第一章 始末 ①

 伊納藩五万七千石。城下町の北部に植林された「伊納杉」は、良質の弁甲材で知られている。その弁甲材を港まで運ぶため、藩を流れる幸川から港までの九町(今で言うと約一㎞)ほどの距離を運河でつないだ。


 九州南東部に位置する伊納藩は、近海を流れる黒潮のおかげで、一年中雪が降らない。かつて「倭寇」の拠点にもされていた峯津港には、鮪や鰹が水揚げされる。港から一里北にある風早村で栽培されたサトウキビは、「さとねり」で特産の黒砂糖になって他藩にも送られていた。醤油が甘口のせいか、料理全般の味つけも、身分を問わず甘いものが好まれる。


 三月の初め。城下を離れ、幸川沿いをのんびり川下に向かう。「春一番」の風を嫌って「ほっかむり」をした男が、城下の南の外れに、小料理の店「月見や」を見つけた。二階建ての大きな店である。ここは主に商家の旦那衆が使う店だ。時々お武家も顔を出すくらいだから、料理の値段も安くはない。ちょっと一杯ひっかける気分で行くには、敷居が高い所だ。正面を避け、店の右脇を通って裏口に回る。抱え込んだ風呂敷包みから、明日の「始末」に使う衣装と道具を取り出した。出迎えたのは、女将のみさ。奥座敷の隣にある隠し部屋に通し、翌朝早くに握り飯と漬物を差し入れしている。男が来ていることは、店の者にも気づかれてはいない。


 いつもは酔客のお大尽で賑わっている「月見や」も、一夜明けた今日は貸し切りだ。静かな夜が訪れた「月見や」に、時間をおいて二組の客が訪れた。早速、客は奥座敷に通される。運ばれた料理を前に人払いされた座敷では、武家が二人と商人風の老人、さらに手代らしい若者が向かい合う。商人から酌を受けた年嵩の武家が、かすかに扇子を開き、パチンと音を立てて閉じた。伊納藩・勘定奉行の佐藤兵衛である。差し出された菓子折を一瞥した彼は、低い声で尋ねた。

「何がしたいのだ?」

差し出した老人は、口入れ屋の鎬屋治兵衛。平伏したまま

「ほんのお近づきのしるしにござります」

と答える。

「儂は、菓子を好まぬのだがのう」

治兵衛は黙って菓子を取り上げ、下に隠された山吹色の小判を見せる。

「このような『菓子』は、いかがでござりましょうや」

間髪を入れず、声が浴びせられた。

「受け取るいわれはない。儂を見くびっておるようだの鎬屋。柏木、よく言い聞かせておけ。儂はこのまま帰るぞ」

佐藤兵衛に声をかけられた与力・柏木主水が、菓子折を突き返す。その間に立ち上がった佐藤兵衛に、平伏したままの治兵衛は声もない。


 その後、何とか菓子折を主水に押しつけ口利きを頼んだ治兵衛は、手代に酌をさせてむっつりと酒を飲んでいた。出された料理を残したまま帰るのはもったいない。治兵衛は根っからの吝嗇(けち)だった。小半時もかけて飲み食いした治兵衛は、支払いを手代に任せて厠に向かう。


 年を取ると、厠にしゃがみ込むだけで膝が痛くなる。どっこいしょという自分の声にうんざりしながら、治兵衛は小さくため息をついた。暖かくなってきてかえって油断したのか、最近腹具合が思わしくない。先日古着を購った黒田屋の者に、粉薬を分けてもらった。存外効いたが、まだ本調子ではない。おかげで厠の度に、しゃがみこむことになる。治兵衛は下を向いて、もう一度気張った。その刹那、背中にわずかな「圧」を感じ首筋にちくりと痛みを感じた治兵衛は、そのまま心の臓を止めてしまう。


 天井裏から音もなく飛び降りて治兵衛を仕留めた若者は、七分丈の筒袖に裁着袴(たっつけばかま)。治兵衛の盆の窪の一点から太めの針を抜くと、外の仲間に手を挙げて合図を送る。背中から治兵衛の体を支え、死後に緩んだ肛門から垂れ流すのに任せているうちに三人の男が厠の壁を外し、治兵衛の亡骸を運び出した。密談の多い「月見や」には、談合に使われる座敷の隣に隠し部屋があったり、厠や角部屋の壁を外して抜け出せるような仕掛けが数ヶ所ある。悪事に巻き込まれることを嫌う女将が、黒田屋のつてで頼んだ大工に細工をしてもらっていたのだ。


 支払いを済ませた手代に、治兵衛が先に帰った旨を伝えたのもみさだった。治兵衛の人望は、あまりない。今度はお一人でお越しくださいと言われた手代は、鼻の下を伸ばして帰って行った。今夜の治兵衛との接点をなくす布石でもある。ここまでの段取りを終えたみさは、鎬屋に引き抜かれひっそり殺された人足の義姉。夫を亡くした後も、ひそかに義弟と連絡を取り合っていた。


 そんな中、義弟は運河の工事中に事故を装って殺されてしまう。不自然な死に納得できなかったみさの疑いは、黒田屋の調べで確信に変わり、その恨みは黒田屋の「始末」で晴らされたことになる。「始末」を手掛けた男が誰なのか、みさは知るよしもない。自宅に運ばれた治兵衛の亡骸は、翌朝、首を吊った姿で発見された。

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