彼が私を突き放す理由

瑪々子

前編

「何度も言っているだろう。もう、僕のところには来ないでくれ」

「…ベルナルド様…」


深い溜息と共に、呆れたような冷ややかな眼差しがソフィアに向けられる。氷のような、涼やかなアイスブルーの澄んだ美しい瞳は、昔のように温かく彼女に微笑んではくれなかった。


「…これからもずっと一緒だと、ベルナルド様も仰っていたではないですか。僕の婚約者が君で、よかったと。あの時の貴方様の言葉は、笑顔は、嘘だったのですか?」


必死に言い縋るソフィアとベルナルドの間に、しばし沈黙が落ちる。

ベルナルドは口元を歪めると、ゆっくりと首を横に振った。


「…聞き分けの悪い女性は好きじゃないよ。それから、すぐ泣く女性もね」


ベルナルドの紡ぐ残酷な言葉に、ソフィアの眦には熱いものが滲んだけれど、どうにか目から零れ落ちないようにぐっと堪えた。


唇を噛むソフィアの姿に、ベルナルドはどこか痛そうに顔を顰めつつも、彼女を突き放した。


「さあ、もう帰ってくれ。二度と来るなよ」


***

私ソフィアが目覚めると、そこは自室のベッドの上だった。


ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、侍女の安堵した顔が目に入った。


「ソフィア様、よかった、お目覚めになりましたか。まだ熱が高くていらっしゃるので、このままお身体を安静にしてくださいませ。


持病のお薬を、このところきちんと飲んで下さらなかったようですね?…あまりこのようなことをなさると、お命にも関わりますよ。


…ルイス様もいらっしゃっています。倒れたソフィア様を、ルイス様がこちらに運んでくださったのですよ」


少し離れたベッドの脇から、見慣れた顔がこちらを心配そうに覗き込んでいる。

幼馴染みのルイス。すらりとした体躯に、明るい艶のある金髪、そして白磁のような肌に、切れ長の菫色の瞳。瞳がベルナルド様よりも少し紫色がかっていることを除けば、彼を形作る色合いはベルナルド様とよく似ている。

…それもそのはず、彼はベルナルド様の弟なのだから。最近、彼のちょっとした仕草や表情などにもベルナルド様の面影を見てしまい、どきりとすることもあるほどだ。


「ソフィア、大丈夫?…まだ顔が赤いよ。

また無理をして。…兄さんに会いに行ったの?」


小声で囁いた彼に私が無言で頷くと、彼はハンカチを取り出して私の目元をそっと拭った。

ベルナルド様の前では流さないよう我慢したはずの涙が、今になって流れていたらしい。


ルイスは僅かに苦笑した。

「…あんまりしつこくすると、愛想を尽かされるかもよ?」

「うん、もう言われた。聞き分けのない女は嫌いだって」


俯いた私に、ルイスは一度目を伏せてから、意を決したように私の瞳を覗き込んだ。

「ソフィア。…ねえ、僕なら、君を傷付けたりはしない。

…こういう時、もう兄さんは来てはくれないでしょう?昔はいつも、君が寝込んでいると聞けば見舞いに飛んで来た兄さんだけど、もう君の所に来ることはない。いくら君が想ったところで、想いが返ってくることもない。

君も、わかっているでしょう?」

「…やめて…」


思わず両手で耳を押さえる。一度は引いたはずの涙が、また堰を切ったように私の両目から溢れ出して来た。

ルイスの瞳が動揺に揺れ、後悔の色が滲む。


「ごめん、君が弱っている時に、こんなことを言って。僕が悪かった。

…身体を大事にしておくれ。また来るよ」


そっとルイスが部屋を出て行くと、私は両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。

ルイスが悪いのではない。ルイスの言っていることはもっともで、私は彼の優しさを知っていて、彼に甘えているだけなのだろう。


昔から身体が弱くて、しょっちゅう体調を崩しては倒れて寝込む私のことを気遣ってくれるのは、家の者以外では、昔はベルナルド様とルイスの2人だったけれど、今はルイスだけだ。ついぼんやりと熱を帯びた身体で出歩いては、両親も手を焼く私に対して、ルイスは黙って世話を焼いてくれる。


私とベルナルド様の婚約は、互いに伯爵家で家格が釣り合い、また親同士の仲が良かったこともあって、まだベルナルド様が9歳、私が7歳の時に結ばれたものだ。ルイスはその時4歳で、私たち3人はよく一緒に遊んでいた。


家同士の約束に過ぎない婚約だったけれど、私はすぐに、聡明で優しいベルナルド様が大好きになった。ベルナルド様は、子供ながらに人形のように整った顔を綻ばせ、私のことを、僕の可愛いソフィアと呼んでは、身体の弱い私のことを、まるで繊細なガラス細工でできたお姫様のように扱ってくれた。彼が差し伸べてくれる、私より大きくて温かな手が、とても好きだった。私が寝込むと、花束やら果物やらを差し入れては、私が疲れない程度に穏やかな笑顔で話し相手になってくれた。私が泣くと、心配そうにすぐに飛んできては涙を優しい手付きで拭ってくれた。

いつも私たちの後をついてくる、あどけないルイスも可愛らしくて、将来は彼の姉になれることも嬉しかった。


夏など長い休暇になると、彼の家と私の家の別荘が近い場所にあったこともあり、皆で一緒に避暑地として名高い湖畔で過ごした。湖で水遊びをしたり、夜にこっそり別荘を抜け出して、3人で寝転がって夜空を見たり。澄んだ夜空にびっしりと星が輝く様は圧巻だった。あの時、感動してベルナルド様の方に首を向けたら、彼はなぜか夜空よりも私の顔を見て微笑んでいて、仄暗い中に浮かぶ彼のあまりに美しい笑顔にどきりと胸が高鳴った。

そんな幸せがいつまでも続くと、当時の私は疑ってもいなかった。



…ベルナルド様の話になると、私の家族は揃って憐れむような視線を私に向ける。皆が言いたいことはわかっている。確かに、私の婚約者はベルナルド様だったけれど…今となっては、ルイスを選んだ方がいい。そう言いたいけれど、私に直接言えずにいるのも知っている。私がいかにベルナルド様を愛していたかを近くで見ていただけに、言えないのだ。


私のことを大切にしてくれるルイスには、多くの令嬢が熱のこもった視線を向けているらしい。確かに、彼ほど素敵な人はなかなかいないだろう。見目麗しく、優しく紳士的で、賢く、家格も良い。私なんかの世話を焼かせるのには勿体ない人だ。それはわかっている。


けれど、ベルナルド様にどれほど置いて行かれても、いくら突き放されても、私は未だ彼を忘れることができないままに、惨めに縋り付いているのだ。


***

僕ルイスがソフィアの部屋を出て家路に向かう途中、背後に気配を感じて振り向くと、思った通りに彼がいた。


暗い顔をして下を向いている彼を手招きして、僕は人目につかない街路樹の影に入った。


「兄さん。…また、ソフィアを泣かせたでしょう」

「やっぱり、泣いていたか?僕の前では、涙を堪えていたんだが…」


辛そうに顔を歪める兄に、僕は軽く溜息を吐いた。


「もうそろそろ、行かなきゃいけないんじゃないの?」

「…ああ、そうなんだ。もう、時間がない。

でも、もし僕がこのままいなくなったら、ソフィアは…」

「ねえ。何で、最後に素直になれないの、兄さん。きっと、伝えれば彼女はわかってくれる。突き放すようなことを言うから、拗れるんだよ」

「僕だって、彼女に微笑みかけたいさ。でも、もしもそんなことをしたら、彼女は僕のところに駆け寄って来そうだ。…それだけは、させる訳にはいかない。

それなのに、僕は彼女の涙を見ると、そんな決意にひびが入りそうになる…」

「…後悔だけは、しないようにね」


それだけ言うと、僕は兄の元を離れた。

なぜ、素直になれないの。…それは、自分自身への言葉でもあったと苦笑する。


藍色と茜色が溶け合う空に、白く星が瞬き始めるのを見上げながら、僕は過ぎた年月を思い、また巡り来る夏を思った。


***

「もうすぐ夏だね。久し振りに、またあの湖畔の別荘に行かないか?」


ルイスの誘いに、ソフィアは少々驚いていた。

木々の緑がはちきれんばかりの生命力を溢れさせ、陽光が痛いほどに照りつける夏は、昔はソフィアにとって大好きな季節だった。

けれど、今の彼女には、眩しい太陽が鮮やかに景色を照らす夏の時期は、むしろどこか陰って見えた。

ソフィアが気怠く熱っぽい時には、大体察してそっとしておいてくれるルイスがこのように誘ってきたことが、ソフィアには意外だった。

そして、ルイスの表情には、ソフィアを気遣う真摯な色が見えた。


(…私を誘ってくれるのは、私を心配してくれているからなのね)


あの別荘に行くとしたら、実に5年ぶりになる。


(5年前の夏は、ベルナルド様は私ににこやかに笑い掛けてくれていた…)


懐かしい笑顔が頭に浮かび、ソフィアの胸は苦しくなる。


(もうルイスがあの時のベルナルド様と同じ17歳なんて、そして私は20歳なんて、何だか不思議な気がするわ)


とても長い5年だったような気もするし、悪い夢を見ている間に5年経ってしまったような気もする。


少し考えてから、ソフィアはルイスの提案に頷いた。


***

少しの従者だけを連れて、ソフィアと僕とは湖畔の別荘に来ていた。


きちんと手入れがされているからか、瀟洒な造りの別荘に古びた印象はなく、5年前から時が止まったままのように見える。


「懐かしいわね…」


心配していたソフィアだったけれど、思ったより体調も落ち着いているようで、顔色もいい。


「ねえルイス、外に出てみましょうよ」


僕は頷くと、ソフィアと連れ立って重い木造りのドアを開けた。


陽が燦々と差す芝生には、所々に白や黄色の野の花が顔を覗かせ、その奥には、青緑色に澄んで凪いだ湖面が見える。昔はよく泳いだものだ。湖の傍には、背の高い木々が涼やかな影を作っていた。


ソフィアはそっと野の花の側に腰を下ろし、一心不乱に何かを作っている。僕も、そんな彼女の近くに座って、器用に動く彼女の手元を見つめた。


「できた。…ほら、見て」


微笑む彼女の手には、黄色と白と、時々桃色も混ざった花冠があった。薄黄緑の細い茎が丁寧に編み込まれて、ふわりと柔らかな花々がそれを飾っている。

ソフィアはぽつりと呟いた。


「もう夏だから、花の盛りは過ぎているけれど、残っている花々で間に合ってよかったわ」

「とっても綺麗に出来ているね」

「ふふ、ありがとう。…5年前、ベルナルド様を驚かせようと思って、彼の後ろからそっと頭に花冠を乗せたのよ。予想通り驚いてくれたけれど、それ以上に喜んでくれたわ」


遠い目をする彼女が、今手にしている花冠を誰のために作ったのかは知っていた。


「…今日が何の日か、覚えてる?」

「もちろん。忘れたことなんてないわ」


ゆっくりと立ち上がった彼女に付き添うように、僕も立ち上がって歩き出した。

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