第10章 鳥海柵の奇襲 2
同日午後、鳥海柵付近。
配下より各員配置完了の報告を聞いた貞任が改めて辺りを見渡し、思わず口元を緩める。
「……黄海の戦を思い出すのう」
周囲は一面の濃霧。その上、長月に入って間もない晩夏とは思えぬ肌寒さである。
「正直この季節に毛皮はどうかと悩んだが、夏衣にこれを羽織るくらいが今日の日和には丁度良い。おまけにこの霧では猶の事都合がよい。ますますあの勝ち戦に似てきたな。……あの時のようにうまく事が運ぶと良いが」
じっと平野の向こうに見える鳥海柵を眺めながら、傍らの経清に語るでもなく続ける。
同じく白い外套を掻き合わせいかにも寒そうに身を縮こませる経清が顔を顰めたまま頷く。
「上手くいかねば我らはこのまま攻め滅ぼされるのみ。たとえ上手くいったとしても結果がどう動くかは誰にも測れぬ、まさに賭けのようなものじゃ。……だが何もせねば結果は同じ。二人揃って厨川で首を晒す羽目になる」
眉を寄せたままふと笑みを漏らす。
「……俺も陸奥に着任して長くなるが、どうもこの冷たい夏という奴は未だに好きになれぬ。冬なればまだ寒さも堪えようが、まだ山の木々も色付く前に上着を着込まねばならぬとは」
それを聞いた貞任が呵々と笑う。
「冷夏が好きな陸奥人など居らぬよ。それでいてこそそなたも立派な胆沢狼じゃ。頼もしい限りじゃて」
「はは、嬉しい世辞じゃ」
破顔する経清の双眸がすっと細められた。
「来たぞ。敵の一団じゃ。今度こそ……」
遥か向こうから南の方角へ川沿いを進む騎馬の一群を見つめていた二人の表情が、やがて喜色に満ちる。
「……間違いない。先頭を行く騎馬は義家じゃ!」
二日前。鳥海柵、安倍勢本陣。
衣川関落城から一夜明け、昨夜漸く胆沢まで撤退を終えると同時に、兜も脱がぬままそのまま泥のように眠りに就いていた一同の下に、衣川に続き、白鳥・瀬原両柵もまた敵の手に落ちたことを知らせる早馬が着いた。これで胆沢にて防戦に就ける兵力は千に満たぬものとなった。
「この数で鳥海柵に籠り敵と戦ったところでこの砦の防御を発揮することはできぬ。いっそ厨川の兵を集結させてここで決戦に挑もうか?」
心許なさげに宗任が提案するが、貞任は首を振る。
「徒に胆沢城下を戦火に巻き込むだけじゃ。それに、厨川の兵を集めたところでこの巨大な柵の護りの隙間を埋めることはできぬ。決戦を図るのであれば、やはり厨川が最適じゃ」
「しかし、結局厨川の周囲に戦禍の累が及ぶのは同じことでござろう。それにすぐ背後には国府についた津軽がおりますぞ」
宗任が兄に反論する。
「だが幾らか時を稼ぐことはできる。見よ、今日明日にも攻め寄せようという敵を前に、我らは御覧の通り傷だらけで憔悴しきっておる。とても満足に太刀打ちできまい。それに、」
ちらり、と経清に視線を向ける。
「時を稼いでいる間に、事態が好転するやもしれぬ。あるいは何か妙案が浮かぶかもしれぬて」
難しい顔で腕を組んでいた経清が顔を上げる。
「……断言するが、最早我らに勝機はない。後はどのように上手く負けるか、という事を考えねばならぬ」
今更驚く者はいない。だが、それでも誰もが経清の次の言葉を待ち望んだ。
「もう一つは、どうやってこの戦を終わらせるか。という事じゃ。この二つは、似ているようだが決して同じものではない。だが、現状で最も望むべき結論は二つとも同じところに行き着く。……正直、あまり奇麗な手段ではない。危険も大きい。上手くいく望みは極めて少ない。それでも、試みてみる価値は十分にあると俺は思う」
一人一人の顔を見つめながら、厳しい面持ちで皆に問うた。
「――俺の卑怯な試みに、乗ってくれるか?」
「――やれやれ、敗残兵の逆襲に備えよ、というのは判らぬでもないが、よりによって遠路遥々着いたばかりの儂らがこの薄ら寒い中の巡回を命じられるとは」
騎馬武者の後ろを薙刀を肩に行進していた清原兵の一人が震えながらぼやいた。
「おいこら、無駄口叩いておる暇があったら、しっかり見張らんか!」
前方を進んでいた元親が振り返って一喝した。
肩を聳やかしていた清原兵の一人が、ふと対岸に目を留める。
「……何だべ、あれは?」
その様子に、他の清原兵達もそちらの方を見やって、首を傾げる。
「何かヒラヒラした白いモン羽織った連中が、馬に乗ってついて来てらあ。前の方さ走ってるんは、あれは女ゴだべか?」
その独り言じみた報告を耳にした国府勢はじめ、安倍勢との死闘を潜った者達は一瞬で顔色を変えた。
「敵襲じゃっ!」
敵騎馬勢がこちらに気づいたらしき様子を対岸から目視した一加らもまた馬を止める。
「あの動きからすると、前半分が国府、後ろ半分が昨日着いた補充兵らか」
すぐ後ろで髭一が呟く。
「手筈の通り、尻尾の動きがまだ鈍いうちにこちらに釘付けにしておきましょう、姫様」
老将の言葉に頷くと、一加は配下らに指示を下した。
「目標は後方の敵騎馬じゃ。馬が入れるぎりぎりまで近づき、各自三射まで射掛けた後速やかに撤収し、北東より渡河、敵の頭を抑える。かかれ!」
命令一下、右列の騎馬達が濁流のうねりの中にざんぶと馬を躍らせる。うっかり馬から落ちれば忽ち流されてしまう程の勢いであるが、皆、雨後の磐井川の戦いで対岸まで渡り切った猛者達である。躊躇することなく踝まで浸かり、立て続けに弓を放った。
「い、射返せ、今なら敵は川に嵌まって身動きできぬ只の的じゃ!」
清原武将が自軍を叱咤しているすぐ背後、南側より経清率いる亘理勢がすぐ傍まで忍び寄りつつあった。
(どうやら、俺達は余程霧天に好かれておるらしい。……俺も好きになってきたわ!)
こちらの矢が対岸に届く前に霧中に消えていく敵影にホッと安堵の息を吐く清原勢に向けて、経清の無言の合図の下、亘理兵が一斉に弓を番える。
その時、こちらに向けて国府の騎馬が血相変えて駆け寄ってくる。
一瞬、霧の向こうの経清と目が合い、騎馬武者が驚愕の表情を浮かべた。見知った者であった。
「つ、経き――」
経清が放った矢が額を射貫く。
驚いた敵兵が皆こちらを振り向いた。
刹那、至近から雨霰のような矢が彼らに降り注いだ。
「……背後を取られました。清原勢、全滅にござる。残りは国府直下の十余名のみ」
忌々し気に舌打ちを漏らす元親の報告に、義家も肩を落として深く嘆息する。
「まったく、どうやら我らは余程霧天に嫌われておると見えるのう」
「某は鬼切部以来白一色が大嫌いになり申した。しかし、これではまるで黄海の戦と同じでござるな」
そこで、ふと元親は不思議そうに主を見つめた。
「……御曹司、何やら嬉しそうですな」
「ああ、嬉しくて堪らぬとも。身悶えするほどにな!」
ニッと笑いながら大将は太刀を抜き放った。
「西に備えよ、敵の次は西から来るぞ!」
振り向きざまに太刀を振るい、目前に迫る三本の矢を叩き落した。
主の指示に咄嗟に身を伏せた国府勢の際を無数の矢が掠めていく。
やがて、皆が注視する先に白衣を纏った安倍精鋭勢が姿を現す。
「流石は八幡太郎殿、戦場の機微の鮮やかなこと。だが我らが在るは西南二手に限らぬぞ!」
そう吠えかけながら、貞任はほくそ笑んでいた。
(……これは、ひょっとすると上手くいくかもしれぬぞ!)
西側では、重任率いる遠野勢が配置を完了させていた。
北側からも、川上から橋を渡って回り込んだ一加ら囮勢が近づいてきているのが霧の中からうっすらと見える。
背後から、息を切らせながら経清ら亘理勢が駆け寄って来た。
「王手が掛かったな、これはいけるぞ!」
目を輝かせながら経清が笑った。
義家を虜とし、それを人質に国府勢と交渉を図る。
これが経清が提案した最後の起死回生の策であった。無論、源氏が我が子可愛さに我らの要求に応じるとは万に一つも思えぬ。しかし、最早その万に一つ以下の望みに賭ける手段しか自分達には残されていなかった。
貞任の姿を認めた義家がゆっくりと前へ馬を進めてくる。
貞任もまた、降伏勧告に前へと歩み出ようとした、その時、
突如思いもよらぬ事態が起こったのである。
「――侵略勢頭目の息子、八幡太郎義家はおるか!」
「……一加⁉」
「な……っ⁉」
皆が一斉に声のした方へと目を向け、息を飲んだ。
単騎敵勢の真ん前へと姿を現し、颯爽と黒髪を霧の中に靡かせ、真白き衣を翻すその様に、或る者は我を忘れて魅入られ、また或る者は忘れ難き畏怖を催し立ち竦んだ。
美しき想い人の姿を目前に、義家は目に涙を滲ませながら更に前へと馬を進める。
「ああ、逢いたかったぞ。……愛しい姫君よ!」
「あの馬鹿、何の真似じゃっ⁉」
目を剝いて飛び出そうとする経清の腕をがっしりと貞任が掴む。
「おい、お前の妹を今すぐ引っ込めよ!」
ところが貞任はいつも一加に向けているようなニヤニヤ笑いを隈取の顔に浮かべているばかり。
「良いから、今はあいつに任せておけ。我らは他の雑兵らを黙らせるのが仕事じゃ!」
「一加様っ⁉」
衣川の宴にて見知っていた可憐な少女が、戦装束に身を包み、見る影もなく様変わりして戦場に姿を見せたことに言葉を無くす元親の前に、もう一人、白き胆沢の狼が蝦夷の刃を光らせながら現れ出た。
「――お前は!」
元親が咄嗟に薙刀を構える。
「ヒャハハハ! お互い生き残って再び相見えようとは、嬉しいのう!」
刃を斜め頭上に構え元親に挑みかかる重任――漆部利が、そこではたと気づき、うーん、と悩ましい表情を浮かべる。
「……今更じゃが、貴公、じゃなかった、貴様の名をまだ聞いておらなかったのう、我が好敵手よ?」
「……俺を殺しに来てくれたか!」
今までの苦悶が全て晴れたかのように目を細め自分を見つめる義家を、ぎりりと薙刀を握り直し、唇を噛み締めながら一加が睨み据える。
「……ああ、殺しに参った!」
決意を込めて答える女武将を前に、ふ、と穏やかに笑いかけながら義家が薙刀を構える。
「……では俺も参ろう――共に、」
「――我らの、最後の
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