第2話 お暇を、いただきたく思います

「お暇を、いただきたく思います」


 クラウスがそう切り出した時、視力を失って以降、見つめ続ける闇の向こうから、あられもなく動じる女性の気配が立ち上がった。

 優しく、そして温かく、芯に強さを持ちながら、ひどく弱く、寂しがり屋でもある。目の前にいる女性は、そういう女性であることは、よくわかっていた。だからいま、驚きと悲しみ、なぜ、と分かりかねる動揺と、それら全て、自身に沸き上がった感情を理解しかねる混乱が入り交じった、複雑な気配こそ、彼女らしい反応だった。


「ど、どうしてですか、クラウス……さん」


 緩く並みを打つ綺麗な陽光色の髪が、揺れている。まるで目に見えるようだ、とクラウスは口元だけで微笑んだ。

 あの人智越えた、しかし人の作り出した罪である百魔剣、その頂点の十本のひと振りとの戦い以降、努めて強くあろうとしてきた彼女は、まず自分の従者たちに敬称を付けることを止めた。『奇跡の聖女』として世界最大宗派、天空神教の高司祭であること、その地位と力を教会組織の内外に示し、彼女が目的とする『対百魔剣組織』を作り上げるための第一歩として彼女が変えたことがそれだったが、動揺のあまり、彼女本来の口調が出てしまっていた。そんなところも、実に彼女らしい。


「いまのままでは、駄目だと思いました。いまのままでは、わたしはシホ様のお力になれない」

「そんなこと……!」


 聖女、シホ・リリシアは豊かな表情に必死の感情を浮かべて、何かを伝えようとした。してくれた。それがクラウスには嬉しかった。きっと彼女は、いまのままで十分だ、と言ってくれるだろう。だが、それでは駄目なのだ。クラウスが求めるのは、シホの夢の隣に並び立ち、そのために戦うことなのだ。

 シホが言葉を止めたのは、おそらくその感情をシホが読み取ったからだ。彼女はその特性として、そうした他者の感情を誰よりも強く、正確に感じとる力がある。


「……詳しくご説明は致しませんが、わたしに思い当たることがあります。二年、わたしに時間をいただけないでしょうか。必ず、お力になれるような力を、術を、身に付けて戻って参ります」


 クラウスはそこで恭しく腰を折った。いまは何一つ、この目には映らない。それでも、見えていた時の記憶が補完して、この部屋の中がどうなっているのかはわかる。シホの執務室。元々は書庫として使われていた部屋を、シホが丸々執務室にした部屋だ。この天空神教大聖堂に来た頃のシホは引きこもりがちで、こうした埃臭い場所の片隅を好んだ。本来の彼女の、本来の姿を映す場所だ。ところ狭しと並べられた書棚に埋もれるように、部屋の入口からまっすぐ最奥に位置する大きな窓の前に、シホの執務卓はある。そこだけに陽の光は射し、シホはその机に向かって、こちらに笑みを投げ掛ける。誰もに幸福を分け与える、そんな聖女の笑み。

 いま、激しく動揺したシホに、その笑みは望めない、と思ったクラウスだったが、姿勢を正した時に感じた気配は、微笑むシホのものだった。


「……クラウスさんがそう仰るなら、変えようがありませんね」


 クラウスは自身の想像が、現実の光景に合致するように思えた。シホは少しだけ俯いた後、意を決したように声を張り、地位あるものの言葉を口にした。


「クラウス・タジティ騎士長の申し出を受け入れます。後任の騎士長を選出後、わたしの元に出頭させなさい」

「畏まりました」

「そして、クラウス」


 クラウスには、闇しか見えない。だが、シホの声に乗って、彼女の光は、届いてくる。言葉に反して、彼女は笑顔だった。目には涙をいっぱいに浮かべ、寂しさを堪えながら、それでも、笑顔だった。


「必ず、必ずわたしの元に戻りなさい。これは約束ではなく、命令です。わかりましたか」


 彼女を二度と泣かせないために。クラウスはそう思って決断した。しかし、その決断が、彼女に涙を呼んだ。

 今度こそ、本当に泣かせない。

 そのために、いまは自分の信じた道を行く。


「……御意、承りました」


 クラウスはもう一度、深く深く、頭を垂れた。

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