月無き夜の小夜曲(セレナーデ)

蒼風

chapter.0

0.チャンネルはそのまま。

 突然だが、ここで一つ問題を出そう。


 ベッドというものは一体何に使うかご存じだろうか。


 恐らくだが、ご存じでない人はほとんどいないのではないだろうか。もし「まあ“べっど”とはなんですのおほほほ」という純和風の家に育った箱入り娘のような人がいたら申し訳ない。その場合は速やかに辞書なりネットなりなんなりで「ベッド」という単語について調べてほしい。まあそんな人いるわけないと思うけど。


 なんでそんなことを聞いたかって?答えは簡単。そんな「当たり前の事実」を知らない、恐らくは女性と思わしき生命体が今、陽菜ひな目の前でぐっすりと眠っているからなのだ。


 その場所は当然ベッドではない。


 PCデスクの前に鎮座する、ゲーミングチェアの上である。


最近は随分技術の進歩が著しく、背もたれの角度を180度(つまりは床と平行状態)にまで設定出来、その上で仮眠をとったとしても、疲れが残ったりはしないといったことを、ついこの間雄弁に語っていたので、恐らくは今も心地よく眠っているのではないかと思われる。


 しかし、


「こんなに立派なベッドがあるのに、椅子で寝るとかどうかしてますよ、全く」


 そう呟きつつも、陽菜ひなは部屋の奥に存在する、恐らく本来はベッドとして使うのが正しい使用法であると思わしき物置き台を眺める。


 ちなみに今日の……というか現在の番組チャンネルは51.5だ。本来ならば使うべき番組チャンネルじゃないのは分かっているけど、どうせ誰も聞いていないのだからまあいいだろう。


 目の前ですやすやと寝息を立てている彼女だってきっと聞こえていないはずだ。まあ、仮に聞いていたとしてもそんなに気にすることは無いと思うけど。


 ええっと、何だっけ。


 そうだ、ベッドだ。


 陽菜がここにきてから既に一か月くらいが経っているが、その間、この部屋のベッドが正規の用途で使われているのを見たことがない。遠くから見る限りでも立派で、なんと天蓋までついているのにも関わらず、その用途はもっぱら「捨てる気は全く起きないけど、近くに置いといてもなんか邪魔なもの」置き場。


 陽菜がここに来た当初は、その豪華さと反比例するような雑な使われ方があまりにももったいなくて、何度か片づけないかと提案したことあった。


 が、その全てを「あれはあれで整理されているんだ」という、片づけられない人間の言い訳ベスト3に入るであろう言葉で一蹴されてしまい、今に至っている。


 さて。


「しょうがないですね……」


 陽菜はそう呟くと目をつぶり、調律チューニングを行う。流石に番組チャンネル51.5は月乃を起こすのには適していない。いつもどおり、番組チャンネル10.6を呼び出さないといけない。呼吸を落ち着かせ、意識を外側から内側に向け、楽しき日々を思い出す。


(よし、これだ)


 そして、その中から一つの番組チャンネルを探し出し、つかみ取る。そして、


「これで、よし、と」


 目を開ける。これで準備は万全だ。陽菜はゲーミングチェアで絶賛夢の世界へ旅立ち中の月乃つきのの肩をゆすりながら、


「お嬢様。起きてください。朝ですよ」


 声をかける。その口調は先ほどと比べると大分柔らかい。これが番組チャンネル51.5ならばきっと、


「ほら、早く起きてください。こんなところで寝るとか何考えてるんですか、全く。立派なベッドがあるんだからそっちで寝てくださいっていつも言ってるでしょうに」


 くらいが関の山だ。まあ月乃はそれでもいっこうに気にしなさそうだが。


「起きてください。こんなところで寝てたら風邪ひきますよ」


 嘘だ。


 恐らく月乃は、途中で仮眠をとったり、そのまま朝まで熟睡することもしっかり考えていたのだろう。掛布団をしっかりとかぶっていた。はっきりとは見えないが、その下もちゃんとパジャマに着替えてあるようだ。


 普段着のまま、布団もかけずに寝ているということもなければ、まかり間違って全裸で寝ているということもない。これなら風邪をひく、などという心配はほとんどないと言っていい。


 もっとも、辻堂つじどうから聞いた話によると、夏は目を離すとすぐに全裸になるので気が抜けないらしいが、今はそこまでの季節ではないようだ。そもそも服は季節で着たり着なかったりするものではないとと思うけど、それはまた別の話だ。


「んん……」


 と、そんなことを考えていたら、月乃がもぞもぞと動き出した。恐らく目が覚めたのだろう。こんな状態で寝ているのにも関わらず、何故か起こせばきちんと起きるし、寝不足に陥ることがないのは目下、陽菜が抱えている最大の謎と言っていい。


「おはようございます、お嬢様。よく眠れましたか?」


 月乃は目をこすりながら、


「…………今何時?」


「今ですか?朝の7時半です」


「……………………寝る」


 それだけ呟いて防御を固めるようにして布団にくるまる月乃。


「あ!お嬢様!起きてください!お嬢様!」


 陽菜はゆっさゆっさと懸命に揺さぶりをかける。しかし、そんな努力もむなしく、ほどなくして月乃の寝息が聞こえてくる。こうなってしまうとなぜか月乃はいくら起こそうとしても全く起きなくなってしまう。一度目にどれだけ綺麗に目が覚めたとしても、である。


 そして、昼過ぎまでは一切起きてこない。これが目の前に横たわっている(実際にはゲーミングチェアの上に布団の塊が乗っかっているだけだが)二宮にのみや月乃という存在の生態系なのである。これは陽菜がこの家に来てからの約一か月間、決して変わらない。毎朝お行われる陽菜と月乃の勝負は、今のところ月乃の全勝なのだ。


「うう……明日こそ勝ちます」


 そんな、昨日も言ったような気がする言葉とともに、小さく握りこぶしを固め、決意を新たにする陽菜。そもそもそんな彼女……いや、“彼”が、こんなバトルを繰り広げるようになったのは一か月前、とある一通の手紙がきっかけだった。


「え、このまま過去話するんですか?あの、言っておきますけど、今の読者ってすぐ読むのやめますからね。ネット媒体ならなおさらです。それをアンタいきなり過去話って、正気ですか」


 まこと、正気なのである。後、地の文に突っ込むのやめようね?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る