出会い

「ふあ……」

 あくびの間に四時限目が終わっていた――というのは、もちろん彼の錯覚だ。

 実際には終了のチャイムのあとも伸びに伸び、食堂組とパン食組は机の上を片づけるのも慌ただしく教師への礼と同時に飛び出した。彼の目を覚ましたのはその物音だ。

 時計を見ると昼休みの半分近くが過ぎている。残っているのは弁当組、ほとんど女子だ。

 梓真あずまも慌てて立ち上がる。

 するとその行く手を、ふわふわの髪がふさいだ。

「あっく……加瀬くん。ちょっと、いいかしら」

 口調は穏やか。しかし顔が怖い。

「お昼休み、何かご予定が?」

「パン買って部室で食うつもりだが、それがなんなんだよ、まこ」

 大声を出してはいない。けれど、教室のざわめきが波を引くように静まりかえっていく。

(ん?)

 まずったか?――そう思う間もなく、真琴まことの手が教室の外、さらには人気のない廊下の端へと連れ出した。

「もお、だめじゃない!」

「……あ、ああ」

「学校では、ちゃんと、教師として、敬うように、って言ったでしょ!」

「ワリィ。つい、うっかりな。でもお前だってさっき――」

「なによお」

「いや、やっぱいいや……」

「むー、ぷんぷん」

(まずなあ、教師としての威厳を持てよ)

 脳内でツッコむ。

 すると真琴の背後から生徒が一人、ひょっこり顔をのぞかせる。にやにやと笑みを浮かべて。

(いいから、先行ってろ)

 手で追い払う梓真に、輝矢てるやは真顔で返し、口パクを始める。言いたいことがあるようだが、梓真には理解不能だった。

「あっくん! 聞いてるの!!」

「今、おまえ、“あっくん”って……」

「言ってません!」

 精一杯の迫力で真琴が睨む。

 夫婦漫才に飽きたのか、輝矢はやれやれと両腕を広げ回れ右をした。立ち去ることに決めたようだ。

 梓真と真琴が幼なじみであることを、この学校で輝矢だけが知っている。

「だいたいあっくんはねー……」

 輝矢を見送る間も真琴の説教は続いていた。いつ終わるのやら、このままでは昼休みが消えてしまう。

「なあ、用件はそれじゃないだろ?」

「……」

 真琴が渋い顔で黙り込む。

 授業態度。部活のこと。梓真があれやこれやと想像を巡らせていると、目の前に一枚の紙を突き出された。

(ああ、それかよ……)

「これ、どおゆーこと?」

 進路希望調査表。右上にはしっかりと梓真の署名がある、けれど――

「三カ所ぜんぶ空欄って何? こんなの出したのあっくんしかいないよ」

「いや、まあなあ……」

「もお、しっかりしてよお」

(……ん? まてよ……)

 彼女が苛立ちは至極当然。しかし、何かがおかしい。

「なあ、これって担任が持ってくるもんだよなあ。なんでお前が?」

「……わからない?」

「…………さっぱり」

「では、はっきり言います」

 真琴の口調はいつになく真剣だ。

「……怖がられてるの」

「は?」

「だから、恐れられているの! 松本先生にも原田先生にも田口先生にも、きみの教科を受け持ってる先生全員に!」

「なんで?」

「なんでって、あっくんの態度よ!」

 梓真には理解できない。授業中、だらしないこともあるが、それを怖いと思うだろうか?

「それと……」

 真琴が梓真を見上げて口ごもる。

(ああ……)

 一つは察しがついた。身長だ。こうして並ぶと真琴より頭二つ以上大きい。彼女が特段小さいわけでもないのに。

 それに、さっきの態度。梓真は気づいていないが、二人の関係を知らない生徒たちにはどう映っただろう? か弱い新人教師にナメた口を利く長身の彼を。

「それで、松本先生が相談に来て、わたしは別に怖いことないですよ、って言ったのよ? でもね、ほら、あの先生――」

「わかった、わかったから。……で、こいつをちゃんと書きゃいいんだろ」

 梓真は、ひったくるように用紙を受け取る。

 そこへ、

万久里まくり先生」

 現れたのは細身の男だ。背もそれほど高くない。だが梓真は身を強ばらせた。

 その一方、真琴は気安く言葉を返す。

「あら、何かご用? クレイ」

「お話し中すみません。実は先生、職員室までご足労願えませんか」

「え、何? 何かあったの?」

 男は声を潜める。

「それは、ここでは……」

「急ぎなら端末で呼んでくれて良かったのに……あれ、どこ? ……嘘! 落とした!?」

 体中を探る真琴に男が笑みをこぼす。

「職員室の、先生の机にちゃんとありましたよ」

「あは、あはは。やだあ」

「では、先生……」

「あー、はい……」

 真琴は頬を薄紅色に染めながら、かしこまって梓真に向き直った。

「えー、こほん。それでは加瀬君、さっきの件、ちゃんとやっておくように」

「……ああ」

「失礼します、加瀬さん」

「……」

 礼儀正しく会釈する男に、梓真は一度も目を合わせなかった。


 米粉のパンにクルミのベーグル――本日の戦果だ。しかしそのおいしさは、梓真の好みから大きく外れていた。

「くっそう……」

 非常口を押し開けて鬱憤を口にするも、それで収まるはずもない。

 部室は東の離れ。本校舎とは渡り廊下で繋がっていた。

 扉を閉めると、肺に蜜の香が紛れ込んだ。中庭には園芸部の育てている色とりどりの花が咲き誇っていた。味音痴の梓真だが、名前もわからないそれらを愛でる程度の美意識はある。

 けれど、それも今の梓真を完全に癒すことはなかく、古びたスノコを眺めれば、うるさく踏み鳴らしてやろうかと不埒なことを考えてしまう。

 と、そこに、

(……誰だ。なんだよ……?)

 人影を見つけた。女子だ。当然、輝矢ではない。こっそりと部室の窓を伺う姿は、あからさまに怪しい。

 梓真は心を入れ替えて、そろそろと忍び足で部室へと向かった。ところが渡りきる寸前、折れたスノコにつまずいて、派手に音を立ててしまう。

 少女はこちらに気づく。そして――

「加瀬、梓真……」

 戸惑う梓真。

 さわやかな風が過ぎ去る。軽やかな足取りの少女とともに。

 追いかけることすら頭にない。梓真は呆然と、その後ろ姿を見送った。


「先、食べてるよ」

 輝矢の口に運ばれていたのは、ここの一番人気、三種のチーズ入りカレーパンだ。

(うまそうだな……)

 唾液腺を刺激され、梓真は隣のイスにドッカと座り、売れ残りにかぶりついた。噛みしめると、案外とおいしい。

「もう昼休み終わっちゃうねえ」

 最後の一口を始末して飲み物に手を伸ばす輝矢に、梓真がもごもごと答える。

「……しゃあねえ。昼の分は放課後やる」

「ま、一人でがんばってね」

「何?」

 ごくりと飲み込んでから聞き返す。

「今日は定期検診。忘れた?」

「あ……」

「僕も見たかったけど、まあ、記録はあとで見られるし」

「……」

「本当は梓真も行かなくちゃいけないんだよ。しばらく行ってないんでしょう。先生怒ってたよ」

 先生とは二人の主治医、小野医師のことだ。

「俺は、別になんともない」

「ふう」

 輝矢は濡れティッシュで手と口を丁寧に拭い、

「そういえばさあ」と、話題を変えた。

「外が少し騒がしかったけど、何かあった?」

「……変な女がいたんだ」

「変な女っていうと、まこ先生か、ね……夕乃ゆうの先輩かな?」

「……お前は、あいかわらず……」

 かわいい顔に似合わず、輝矢は毒舌家だ。

「ここを、誰かがコソコソのぞいてて、んで、俺に見つかって、逃げちまった。ウチの制服は着てたが、初めて見る顔だ」

「知らない女子、ねえ……」

 この学校には三学年合わせても六クラスしかない。二ヶ月もすれば、顔ぐらい自然に覚えられてしまう。

「どんな感じの?」

「髪は短めで背は……ふつうかな」

「他には?」

「……体型は、まあ、スレンダーというか……」

「スレンダー……って、梓真の基準はお姉さんとまこ先生だから、あんまり当てになんないんだよ」

「んなこたねえ」

「それから?」

「……」

 少し驚き見据えた瞳。一瞬だったが、それが深く梓真の脳裏に刻まれていた。

 凛として、でもどこか寂しげな。

「梓真?」

「あ、ああ、まず食わせろ。時間がねえ」

 そう言うと、パンの残りを口に押し込む。

 そこへ、ホコリが舞った。

 梓真は頬を膨らませたまま、

「むあた、どっか……」

 ゴクン。

「隙間、開いちまったか」

 この離れは、ほんの短期間使用するつもりで建て増しされた粗末な作りの教室だ。今は空きだらけのこの学校にも、かつてはあふれるほどの生徒がいたらしい。

 軋む壁から差し込む風に、ひんやりと湿気がはらんでいた。

「帰りは雨かぁ。あーあ、行くのになってきた」

 輝矢の言葉に窓を振り返る。と、遠くの空に黒雲が控えていた。

「降んのか、今日?」

「傘持ってきたよね?」

「……」

「……ま、購買で買うんだね」

「つ、つきあえ」

 すると、合いの手を入れるように予鈴がなった。今から購買部に寄り道しては、授業に間に合わない。

「……じゃ、じゃあ次の休み時間――」

「梓真の買い物は長いからなあ。放課後一人で行ってらっしゃい」

「……」

「それとも、一緒に病院行く? それなら入れてあげられるけど」

 一見さわやかな、けれど梓真には嫌み混じりにしか見えない笑顔。

 やっぱり彼は意地が悪い。


 放課後――

 校舎内の勢いと活気は、外の雨足に勝るとも劣らなかった。運動部の練習だ。

 グラウンドが使えない日の練習は、筋力強化のようなじんわりときついメニューが主となり、彼らの息と汗が校内を熱気で満たしていた。

 それに一人、水を差していたのが梓真だ。二階、購買部の前で足を止めている。

 喧噪の中に立ち尽くし、じっと動かない。その異様さをひそひそと噂話をする生徒もいたが、彼の目にも耳にも入らなかった。

 部室の鍵は職員室に戻している。あとは傘を買って帰宅するだけ――なのだが、梓真は入り口の前でただ無為の時間を過ごしていた。端から見ればぼーっと。だが本人はこれ以上ないほど真剣だった。

 肺が懸命に酸素を送り、頭を巡らせている。

(……別になんともねえだろ。いい加減にしろ、俺)

 運動部員たちの見せ物となること数十分。ようやく意を決すると、深呼吸のあと、震える手で扉を開いた。

「あ、いらっしゃいませ……」

 レジから控えめな、少し幼い声が掛かる。けれど梓真は目もくれず、まっしぐらに店の奥へ急いだ。

(確かこっちだったよな)

 ここを最後に訪れたのは一年の三学期、三ヶ月も前のことだった。……まだがいなかった頃だ。

 筆記具、ノート、革靴と運動靴。手狭な店内を掻き分けるようにして、その先の雨具のコーナーにたどり着いた、のだが――

(なんで無い!?)

 記憶どおり、棚の一角に詰め込まれた学校指定の雨合羽を見つける。けれど肝心の雨傘が見あたらなかった。

 と、そこへ、

「もしかして、これをお探しじゃありませんか?」

 白いレースのエプロンを身につけた幼い顔立ちの少女。レジにいた子だ。差し出した小さな手に、透明とブルー、二種類の傘を握っている。

 そんな少女に、梓真は何も答えずに――答えられずにいた。血の気が引き、背筋は凍りついて動かない。

「ごめんなさい。雨の日は、レジの横に置くんです」

 梓真の挙動をどう思ったか、少女ははにかみ、おずおずと言葉を繋いで、

「……お手頃なのはこちらですが、加瀬さんみたいな大きい人はこっちの方がいいと思います。どうしますか?」

「……」

 中学生のような見た目の少女に、背が倍もある男が恐れおののいていた。

 滑稽だ。その自覚は本人にもある。

 だから梓真は、逃げ出しそうになる恐怖に抗い、ようやくのことで青い傘を指さした。

 しかし少女は無邪気に返す。

「それで、加瀬さん。本人登録はしますか?」

(名前、知ってんのか……)

「あの、加瀬さん?」

「……あ、ああ」

 そのまま受け取ればいいものを、梓真は流れで答えてしまった。

 梓真は少女に一歩どころか、四歩も五歩離れて続いた。会計所でも、かなり後ろにいる。その様子を伺いながらも、少女はキーを叩く指を止めなかった。

「では確認のため、画面に手を当ててください」

 レジの液晶には傘の代金と、『本人登録を承諾しますか?』の文字の下に手のひらの線画が表示されている。

 本人登録とは、傘やバッグ、自転車など、忘れ物・紛失が多いアイテムに埋め込まれた専用のチップに、持ち主の個人情報を入力する制度のことだ。もちろんその読み込み機があるのは、警察や駅などに限定されている。

 梓真は円を描くように、少女から距離を取ってレジに左手を当てた。

 ちなみに梓真が「加瀬梓真」であることはすでに監視カメラによって認証されており、そのまま持ち去っても、代金は個人口座から引き落とされる。

「掌紋が認証され、登録が終わりました。どうぞお持ちください」

 少女は傘を差し出し、はにかむように笑う。

 しかし、梓真はそれを受け取ろうとしなかった。

「……加瀬さん?」

 彼女は手を伸ばしたが、その分、梓真は後ずさる。

「くっ……」

 どこかで笑い声がした。

「なんて……無様な。んふ、くふふふ……笑いが止まりませんわ」

「……てめえ、なんでいる?」

「あらあ、上級生に向かってその言い様。失礼ではありませんこと? 二年の、加瀬梓真くん」

 物陰から姿を見せた女子生徒は、小柄さでレジの少女にも劣らない。横柄な口振りと胸を張る姿勢は、それを埋め合わせるかのよう。

 梓真はやけくそのように吐き捨てる。

「……こちらで何をなさってンすか、夕乃先輩」

「見回り、ですわ。人気のない時間を見計らって、こちらのヴェルさんに――」

 ヴェル、と呼んだエプロン少女に夕乃は抱きついて、

「不埒な行いを働く輩がいるのでは、と警戒しておりましたの」

「おかしな奴もいるんだな」

「ああら、他人事? 加瀬くんは不審者の自覚がございませんの?」

「俺のどこが――」

「はっきり、挙動不審ですわ!」

「な――」

 梓真は言葉を失った。

「おかしな振る舞いで、この子をどこかに誘い出すつもりだったんじゃありませんこと?」

「……どうしたらそんな妄想が出てくんだよ」

「では先ほど、いったいどうなさったのかしら? 説明できます?」

「……」

 言い返せない。

 彼女は梓真の“無様”の理由を知っている。つまりは梓真をおもちゃにしているだけなのだ。

 したり顔の夕乃へ苛立ちが沸点に届く。梓真は口を真一文字にするのがせいぜい。にらみ合いは続いていたが、夕乃の優勢はあきらかだ。

 梓真は撤退を考え始めていた。だがそれには傘を受け取らなくてはならない。

(それとも、ずぶ濡れで帰るか……)

 ところが――

「あら、どうされましたの?」

 うつむいていた少女――ヴェルが、夕乃に強い視線を投げていた。

「あの、会長さん。こんなの、もう――」

「いやですわ。ふつうに夕乃と呼んでください」

「……夕乃さん。こんなことしたら、加瀬さんがますます来てくれなくなります……」

「私は……いや、ただ、この男があなたに――」

「わたしはなんとも思っていませんから……だから……」

 その潤んだ瞳に、夕乃はあっさりと降伏した。

「わかりましたわ、もう! ……彼女に感謝なさい」

「……」

 梓真も緊張を解いた――いったんは。

 ヴェルが梓真に小さく歩み寄る。するとたちまち、梓真の全身に悪寒が駆けめぐった。

「もう、笑う気も失せましたわ」

 夕乃はため息を吐きながら、ヴェルの手の中の傘を橋渡しに梓真へと突き出した。梓真にできるのは、それを受け取りそそくさと立ち去ることしかない。

「……あの、加瀬さん?」

 少女の言葉に足を止める。振り返ることはなかった。

「お買い上げ、ありがとうございます。……その、また来てくださいね。できたら……で、いいんで」

 うつむいた笑顔。梓真はそれを横目に購買部を出ると、校舎の外へと走り出した。

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