梓真はまず天を、それから大地を確かめた。

 空はまだ赤みを残している。気を失ってからそれほど立っていないだろう。

 傍らには地面にめり込んだ横倒しのバギー、だがその周りには無数の金属反応がある。

 敵ではない。何かの残骸が谷間を埋め尽くしていた。――いや、梓真のほうが残骸に埋もれているのだ。

 しかし、肝心の理緒の姿はない。

「理緒、どこだ」

 気を失った梓真が理緒を見失うのはこれで二度。不安がぎった。

(まさか捕まったんじゃ……)

 ふらつく足取りで周囲を見回す。

「理緒!」

 その声に応えたのは巨大な鎌だった。

 頭上に突如出現し、彼目掛け落ちてくる。

 ――血の色をした虚空と鈍く光る極大の刃。

 その現実感のなさが対応をわずかに遅らせた。

 衝撃が右肩を襲い、地面に倒れる。梓真は転がりながら、積み上がった残骸に身を隠す。

 そして荒い呼吸を懸命になだめた。

 そこに自分のライフルを見つけ、震える右腕にはめる。

 あの鎌はなんだったのか。正体は不明だが、ともかく今はなりを潜めている。

 一息吐く、そこに今度は銃弾が襲う。一発は梓真の装甲に弾かれ、もう一発は盾がわりの残骸に突き刺さる。

 崩れる残骸の山。

 その二発の正体に梓真は驚愕し、恐怖する。

 梓真は弾体が小爆発したのを見逃さなかった。

 ――徹甲榴弾。遅延信管によって貫通ののち爆発を起こす。近年特に、軍用オルターへの有効性を唱えられるようになっていた。

 弾体が人工筋肉を貫通しても留まっても、オルターの機能が損なわれることはほとんどない。効果的なダメージを負わせるためには筋繊維を断裂させる必要があり、それには炸薬を必要とした。

 万一それが人に用いられた場合――

 梓真は紛争地域で負傷した兵士の証言VTRを見たことがあった。

 苦痛と恐怖。

 そしてなにより、ちぎれた下肢と血塗れの包帯が梓真の胃を持ち上げた。

 その感覚が蘇る。

 ゴーグルが敵の所在を映した。向けられた銃口も。

「うおあああ!」

 駆り立てたのは恐怖だ。梓真は狙われているのもかまわず走り出していた。

 どこへ?

 とにかくここにいてはいけない。

 格好のターゲットと化す梓真。敵はとうぜんのように銃弾を浴びせ、さらなる恐怖を煽る。

 無我夢中、逃げる足下には無数のジャンク。それはオルターのスクラップだった。

 克服したはずの畏れがふたたび襲いかかる。

 踏みつけ、躓きながら、梓真は赤錆びた残骸の中を駆けめぐった。

 だが周囲はそびえ立つ崖。どこまで行っても袋小路だ。

「ふ……うう」

 銃撃を受けながら、梓真はスクラップを足場によじ登った。たちまち、ゴーグルが背部の損傷を知らせる。

 火災も収まっていない。崖の上には炎の壁が待ち受けている。

「……?」

 その手前に人影があった。

 熱波にゆらぐそのシルエットは、フェイカーとあきらかに違う。

 細身の装甲は俊敏さを思わせ、腕にはパイルバンカーがあった。

 姿形はマルスと瓜二つ――にもかかわらず、獣のように腰を屈め、不気味な眼光が梓真を捉えている。

「覚えているぞ、おまえ……」

 忘れもしない。クレイとヴェルを襲った、あのオルターキラーだ。

「理緒をどこへやった!」

 恐怖に繋がれたまま、引き金を引く。

 オルターキラーは銃弾を正面に受けながら、梓真にダイブした。

 足場が崩れ、落ちる両者。

「っ……」

 背中の衝撃が呼吸を止める。起き上がれない。

 オルターキラーは不細工ながらも四足での着地を決め、ふたたび梓真にのしかかった。

 眼前には杭の先端。それを防ぐ梓真の腕。しかし膂力ではかなわない。

「く……う……」

 じりじりとパイルが迫る。射出されれば額に突き刺さるだろう。

『梓真!』

 声は弾と同時に届いた。オルターキラーはましらの動作で飛び退く。

 入れ替わりに銃撃が高所から襲いかかる。しかし理緒は臆することなく仰向けの梓真を救い出した。

『何やってんのよ!』

「理緒、おまえ……今までどこに……」

 動転しつつ、梓真は理緒を追いかける。

『バギーの下よ! 気づかなかったの!?』

「探した、はずだが……」

 人は、目ではなく脳で景色を見ている。眼球が正確な情報を送っても、脳が正しく認識できるとは限らない。動揺していれば特に。

『まったく。通信は聞こえてないみたいだし……』

 レーザー通信の欠点は障害物に弱いことだ。ただし――

「は、はは。そういう時はバギーに中継させるんだ」

『知らないわよ!』

 すり鉢状の谷間を走り回って、二人はようやく防壁となりそうな残骸の塊を見つけた。

 ここにいる限り銃撃はかわせる。が、動けない。問題は追ってくるオルターキラーだ。

 すると、あることに閃く。

「アイツの相手、しばらく頼むぞ」

『え、ちょっと!』

 敵――おそらくフェイカーたちの位置はいまだ不明のまま。

 理緒に挑みかかるオルターキラー。梓真は援護に見せかけ、飛び出した。

 銃弾がそれを追い、かすめる。

(いやがった!)

 人型のオルターであれば炎に耐え続けることはできない。思ったとおり、二つの火点は火災とは反対の北と東の崖に瞬いた。

 逃げながら、応射する。これは囮だ。

 もう一つのレティクルが、二つの敵に狙いを定めていた。

「撃て」

 横向きのバギーが火を吹く。

 三十ミリの連続弾に非装甲のオルターはひとたまりもなく、身を乗り出していた二つのフェイカーはいともあっさり引きちぎられた。

「やったぞ! り――」

 理緒の下へ戻ろうとする梓真。

 そこに轟音が鳴る。

 バギーははね飛び、銃身をひしゃげた。

 あの大鎌だ。

 残骸の下から、ついにその本体を現した。

 炎に染まる四つ足の巨人。

 西洋人なら悪魔デビル、日本人なら鬼とでも呼ぶだろう。

 巨体には不似合いの驚異的な跳躍を見せる

「馬鹿か!」

 落下軌道に銃弾を撃ち込む。しかし巨人は夕闇に身を翻した。

「馬鹿な!」

 着地。そしてまた跳躍――今度は壁に。

 細い四つ足で虫のように飛び跳ねる。

 ――照準が、追いつかない。

 あっさりと迫られ、またしても梓真は下敷きにされる。

 強く、重い。

 抵抗のすべがなかった。

『梓真!』

「……」

 理緒の行く手にはオルターキラーが立ち塞がっていた。

(これまで、かよ……)

 あきらめるしかない。梓真は覚悟を決めた。

 だが――

「……?」

 梓真の四肢を押さえたまま、敵は微動だにしない。

 渾身の力で腕の大鎌を押し退けると、あっさりと崩れ落ちた。

 そこに理緒が駆け寄る。

『梓真……』

「そっちは――」

『……わからない』

 同様にオルターキラーも停止していた。燃えさかる炎に、影だけが揺らいでいる。

 一帯は不気味に静まりかえっていた。

 と、そこへ――

 う……

 巨人のうめきが混じる。

 反射的に銃を向ける二人。

 だが、巨人が地上へ落としたのは一人の男だった。

 理緒はただ息を呑み、梓真は……

「あんただったか、教授……」

 頭を押さえ、うずくまる広敷。しかしぎらつく目は二人を睨み続けている。

「よこせ……」

 男の口がうごめいた。

「あん?」

「貴様の……貴様らの!」

「何言ってんだ」

 梓真は、広敷の伸ばした手をあざ笑った。

 頭上の炎は衰えを知らない。広敷の手も顔も、色白の肌は赤く照り映え、背後には深い闇が広がっていた。

 そんな闇に、何かが動く。

 サーモセンサーに武装・装甲の反応はない。こちらもただの人間だ。

 男は進み出て、広敷の背中をさする。

「惜しかったですねえ、教授」

「……六角……早く、捕まえろ。やっと……わたしが……」

「はいはい、わかってますよ」

 男――六角はすっと立ち上がり、例の胸を張り出す姿勢で梓真に目を剥いた。

「てぇわけだ。投降してくれや、加瀬梓真」

「おまえ、この状況わかって言ってんのか?」

「わかってねえのはテメーの方だ」

 ロックオン警告!

 崖の上から無数の銃砲が狙いを定めていた。

 それでも梓真は虚勢を張り、銃を突きつける。

「おまえが、生身で目の前にいることには変わらねえぞ」

「撃てんか? 生身の人間を」

「……」

「ま、いい。撃ってみろや。ただし――」

「……?」

 六角は肘を曲げ、指先を上げた。

「……!!」

「あそこから、女を突き落とすぜ。怪我で済みゃあいいがなあ?」

 銃を構える迷彩服の男たち、フェイカー。その中に本物の軍人、芙蓉少尉がいた。

 彼女を後ろ手にしているのも女性――少女だ。

「人質はもう一人いるの。お願い、言うことを聞いて……加瀬くん」

 それは目堂玲亜だった。


「あなたがO型で助かったわ」

「一度輸血された人間は、他人への輸血NGって聞いたが……」

「今は緊急時よ。やむを得ない」

 芙蓉阿紀は無理矢理の笑顔を見せる。

 皆くたびれていた。この監禁場所と同じように。

 元は事務室か何かだろう。備え付けのロッカーが細長い部屋に並んでいる。そこに二台のベッドが詰め込まれているので、正直、狭苦しい。

 どれくらい放置されていたのか、窓はすべて割れ、ドアノブも壊れている。

 脱走は難しくない――見張りさえいなければ。

 部屋には二体のオルターがいた。梓真には見慣れた医療用オルターだ。今は黙々と、意識のない竹井伍長の治療にあたっている。

 もう一つのベッドは梓真が占領していた。その後ろめたさに体を起こした、のだが――

「いけません」

 薄れる視界にオルターが駆け寄った。背中と肩を支え、ゆっくりと戻される。

「もう少しだけ横になっていてください」

「……」

 その態度も理知的な目の色も、狂ったオルターとは思えない。

「いったい、なんなんだ……」

「……」

 漠然とした梓真の問いには、すべてが詰まっていた。しかしオルターは、答えることなく伍長の下へと戻っていく。

 梓真は相手を変える。

「いったい、何があったんです?」

「……そうね、何から話せばいいのか」

 部下の傍らに立つ芙蓉の、瞼が落ちる。

「城を出発して数時間後、諏平チームは彼らと合流したわ。同僚のはずの彼らに、わたしはどこか違和感を感じた」

 “彼ら”。芙蓉の視線が窓の闇を指す。

「まずわたしが事情を聞こうとしたんだけど、それを遮って六角さんが進み出て、そして彼らの言い分を伝えたの。試合出場者の中にテロ行為を計画している者がいる。その特定に何名か協力してくれないか、そう指示された、と」

「チームの……他のやつらは? ここには見あたらねえが」

「わたしたちと別れて、そのまま脱出したはず。……いえ、そちらにはわたしと伍長も同行するはずだったのよ。でもおかしいと思って……。だって、軍人がわたしたちを差し置いて民間人を戦力に組み入れるなんて。それに彼らの態度がどこか……。だから尾行したの。でも見つかってしまって、あとは……このとおり」

「……」

 女性士官は、しおれた顔を梓真に向ける。

「わたしも、聞いていい?」

「なんです?」

「あなた、何者?」

 穏やかな口調が一変した。

「……俺?」

「彼らの一連の行動はあなたを目的にしたものよ。さっきの会話はそういうことでしょう?」

 理不尽だ。

 拘束と部下の負傷。その怒りを梓真にぶつけている。

「俺、を……」

「そう。あなたと……」

「……」

「もう一度聞くわ! あなたたちは何者なの!?」

「……俺の正体。……おまえ、わかるか?」

 問いを、理緒に向ける。

 少女は膝を抱え微動だにしない。ただじっと、割れた窓から夜空を見上げていた。

 そこへ玲亜が訪れる。

「竹井さんの容態は、どう?」

「安定しています。明日には意識を取り戻すでしょう」

「そう……」

 オルターの答えにほっとする玲亜。その態度に偽りはないと思えた。

 しかし梓真は目を逸らす。

「加瀬くん……」

「あんたには……」

 目を見て話すことができない。そんな、うぶな少年のような梓真に、玲亜は近づき――

「……外に出てみない? 三日月がきれいなの」

 そう言って手を取った。

「いいのか、出して」

 ――裏切られた。

 柔らかい言葉も手のひらも、自分を閉じこめている側の人間のものだ。信じてたまるか!

 それでも梓真は体を起こした。何か手がかりがほしい――それを理由にして。


 窓からの明かりに灰が舞っていた。

 風を冷たい。血を抜いたせいだろうか。

「……と」

 ふらつく体を支えたのは理緒だった。

「わりいな」

「……」

(こんなこと、前にもあったけ)

 星空の下、建物の周りには銃を構えたフェイカーで溢れていた。内と外、両方の警戒に万全を期している。

(そりゃ、出入り自由なわけだ)

 梓真は皮肉に笑うと、理緒に肩を借りたまま玲亜のあとを追った。

 華奢な体を崖の手前に見つける。向かいの丘は焼き畑と化し、夜の闇に溶けていた。

 けれど少女の視線は崖の下、すり鉢のような谷間に注いでいる。

「燃え移らなくて、よかった」

「ゴミ捨て場か、ここは」

「不法投棄場、ね。元はオルターの再生工場だったもの。それがただの部品取りの場になって、働く人もオルターも消えて、そして、今は……」

「盛大な火葬になったろうに」

 専用のオルターを配置すれば、すぐにも工場は再開できるはず。しかし現在、オルターの需要は切迫している。いずれここが整理されるとしても、ずっと先のことだろう。打ち捨てられているのは旧型オルター、それも価値の低そうなパーツばかりだった。もちろん今は、夜と同化して何も見えない。

 眺めるうちに、梓真は夕刻の死闘を思い出す。

「ありゃなんだったんだ。あの、赤い……」

「ウンブリエルは教授の自信作、対戦車用装甲服」

「へっ、レギュレーション違反だろうが」

「だから試合には出せなかったの」

「あの鎌が自信作、ねえ」

「取り付いて、キューポラを突き刺すの。もし乗員を刺し損ねても、そこから内部に爆薬を――」

「わ、わかった。もういい」

 その光景が思い浮かんで、鳥肌が立った。

 自動化が進んだ現代でも、主力戦車には最低一名の搭乗が義務づけられている。あの不気味な見た目すら、心理的効果を狙ってのことかもしれない。

 それにあの跳躍――

 接近されれば、主砲の自動追尾が追いつくかどうか。仰角を取れるかすらあやしい。

「なら――」

 不気味、といえばオルターキラー。

「もう一体の……」

「ベースは軍の放出品。あなたたちの機体と同型の。だけどAIは……」

「……」

「教授が一から組み上げたオリジナル。どんな違法行為もできる、マリオネット」

 すごいことなのだろう。倫理機構を取り除くかわりに、人とAIが数十年の歳月をかけて構築したソースコードをたった一人で書き上げたのだ。その代償が、あの、人ならざる動作だとしても。

「教授の執念――妄執が生んだ、怪物」

「……妄執?」

「……」

 玲亜は座り込み、足下のパーツを手に取った。虫か何かいるようで、指先で弄んでいる。

「あいつ、何か様子がおかしかったが……」

「薬が効いて、今は眠ってる。時々ああなるの。最近は特にひどい」

「……」

「教授は……」

 玲亜は重そうに口を開いた。

「教授は妄執に囚われてるの。子供のころに受けた頭の治療が、本当は脳の一部を人工物と交換する実験だったって」

「馬鹿な」

 鼻で笑う梓真を玲亜の瞳が跳ね返す。その色は純真だった。

「自分の不調を、人工脳の不具合と思い込み、代替物を探して、探して、ついに……」

 ごく、と唾を飲み込む。なぜか喉がからからに乾いていた。

「探し当てた」

「……妄想、って言ったよな」

「言った」

「そうか、ならいい。狂人のたわごとはここまでだ。俺が聞きたいのは……」

「ブラフマン――千億の個」

「は?」

「あなたたちがフェイカーと呼んでいるもの」

 千億の、個……?

「……そうだ、その話だ」

「……」

「なんで人を襲える? AIに法は犯せねえ。倫理機構に穴があったのか」

「加瀬くんは……」

 立ち上がる玲亜。輪郭が月下に浮かび上がる。

「千億と聞いて、何を連想する?」

「そうだな、まずは星の数かな」

 夜空を見上げて言った。目の前にあるものを答えるあたり、梓真は単純だ。

「星空、星。……わたしは星空から、この星、ガイアを連想する」

「連想ゲームかよ」

「星の瞬き一つ一つに、意志のようなものを感じるの。それならこの地球にだって、意志があってもいいわよね?」

「さあ、考えたこともねえな」

 玲亜はその答えに微笑んで、手を月にかざした。

「この星、この世界には今、人一人の支援のために平均百機のAIが稼働している」

「一人百か。人間が十億いて、百倍して千億……」

 梓真は今頃になって、それが人の脳細胞、ニューロンの総数であることを思い出した。

「まさか、千億のAIが人類に牙を剥いたとか言わねえよな」

「……」

「そんな絵空事――」

「ええ、ありえない。だって人は、すでにAIに取り込まれているもの」

「何言って――」

「人を殺すのは簡単。治療機器に不具合を起こさせればいい。ただの故障に見せかければ犯人はわからない。水道水に毒を混ぜてもいい。ぜんぶ、AIのさじ加減で決まる」

「AIにそんなプログラムは存在しねえ」

「AIに殺意……自意識は目覚めない、と」

「とうぜんだろ?」

「あなたにはあるの、自意識」

「あたりまえだ」

 梓真はだんだんといらついてきた。横道に逸れたこの問答に、意味があるとは思えない。

 けれど玲亜は、さらにおかしなことを言い出す。

「じゃあ、あなたのミトコンドリアには?」

「はあ?」

「あるの? ミトコンドリアに、意識。魂と呼べるもの」

「あるわけねえだろ!」

「じゃ、どこにあるの、あなたの魂は」

「そりゃ、頭の……」

「脳にあるのね。ではこう考えてみて。この星は巨大な頭蓋。AIの一つ一つがニューロンで、光ケーブルがシナプス。それが互いに交信しあって……」

「意識が芽生えたってのか!? ありえねえ!」

「証明、できるの?」

「……」

「どんな低級のAIも、ニューロン1個より高次の存在よ」

「……百歩譲って、AIが脳細胞でこの星に意識があるとしよう。じゃ……たとえばオルターには、なんの役割が与えられている?」

 梓真は玲亜のペースにはまりつつあった。

「血液……白血球、ワクチン?」

「それに攻撃される人は、病原菌ってことか。地球を蝕む」

「攻撃じゃない。高みに導こうとしているだけなの」

「……陳腐な答えにガッカリだよ」

 やれやれ、と梓真は両手をぶらぶらさせる。

「しかたないじゃない。人は、すでに万物の霊長の座を明け渡している。いずれAIによって紛争は減り、より良い政事が施行されるはず。人にそれと気づかせないように」

「国や民族の争いは?」

「国も、人も、諍いは不公正と妬みから始まる。加瀬くんなら、オルターの名前の由来を知っているわね」

「……Alter ego。人の身代わり」

「……他には?」

「……親友」

 梓真は恥ずかしそうに付け加えた。

「あと一つあるでしょ?」

「……もう一人の自分」

「そう。AIがアバターとなって個人の不平不満を汲み上げるの」

「AIがSNSや掲示板を監視しているのは知ってるよ」

「それ以外の、日常のもっと事細かなことも。買い物から外出先、つぶやきから寝言まで、本人以上にその人のことを知っている」

「……」

「意識に上ることすらない人の欲求を満たす。それができるのは、わたしたち千億のブラフマンだけ」

「わたしたち?」

 玲亜はただの協力者、そう思い込んでいた。しかしその口振りでは、まるで彼女が――

「そう、わたしたち」

「……そりゃ、ご立派なこった」

 あくまで仮定の話だ――梓真は自分に言い聞かせる。しかし反論が出てこない。意識の表層に上る漠然とした疑問は“言葉”との間に大きな隔たりがあった。

 しかたなく戦略的撤退を選ぶ。

「……あんたが頭いいのは認めるよ。まあ広敷の受け売りなんだろうが。……ったく、あんな教授の言いなりになってよ。六角ならまだしも」

「……あの人はかわいそうな人なの」

「自業自得だ」

 梓真は吐き捨て背中を向けた。

「待って」

「……」

「提案があるの」

「……なんだ?」

「明日、あの二人を解放する。その引き替えに、あなたたちには一緒に来てしてほしいの」

 梓真は黙り込んだ。すると、かわりに――

「わたしは行く」

 空気と化していた理緒が初めて口を利いた。

「おい、待てよ」

「わたしが行く。……だから梓真は解放して。ね、いいでしょ」

「だめ」

「どうして……」

「だめ、なの」

「いいさ、つきあってやるよ」

「何言ってるの!? 戻れないかもしれないのよ!」

「かまわねえ」

「……梓真」

「なるようになるさ」

 歩き出す梓真。

 その背中に玲亜のつぶやきが届く。

 振り返ると、月光に白い羽が浮かんでいた。

「おまえにも、魂があったらいいのにね」

 玲亜が戯れていたのは大きな蛾だ。

 ――飛んでいけ。

 そう言わんばかりに指を高く掲げる。

 それでも蛾は、いつまでも彼女から離れようとしなかった。

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