第二章 生い立ち ②

 生前の治郎は、特に信心深いわけではなかった。死後、神様に会うなんてことは考えもしなかった。そんな彼に見えてきたのは、三途の川でもお花畑でもない、和風の村だ。村の外れに山からの湧き水が溢れていて、何人かが小ぶりの椀に注ぎ配って回っていた。治郎が自分の「意識」を取り戻したのは、この湧き水のそばだ。死んだ人間は皆、似たような格好をして、似たような表情をするものらしい。水を貰おうと一歩踏み出すと、背後から治郎は肩をつかまれた。

「やめとけ」

死んだはずの合気道の師匠だ。ああ、そういえば自分も死んだのだったなと、今更ながらに治郎は思い出した。

「師匠、どういうわけか来てしまいましたよ。あの湧き水は、いったい何です?」

八八歳で亡くなった師匠は、ひげ面をくしゃっとさせて邪気のない笑顔を見せた。師匠みたいに笑える人がいたんだと思うと、なぜかほっとする治郎。


 師匠は、湧き水から少し離れた場所まで治郎を案内した。生前お世話になった道場が建っている。

「そうさな。あの水は、飲んだ者の記憶を、少しずつ消してしまうらしい。飲んだら最後、あいつらみたいに同じ顔になっちまうぞ」

「あの後、どうなるんですか?」

「儂にも分からんよ。じゃが、村から出ていく門が見えるかの。ときどき出ていくやつがおる。思うに、もう一度生まれ変わるんじゃなかろうか」

「魂を再利用してるんですかね」

「どうでもいい。儂はまだ、自分の記憶に未練があるからのう。おまえが来たのも何かの縁。いくつか技を仕込んでやろう」

生前のイメージが強ければ、自分に関わりのあるものをここに「持ち込む」ことができるらしい。それにしても道場ごと「持ち込む」師匠は、スケールがでかい。

「師匠の未練って、そこでしたか」

「筋が良かったくせにすぐやめおって。ここなら逃げられんじゃろ」死んでもなお修行なんて、何だか複雑な気分である。


 死んで魂だけになれば、疲れも眠気もない。腹が減ったり喉が乾いたりもしない。体がないのだから、体捌きを習うそばから「記憶」していくのは、考えれば当たり前のことだった。


 師匠によれば、自分の体だと思っているのが「魂」で、身にまとっているのが「記憶」らしい。新しい技を覚える度に、道着が真新しくなり、黒かった袴も紫に近くなった。

「馬子にも衣装というが、開祖のような出で立ちじゃな」

合気道の稽古の合間に、師匠は居合いの型まで見せてくれた。片膝を立て抜刀し横凪ぎに払う「初発刀」、さらに歩を進めて振りかぶり真一文字の「二の太刀」。専門外の技まで披露したのは、修行の終わりを告げるためだった。


 残心・納刀の後、一振りの打刀(うちがたな)を治郎に渡した師匠は、清々しい顔でこう言った。

「これで充分。あとは勝手にするがいい。ただし、身につけた技の『記憶』は、あの門から外には、なかなか持ち出せんようじゃ。伝えたのはわしの我が儘。面倒なら捨ててかまわん」

言いたいだけ言った師匠は、道場を後にした。慌てて追う治郎が止める間もなく、湧き水をがぶ飲みして、さっさと門を出て行った。思いがそのまま行動に表れる。治郎が立ち止まったのは、身につけた「記憶」を手放したくなかったためかもしれない。


 師匠の残した道場に戻り、治郎はこれからのことを考えた。門から出て生まれ変わろうとすれば、湧き水を飲んで記憶を捨てることになる。ならば捨てた記憶はどこに行くのだろう。この場所に物理の法則が当てはまるかどうか分からないが、当てはまるなら「記憶」はどこかに「保存」されているはずだ。村には死者の魂と記憶、さらに湧き水。湧き水で消された記憶は、湧き水の源流である「山」にしかないはずだ。


 自分の「 記憶」が服装のイメージでしか認識できないこの村では、強くイメージしなければ「山」を見ることはできない。山を探れば、記憶を保持したまま生き返ることもできるだろう。


 とりあえずの方針を立てて落ち着いた治郎は、道場の真ん中で足を組んで座った。結跏趺座だ。高校時代、道場の稽古が終わるとよくやらされたものだ。呼吸は、短く吸って長く吐く。肺の中に長いこと空気を溜め込むイメージだ。深い呼吸で集中した治郎は、湧き水の源流である「山」を思い描いた。


 道場を出て、湧き水を見やる。その上をたどると、岩肌が続き、大きな山を見ることができた。頂上付近は霧がかかって見えないが、湧き水の源流を探り、記憶を保持して生まれ変わる手だてを探る準備はできたことになる。山道と呼べるほどの幅もない、獣道のような細い道に、治郎は分け入った。


 体が死んで魂だけになると、自分に見える世界は自分の記憶のフィルターを通した映像になる。未知の何かを見つけようとしても、自分が見たいものだけしか見えなくなるのだ。記憶を保持して生まれ変わる方法を探すにあたって、気をつけなければいけないのは予断。山に分け入った治郎は、努めて受け身の状態で周りを見ることにした。



 山に分け入って目にするのは、山林や岩肌。門から出ていくとき記憶が持ち出せないのであれば、山を越えればいいのではないか。だが、あまたの魂が残した記憶を蓄えているのがこの山なら、越えた先に何があるのか予想がつかない。治郎が生きていた世界でも、前世の記憶を持つ人はいた。問題なのは、それを可能にする手だてが分からないまま動いているということだ。


 ともあれ、すっかり霧に囲まれた今、後戻りはできない。魂だけの世界に疲れはないが、霧の中をうろうろする気にもなれない。自分のイメージで見えるようになるのかもしれないが、試行錯誤しているうちに予断にとらわれそうだ。治郎はいったん立ち止まることにした。


 歩いているとじゃましていた霧が、立ち止まると晴れる。目の前の岩肌に、わざとらしく洞穴が見えてきた。いきなり見えてきて驚いたということは、治郎の思い込みの産物ではないということになる。何か分かるかもしれないと思って、早速中に入った。


 奥のほうから、微かに風が吹いている。中は意外に明るい。二、三歩進んだところで、背後で大きな音がした。入り口がふさがっている。閉じ込められる前に、ここから出る必要があった。前に進むしかない。洞穴は次第に下り坂となり、明るさを増してきた。頭が締めつけられて苦しい。早く出たい。出た。眩しさを感じた治郎は、自分自身の産声を聞いた。

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