったとき。


「先生!」

 思わず、僕は叫んでいた。


 京の宮を包丁が引き裂くと思われた瞬間、京の宮は、包丁の柄をいとも容易く、ぱしっと右手で掴んでいた。


「ほう。素晴らしい。女性とは思えない力です」

 京の宮は、感心するようにそう告げると、包丁を空に軽くなげ、それを逆手になるように掴む。そして、左手には指に挟むように四本のメスが握られていた。


 一気に駆けだしたかと思うと、京の宮は左腕を前方に思い切り突き出す。そうすると、京の宮の左手に握られていたメスはそれぞれ、先ほどのメスの命中した首に突き刺さる。メスは五本ばけものの首に横一列に突き刺さっていた。


 京の宮に包丁を投げ、更なる追撃を加えるために、京の宮に迫っていたばけものは一瞬その動きを止める。


 その瞬間、京の宮は、飛び上がり右手に持っていた包丁をメスが横並びして刺さり肉が露わになっているばけものの頸部に向けて振りぬく。どぱっとという鮮血とともに、ばけものの首が地面に落ちる。


 ばけものは、膝から崩れ落ちるように、地面に倒れていた。

「人を治すプロということは、同時に人体を破壊することにも長けているということです。筋組織に逆らわず、滑り込ませるように刃をいれれば、簡単です」


「青葉くん、大丈ですか」

 京の宮先生は、僕にそう言うと、笑顔で手を差し伸べてくれた。


 僕は、先生の手を取ることもできずに、ぼーっと先生の顔を眺めていた。先生に恐怖の感情を抱いている自分に気がつく。


 純白の白衣は、ばけものの返り血で染まり、それだけでなく、先生の白銀の長髪も赤く染まり、顔面にもおびただしい血が付着していた。


 先生の目は、今日の月のように金色に輝き、僕の体は震えていた。


「大丈夫かい? 今日も冷えるね。東京とは大違いだろう?」

「は、はい」

 のども震えるがなんとか、僕は京の宮先生に返事をする。


「そうかい。それじゃあ、病院に戻ろうか?」

「はい」

 京の宮は、ばけものの骸に着ていた白衣を被せると携帯を取り出し、「すまん。何人か迎えを頼む」と受話器越しのその相手に伝える。

 

 しばらくすると、前方から人影が見えてくる。

「京の宮先生! いかがされました?」

 数人の病院職員を連れ、玲子が走って来た。


「どうしたんですか? え、何ですか? これは?」

 しずくもついて来たのだろう。京の宮を見るや、驚愕して青ざめる。


「いやあ、違うよ。僕じゃない。青葉くんを追って外に出たら青葉くんの悲鳴が聞こえて駆けつけたら、こうなっていたんだ。 怖いものを見せてしまったね」


「いえ……」

 しずくの目には、京の宮の体に付着した血痕が映っていた。しかし、しずくは何も言えなかった。うつむくように、視線を下に移すとそこには、カメオが落ちていた。


(これは、カメオ……?)

 思わず、しずくはカメオを拾い上げていた。カメオを手に取り(間違いない。お姉ちゃんのカメオだ)と思案し、思わず玲子に視線を移していた。


「お姉ちゃん!」

「どうしたの? しずく」

「いや、何でもないの。ちょっと怖くて……」

「大丈夫よ」

 玲子はそう言って、しずくの手を握りしめる。その手はとても暖かった。


「それでは、みなさん。戻りましょうか。」

 京の宮先生が、病院に向けて歩き出し、僕らもそれに従った。


「馬鹿な。どういうことだ!?」

 京の宮は、先ほどのばけものを目の前に驚愕した。部屋には、解剖対象とそれを安置、作業するための手術台が置かれている。


 京の宮の額には、無数の汗。空調システムのぼおーっという音が静かに響ていた。

「彼女は、玲子くんだとでも言うのか?」

 京の宮の眼前には、うつぶせ状態にされたばけもの。ばけものの背中には、大手術の跡を物語る大きな手術痕があった。


「この町で、私がこの町に来て10年間、この手術をしたのは玲子くん以外にはいない。加えて、背中を切り開くこの施術法は難易度が高く、この病院では、私しかできないはず……」

 

 京の宮は、頭部が切断されたそれは、落ち着いてみると、20代位の若い女性であって、その遺体がどうにも、他人には思えなかった。頭部こそ欠損しているもののどこか見知ったものを感じていた。


 京の宮は、携帯を取り出すと、連宅先から、玲子に発信する。数回のコール音とともに、「はい、玲子です」と玲子が応答する。


「玲子くん、君に聞きたいことがある」


 時刻は、二十三時を回っていた。手術室には、骸と京の宮、成人式を明日に控える坂下町の外気は、氷点下にも達する。そんななか、京の宮の前身は汗まみれになっていた。

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