第4話 テスト

 雨粒が入った濃い灰色の雨雲の下、健吾はブルーワーカー御用達の作業着姿のまま、酷く疲れ切った表情を浮かべて、勤め先近くのベンチに腰掛ける。


(こんな糞のような仕事、一体いつまで続くんだ……)


 売れないロックバンドの動画のPVに出てきそうな、ごみが敷き詰められたごみ処理場、微生物の分解作用で生じる生ごみの腐敗する匂い、生ごみを運んでくるごみ収集車、そして、死んだ目をしながら働く同僚――


 健吾は老人に教えて貰った通りに、ハローワークの失業保険の抜け道を利用した。


 失業保険受給期間の間は働いてはいけないイメージがあるのだが、実は申請をすれば働いて良い事になっている、アルバイトをした場合、減額になるか、不支給になるかのどちらかである、ましてや受給待期期間の間はハローワークの職員が調べようがなく、雇用保険に加入しない程度の収入ならば、アルバイトをしてもいい。


 健吾はそれを生かして、週3日、一日3時間のごみ処理場のヘルプバイトに申し込み、上手い具合に失業保険が下りるまで収入が手に入る事になった。


 だが、心の中でいつもあるのは、老人との一夜――パチスロ店での馬鹿勝ちの事だ、普通の人の月給分を稼げる等の経験は健吾はした事は無く、その後に同じ店に出向いたのだが、何処の台も設定は1か2、メダルや玉は全くと言っていいほど出てはおらず、何故あんなふうになったのかが理解できてはいない。


(あれは一体何だったんだ?)


 健吾は老人との一件を不思議に思いながら、どん詰まりのろくでもない日々の生活に相殺されている。

 *


 平日の燈火公園には、散歩に来る暇な主婦ぐらいしかおらず、この公園を根城にするホームレスが幅を利かせている。


 ビニールシートと段ボールで作られた粗末な家は、お世辞にも雨風を凌げずに、ここで暮らすホームレスは、一度や二度は、市役所の福祉課の人間やNPO法人から、生活保護の受給勧められるのだが、自由が好きな彼等はそれをしない。


 一度味わった、社会の歯車にならない、本当の意味での自由な暮らし――


 社会生活を営む以上、日本政府が作る抜け道だらけの法律、会社での上司と部下との神経をすり減らす会社員生活、近所さんの顔色を伺いながら暮らす窮屈な日々から脱却したホームレスが幸せだという人間は、この世の中にはいる。


 ベンチで腰掛ける初老の男は、シケモクに火を点けて、ゆっくりと煙をふかしている。


 その初老の男性の心の中にあるものは、先週、こぼした豚汁のお礼をした、健吾の姿が浮かんでいる。


『ブブブ……』


 振動に気が付き、ホームレスには到底不釣り合いな、SIMフリーのスマホを初老の老人はポケットの中から取り出して、液晶を見やる。


『例の男が来たぞ』


 スマホのアカウントには、天狗、という名前があり、メールには、例の男が来たという文面が記載されており、初老の男はにやりと笑う。


『わかった』


 男は、スマホを操作して、天狗にそうメールをした。

 *


 待つ事5分程して、そこにはさっきのブルーカラーのユニフォームを脱ぎ、黄色と黒のブロックチェックシャツとスリムフィットジーンズといった今の若者の格好をした健吾が男の目の前に来ている。


「やあ、久しぶりだね、あれから仕事は決まったのかい? 」


「ええ、あれから直ぐに求人広告のパート勤務に応募したらすぐに決まりまして、4時間程度のパートに決まったのです、これはお礼です」


 健吾は手に持っている、お菓子の紙袋を男が座っているベンチにそっと置く。


「有難うございました」


「いや、いいんだよ。君が来た目的は本当はお礼じゃないんじゃないのかい? 」


 老人は健吾の目を真っすぐに見つめる。


 健吾は老人に心を見透かされたのか、勘弁した様子で口を開く。


「実は、お願いがあってきました」


 老人は、地面に落ちているシケモクを手に取り、ガスの切れかかったライターで火を点ける。


「私をあなたの仲間に加えていただきたい……!」


「ほう、何故だい?君はまだ若いね、その気になれば、それなりの会社に入れるんではないのかな?」


 老人は、まだ心身が若くて、うまく立ち振る舞えばそこそこの収入がある会社で正社員になり、それなりの人生を見込める健吾を疑問の目で見つめる。


「あの、俺もう20になるんすけど、わかるんだ、普通に社会人をしていても新卒で入った連中には年収では勝てないし、馬鹿にされたまま中小企業で終わる事が。企業に入れるのならばいいが、俺は多分、雇用保険の或るパートとかバイトで一生を過ごして終わりだ、大手に勤めている人間が稼ぐような金は手には入らないって事が分かるんだ、もうこのまま、燻ったまま人生を終わらせたくは無い、何でもやるから、俺をあなたの仲間に入れてくれ!」


 健吾は、地べたに土下座をして、老人に頼み込む。


 ――10分程の時間が過ぎただろうか、老人はベンチから立ち上がり、口を開く。


「坊主、お前をこれからテストしてやる、そのテストに合格したら、お前を仲間に入れてやってもいい、受けてみるか? 」


「ああ、何でもやる! 」


 健吾は目をぎらつかせ、老人を見やる。


 老人は健吾の血走った眼を見て、にやりと笑う。


「そうか、ならな、これからテストをしてやる」


 老人は、ポケットの中から、酷い皺があり所々に黒い染みがあり、端が切れた1000円札を見せる。


「一時間で、これを10万円に変えろ、方法は何でもいい」


「……!?」


 健吾は一瞬何を言われているのか分からなくなり、老人が持っているボロボロの千円札を呆気に取られて見ており、傍にいる仲間のホームレスは冷笑を浮かべる。


「無理そうならば」


「いや、何でもやる! 待ってろじいさん! 一時間でこいつを10万にしてやるからな!」


 健吾は勢い勇んで、1000円を握り締めて、老人の元から離れて行った。

 *

 健吾の隣では、キャバクラ嬢なのか、きつめの化粧と金髪、強めのパーマをかけた胸元を強調するワンピースを着ている女性が、下品な顔でスマホ用のイヤフォンをして、場をわきまえずに、やれ昨日は飲み過ぎたとか、あの女は最悪だとか下らない会話をする。

 

(キャバクラ嬢か。そういえば最近行ってないな。バックレるかなあ……)


「すいません、そうですね。はい……」


 対照的に、隣にいるスーツ姿のサラリーマンはスマホで電話口の相手に謝っている。

 

そのサラリーマンは健吾の一回り上の年齢に感じ、汗でヨレヨレのスーツを着て、仕事か何かで使う資料を所狭しと広げている。


(俺も、仮にこの賭けに失敗したら、こうなってしまうのか。社会の歯車になり、上司や部下との軋轢に耐えながら、たった15か18万ぽっちの給料の為に家族を養う為に欲しいものを我慢して暮らすのか……嫌だ、そんなの人生じゃねぇ、胃がキリキリするような痛みに耐えながらほんの少しばかりの暮らしに耐えるのは、単なるマゾだ……!嫌だ、そうなるのだけは嫌だ、もう派遣とかやりたくはねぇ!クソッタレ、一体俺はどうすれば良いんだ……?)


 隣にいるキャバクラ嬢風の女の元へと、ピンク色の髪をした20代らしき肌艶の女性が駆け寄ってくる。


「先輩、大変ですよ、美智子ったら、バイナリーで5万円負けたんですよ、そのバイナリーって何ですか?」


 キャバクラ嬢風の女性は、先輩風を吹かせながら、フフン、と笑う。


「あーあ、あんなのやっちゃって。あれってお金が10倍になるけれどもリスクはでかいのよね。バイナリーオプション、知ってる?」


(金が10倍になる……だと?)


 健吾はお金が10倍になると言うキーワードに過敏に反応をし、耳を立てる。


「いや知らないです」


 そのピンク色の髪をした高校生風の女性は、頭の回転が悪く博識がないのか、とろん、とした顔でキャバクラ嬢風の女性に尋ねる。


「バイナリーオプションはね、海外の取引でね、グラフを見て円高か円安かを見極めて投資をするの。例えばね、1000円を賭ければ倍の2000円で返ってくるの」


「へえー凄い!バイトよりも楽勝に金を稼げますね!エンコーやめようかな、エイズになるし!」


「声がでかいわよ、パクられるわよあんた。でもね、そんな夢のような話でもね、失敗談もあるのよ。中にはね、20万ぐらい負けた人もいるみたいね」


 キャバクラ嬢風の女性は、溜息をついて後輩の女にそう告げる。


「……マジかよ、姉ちゃん」


 健吾は思わず、キャバクラ嬢風の女にそう尋ねる。


 キャバクラ嬢風の女は健吾のいきなりの質問に、電車にたまに乗ってくる知的障害があり、奇声を発する人を見るような、汚物を見る目で健吾を見やる。


「え、ええ、そうよ」


「ありがとうな、姉ちゃん、いつか必ず店に行くからな」


 健吾はスマホを開いて、バイナリーオプションのことを調べる。


「ねぇ、行きましょう…」


 キャバクラ嬢風の女性は健吾が一世一代の大勝負をすることを露ほど知らず、気持ち悪いなと小さな声で毒づきながら、後輩と一緒に逃げるように店を出て行った。


 *

 燈火公園は正午となり、今日は平日な為にボランティアの炊き出しは無い、彼らボランティアは休日だけの奉仕活動しかせずに、ホームレスの唯一の栄養補給となる豚汁は無く、彼等は生活の為に端や外見を捨て生ごみやらコンビニやスーパーの廃棄済みの食材をもらい受け、拾ったフライパンや鍋、釜で質素なお昼ごはんの準備をする。


「なあ、クマさん、あの若造は来るのかな?」


 海外の人の様に鼻が長い、30代後半から40代前半ぐらいの若年ホームレスは、シケモクを口に銜えて、周囲を見渡す。


 クマ、と呼ばれる、健吾にテストをした老人ホームレスは、ベンチに腰掛けて、シケモクに火を点けて、新聞を真剣な眼差しで見ている。


「さあな」


「まあ、俺は来ないと思うけどな」


 クマの目の前にいる、ややふくよかな体をしている女性の中年のホームレスは、きびきびとした口調で他のホームレスの食事の支度をしている。


「ミカド、今日の食事は何だい?」


 長鼻の男は、先程から料理を作っている、ミカド、という茶髪で薄汚れたピンク色のTシャツを着た中年の女性に尋ねる。


「生きのいい魚があったから、刺身よ、てか、貴方達も手伝いなさいよ!」


「分かったよ」


 クマと長鼻の男は、ベンチから立ち上がり、彼等の元へと足を進めようとした。


「ねえ、天狗、あの子ってさっきの子じゃないの?」


「う、うん?」


 ミカドの指さす方には、酷く疲れ切ったが、目つきはギラギラしている健吾が、意気揚々と彼等の方へと足を進めている。


「賭けは俺の勝ちだな」


 クマは天狗と呼ばれる長鼻の男の肩を叩き、手を出す。


「分かったよ、俺の負けだ」


 天狗はホームレスには到底不釣り合いなブランド物の最新の財布から一万円を取り出して、クマに手渡す。


「おい!俺きちんと1時間で10万円を稼いだぞ!だからあんたの仲間に……」


 健吾は酷く疲弊しているのか、ゼイゼイと肩で息を切らせながら、封筒の中からお金を取り出して、10万円を見せる。


「確かにテストは合格だ、だがな坊主、一体どうやってこんなに勝ったんだ?」


「バイナリーオプションで儲けたんだ!不思議に勝ちまくった!」


「ほう、あの悪名高きバイナリーでか。なるほどな、確かにお前の勝ちだ、これからお前は俺達の仲間だ、おめでとう」


 クマは、健吾に手を差し出す。


「こいつ本当に勝ちやがった……!」


「リアルに凄いわね……!」


 天狗とミカドは、健吾がこのテストに受かる筈が無いと思っていた為、ふらふらの健吾を尊敬の眼差しで見つめる。


 健吾はクマの手を握ろうとしたのだが、気が抜けたのか、地べたに崩れ落ちて、気を失ってしまった。


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