第8章 小松柵炎上 3
同年長月。磐井郡萩馬場、磐井川付近。
一昨日に漸く長雨は止んだが、未だに川の濁りは抜けず、やや流れも荒い。
南の対岸に布陣した敵の様子に、思わず貞任が感嘆の吐息を漏らす。
「ほほう。聞きしに勝る軍勢じゃ。小松柵が一晩で陥落したというのも宜なる哉」
傍らの経清も唸る。
「まさに「常山の蛇勢」の陣じゃ。あの兵力だからこそできる陣立てであろう。千、二千程度の軍勢ではあそこまで布陣できぬ。正面、右翼、左翼、どれを見ても一部の隙も無い。――尤も、その場から動かぬ限りにおいて、ではあるが」
チラリと貞任を横目に念を押す。
「……承知していると思うが、先に動いた方が負けるぞ」
頷きながらニヤリと笑う。
「御忠告を頂くまでもなく弁えているつもりじゃ。だがのう、川を挟んで睨めっこに終始するつもりであるなら、何もこんな大所帯連れて河原まで遠足になど出てこぬよ」
そう言って後ろを振り向けば、久々の晩秋の日差しを受けて黒光りする甲冑の一群。
安倍勢、総勢八千。
ほぼ奥六郡の主力に匹敵する軍勢である。
数日前。
仲村の集落から焼け出され、衣川まで逃げ延びてきた民達により、清原勢による略奪の様子が並木屋敷に伝えられた。
「罠じゃ」
話を聞くなり経清はきっぱりと皆の前で告げた。
「こんな狼藉を兵らにけしかけるのはあの男しかおるまいよ」
と貞任は不愉快も露わに顔を顰めた。
「まさか敵の徴発に乗るつもりではあるまいな?」
眉を寄せながら経清が高座の相手を凝視する。
悩ましそうに貞任が応える。
「このまま我らが動かずば、動くまでいつまでも果てしなく村を焼き続けるぞ、あいつらは。もう、あの仙北の親爺はこの俺を討ち取る事しか頭になかろう。村も民らも片っ端から焼き尽くしてしまった後で、さて来年一体誰が田畑を耕し米や貢物を納めてくれるのか、など武則は考えもせんだろうて。ならば、さっさと俺の面を磐井川の向こうから拝ませて大人しくなってもらうのが手っ取り早い」
それに、と大分傷の癒えた宗任が言葉を継いだ。
「前にも言ったと思うが、相手は勝つためには手段を択ばぬ輩じゃ。特に、兄上や重任、則任ら清原の血を引いていない別腹の安倍の人間が目障りでならぬらしい。昔から、事あるごとに我らに突っかかってきたものじゃ。恐らく武則は奥羽の統治から清原の血統以外を摘まみ出したいのだろう。武則にしろ、秀武にしろ何を考えておるか判らぬ連中じゃ。傍観しておれば今にこの程度の狼藉では済まなくなるぞ」
二人の言葉に経清は腕を組み思案するも、やがて微笑みながら頷いた。
「……まあ。既に投げられた賽じゃ。思案したところで始まらぬか。いずれ俺も貴公らに命を預けた身じゃ。どのような結果になろうとも、皆と共に最後までついていくさ」
磐井川を挟んで南側に布陣する清原勢はおよそ五千。これより多ければ相手は大軍と見て先手を打つに躊躇するであろうし、少なければこれは囮と思いやはり先に仕掛けるに躊躇するであろう、という絶妙な兵数である。
「あれだけ用意周到で用心深い安倍が、この度はまんまとわが本陣の前にその身を曝け出した。……貴殿の策が功を奏したというわけか」
称賛を口にしながらも極めて凍てついた眼差しを以て義家は隣の小男を睨みつける。
「管下の集落が襲撃されたとあっては流石の安倍もこれ見よがしに腰を上げて見せざるを得ぬ。周辺豪族と強い繋がりを以て束ねる頭目じゃ。たとえ小さな村落とはいえ見捨てるような振る舞いは立場上出来ぬ。何よりあの貞任の性分が許さぬ。成程、我ら源氏には思いもつかぬ手じゃ。市井の民を敢えて策の犠牲に用いるなど、な!」
言葉の含みに気づかぬ態で、対岸の敵軍勢を眺めながら至極満足げに秀武がヒヒ、と笑い声を漏らす。
「なんの、お褒めに預かるほどのことではありませぬて。ただ、このところ長雨が続いたものでな、我が可愛い配下の兵共がだいぶ鬱屈を燻らせておりましてのう。偶にはあいつらにも戦場の外で自主性を大いに発揮させてやらねば可哀そうでな。ついでに糧食の補充も叶い、それを嗅ぎつけた貞任らもあのとおり巣穴から這い出てきおった。こりゃあ、図らずも一石二鳥にお釣りが来たわけじゃ。ひひひひひひ!」
義家元親のみならず向こう隣りにいた頼義や武則さえも顔を顰めるような笑い声を一頻り放ち終えると、「さてのう」と秀武が頬を撫でる。
「後はどうやって彼奴等から先にこの川を渡らせてやるかじゃが、思ったよりも川の流れが速いのう」
思案顔を作る秀武を鼻で嗤いながら、義家は弓を手にして馬を前に進める。
「貴殿は悩まずともよい。これより先はこの俺の仕事じゃ。――父上、両陣の奥羽兵らに、河内源氏の作法を披露して参りまする!」
頼義も頼もしく頷く。
「一番弓はそなたに任せる。俘囚兵共へ目にもの見せてやれい!」
父の声を背に颯爽と馬を陣の先頭に進める。
川の向こうを埋め尽くす敵将兵を見渡しながら、義家は或る人の姿を探す。
(……一加は、居らぬか?)
対岸の安倍勢からも貞任が前に出る。国府・清原両勢が大きくどよめいた。特に国府の兵らの慄きは大きい。一度対面すれば忘れられぬ隈取と、風に翻る真っ白な外套。黄海の合戦以来暫く彼らの安眠を妨げた悪夢の化身の如き威容である。
「我こそは鎮守府将軍源頼義が子八幡太郎義家。そこに出て来たるは逆徒の首魁、安倍貞任か!」
義家の呼びかけに、おーう、と貞任が手を上げて答える。
「如何にも貞任此処にあり! ……久しいのう御曹司。先日は我が愚弟が可愛がってもらったそうじゃな。お蔭であいつ奴、少々はしゃぎ過ぎたと言って腰を痛めて寝込んでおる様じゃ。あれも若いように見えていい歳じゃ。次からは少々手加減頂けると有難いのう!」
背後の味方陣からは苦笑の漣が上がる。
「ははは、それは申し訳ないことを致した。お見舞い申し上げる。ときに、折角こうして両陣が川を挟んで集っておるのじゃ。今日は貞任殿が某と遊んでいただきたいが、どうじゃ!」
そう言って義家はぱっと扇を開いて川岸に葉を茂らせる大きな松の木を指し示した。
「見事な赤松じゃ。きっと由来のある銘木であろう。この天辺の枝を一房陸奥の土産に欲しいが手が届かぬゆえ、貴公の弓の腕を以て射落として見せてはくれぬか? 見事落とせば拍手喝采となりましょうぞ!」
おお、と清原勢が湧く。対岸から松の木までは三町余り。なかなか見物となる距離である。
「面白いご提案じゃ。その遊び乗ったぞ!」
愉快そうに笑いながら鏑矢を取ると、強弓に番えきりりと引き絞りながら、両陣固唾を飲み見守る中、パアァンと放たれた。
一声を鳴らしながら川を飛び越えた矢は狙った枝をやや逸れたものの、見事松の幹に突き刺さった。
的を外れたとはいえ大した腕前に清原勢は拍手を惜しまなかったが、安倍勢からは落胆の溜息が聞こえる。
「少々風に邪魔をされたようじゃ。どうも今日は調子が優れぬ」
悔しそうに貞任が項を掻く。
「では、俺からも貴公の腕前を所望したい。あの崖に花を咲かせる竜胆であるが、俺はあの花に目がなくてな。笑うでないぞ! 是非戦の土産に欲しいのだが、よじ登るには些か高い。八幡太郎殿が自慢の弓で射落としてくれれば我らも喝采を惜しまぬぞ!」
そう言って貞任も扇で川岸の崖を指し示すが、距離はだいたい先程の松と同じくらいか。
「成程。これは面白い余興じゃ!」
武則も戦を忘れて思わず魅入る。
両軍固唾を飲んで見守る中、義家の弓から唸りを上げて弾かれた鏑矢は崖の土を掠めるように抜け、ぱっと草葉が舞い上がったかと思うとぽたりと真下にいる女武者の手元に落ちた。
「え?」
きょとんとした顔で掌の紫の花を見落とす。
おおおおおおっ! と地を震わさんばかりの喝采が両陣営から轟き渡り、戸惑ったように兄を見る一加を振り返り貞任は片目を瞑って見せた。
沸き立つ軍勢に遮られ、一加の姿は義家からは見えなかった。
「見たか俘囚よ、これが源氏の流儀というものじゃ!」
頼義も思わず立ち上がって拳を振り上げる。
「いやはや、これは恐れ入った。流石は噂に名高い義家殿じゃ、これは負けていられぬ」
称賛を惜しまぬ貞任に義家も不敵に笑ってみせ、更に離れた的を指し示す。
「貞任殿、お次の的はちと遠いぞ。何なら川に入ってもう少し近づいて狙っても構わぬが? ……――っ⁉」
そこへ突如女子供らの悲鳴や泣き声が響き渡り、ぎょっとした両陣営が静まり返った。
「やんや、源氏の作法とは雅やかよのう。――しかし儂らはそろそろ血が見とうなった」
秀武の配下に引き立てられてきたのは、若い娘や年端もいかない童らが幾人ばかり。
「何の真似じゃっ⁉」
不吉な予感に顔色を失った義家が怒声を上げる。
「やれやれ、また秀武の悪い癖が始まりおったか。まあ、確かに国府の流儀に付き合うていたら今に陽が暮れてしまう」
諦めたように武則が肩を竦める。
「久しぶりじゃのう、貞任や。儂からも一つ余興を提案するぞ。この娘らはのう、先日仲村の集落で兵糧と一緒に捕らえてきた儂の玩具じゃ。ひひ、可愛らしいのう。――今から二人ずつ首を刎ねる」
「な⁉」
秀武の言葉に国府の兵らは騒めき、安倍勢からは怒号と非難の声が上がり、刃を突き付けられた子供らは一層泣き声を上げた。
「どういうつもりじゃ?」
怒りを込めて秀武を睨みつける義家に、ひひひ、と嘲笑交じりに答える。
「……正直、飽きたわ。戦の余興といえば、それらしい色を添えんとのう」
兵士二人から首に太刀を押し当てられた娘達が泣きわめく。
「さあ、その弓で娘らを救ってみせよ。尤も、一人止めて見せたところでもう一人が別の首を刎ねるがのう。ひひひひ」
「嫌だよう、死にたくないようっ!」
「助けてよぉっ! うわああああん!」
子供らの悲鳴を聞いているだけでも楽しくて堪らぬとばかりに、秀武は舌をぺろぺろ口から出し入れしながら膝を叩いて大笑いする。
「……おのれ人でなし奴っ!」
一加が歯軋りしながら身を乗り出した。
その姿を認めた義家がハッと息を飲む。
貞任は無言で矢を二本番え、ぎりりと弓を引いた。
「それとも川を渡って助けに来るか、んんん? まだまだ代わりの犠牲は幾らでもおるぞえ、ひひひ――」
たん、と二人の兵が同時に額から矢を生やし、娘らの傍らにどさりと倒れた。
「ひひ――?」
今度は両陣からも喝采はなかった。
「……本当はあの気持ちの悪い妖怪親爺を射殺してやりたかったが残念じゃ」
唾を吐きながら太刀を抜く。
「花を手土産に帰ろうと思ったが……それより俺はあの爺の首を塩漬けにして土産にしとうなったわ。――皆よ、余興は終わったぞ」
安倍勢全将兵が無言の憤怒を込め一斉に得物を鳴らす。
「罠だぞ。……それでも行くか?」
経清の忠告を込めた囁きに、貞任はク、と隈取の唇を歪めて答えた。
「もとより勝負の知れた戦じゃ。今は只清原を叩きのめすのみ! ――掛かれエェイっ!」
貞任の号令の下、安倍勢は一斉に水飛沫を立てながら対岸へ向けて馬を躍らせた。
渡河する八千余りの騎馬隊の蹄により忽ち磐井川は堰き止められた。
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