第13章

梨花さんと初めて二人きりであったあの日から1週間が経ち、また宮本君と授業を受ける日がやってきた。


この1週間、彼からの依頼に対してなんと返事をしようかずっと考えていた。

勿論答えは出ている。重要なのはだ。


いつものホールへ向かうと、相変わらず宮本君が一人で座っていた。


先週とは違って彼は僕の挨拶にも応じ、話を振っても普通に反応してくれた。


しかし、について彼から触れてくることはなく、そのまま時間が流れて3限目の授業が終わった。


今日も梨花さんと会うまでにはまだ時間があった。


しかし彼から何か言ってくる気配はないので、僕はそのまま帰ることにした。


彼には変わった様子もないし、ここはあえて泳がせておくのも一つの策だろう。



「じゃ、もう行くね。また来週」



荷物を持って席を立ったその時、彼は声を掛けてきた。



「君はまだあの人のこと信じてるの?」



彼の言葉は重くて冷たい鉛のようだった。


僕が始めから彼の言葉なんて信じていないのが、彼にはお見通しのようだった。


昨日までに組み立てた言葉たちを思い返しながら、僕は答えた。



「…信じてるよ。あの日の梨花さんの目は本物だった。それに仮にあの話が嘘なんだとしても、僕が毎晩夢に見ているあの光景は本当なんだろ?あんな気味の悪いことを言って梨花さんに近づこうとする奴を僕は信用できない。悪いけど、彼女のことは諦めてくれないかな。彼女はひどく怯えているんだよ」



勇気を振り絞って言ってやった。


梨花さんは僕が守らなければならない。


こんなストーカー男に梨花さんを渡してたまるか。


そうだ、梨花さんはずっと前に僕の……


……僕の、なんだ?


今、僕は何を言おうとしたんだ?


思わず感情に任せて喋ってしまい、自分が何を言ったのか意識していなかった。


そして、今の瞬間に記憶の奥底にある強い感情が揺さぶられた気がした。


それは梨花さんと初めて対面したあの時に感じたあののような。


いや、あののような…。


それに近い何かであった。



「…そうか、残念だね」



宮本君の言葉が耳に入ってきた。


彼の顔を見ると、哀れな虫けらを見るような表情で僕を見ていた。



「僕は本当に彼女に危害を加えるつもりはないんだ。いや、というべきか…。とにかく僕はあの噓つきの狂人から君を守りたかったんだ。本当だよ。でも、君にそこまで信じてもらていないなら仕方がないね。好きにするがいいさ」



捨て台詞のようにそう言い残すと、彼は足早に僕の前から去っていった。


僕は黙って彼の背中を見送った。


最後に残した言葉の意味は、何度考えてもよく分からなかった。




彼と別れた後すぐに大学を出て、数分後には家に着いた。


梨花さんと会う時間はまだ先なので、適当に本でも読んで時間をつぶすことにした。


その時、スマホが震えていることに気が付いた。


画面を見ると、母親から電話がかかってきているのだと分かった。



「もしもし?」


「もしもし武政?久しぶりねえ。って言ってもまだ1か月も経ってないのね」


「久しぶり。何か用でもあるの?」


「いや、これと言って用事はないんだけど、元気かなあって思ってね。一人暮らしとか、大学生活とか、いろいろ慣れてきた?」


「うん、一緒に授業受ける友達もできたし、先輩とも仲良くなったよ」


「あら先輩と?珍しいじゃない、年上の人と仲良くなるなんて」


「うん、3回生の女の人なんだけどね。一人は隣の部屋に住んでて、もう一人は先月まで今僕が住んでるこの部屋に住んでた人らしいんだ」


「えーすごい偶然!運命的ねえ」


「その人は佐々木梨花さんっていうんだけど、二人で食事にも行ったりして、結構仲良くさせてもらってるよ」


「……佐々木、梨花…さん…?」



先程まで元気だった母親の声に、突然覇気がなくなった。


梨花さんの名前を聞き返してきたようだが、そんなに珍しい名前だったんだろうか。



「うん、佐々木梨花さん。たしか地元は近くだって言ってたよ。えっと、どこらへんだっけな…」


「……地元が近く?それって隣町じゃなかった?ほら、東のほうにある、小・中学校の学区は同じの…」


「そうだったっけな。うーん、あんまりはっきりとは教えてくれなかったんだよね」


「……ねえ、武政」



母親は、恐る恐るといった感じで聞いてきた。



「あなた、覚えてないの?梨花ちゃんのこと」



スマホを耳に押し付けたまま、思わず首をかしげてしまった。

覚えているかって?どういうことだ?



「…え?覚えてないかって、どういう…」


「あ、いや、覚えてないのも無理ないわね…。なんでもないのよ、気にしないで」



母親はそう言うと、強引に最近の宮川家の話題に移ってしまった。


僕は母親の話に相槌を打ちながらも、先程の言葉を脳内で反芻していた。



『あなた、覚えてないの?梨花ちゃんのこと』



意味が分からなかった。


僕と梨花さんが知り合ったのは僕が大学に進学してからであり、母親はまったく面識がないはずだ。


今の質問はまるで、僕と梨花さんがずっと前に知り合っていたみたいじゃないか。



ずっと前から、ずっと…



………………



今日大学で宮本君に言葉を投げつけた際に、自分が心の中で思っていたことをふと思い出した。



『梨花さんは僕が守らなければならない。

こんなストーカー男に梨花さんを渡してたまるか。

そうだ、梨花さんはずっと前に僕の……』



自分の中の時間軸がぐちゃぐちゃになっているのを感じた。


…もしも、ずっと前に知り合っていたのだとしたら?


梨花さんと初めて対面した時に感じたあの既視感の正体は、僕が彼女と知り合いだったのをずっと忘れていたから?


しかし、梨花さんだって僕にはじめましてと言っていた。


それに彼女と知り合った記憶は本当にない。これは間違いないはずだ。



「武政ー?もしもーし?聞こえてる?」


「…ああ、ごめんごめん。ぼーっとしちゃってた」


「しっかりしなさいよ。あなたちゃんと寝てるの?そうそう、寝てると言えばね、この前すっごく変な夢を見ちゃったんだけど…」



…夢。夢か。


僕と梨花さんは、夢で繋がっているといっても過言ではない。


前に心理学者の本で読んだことがある。


睡眠中の脳はその人が保有する情報を整理しており、その過程を再生しているのが夢である、と。


…僕は大学で梨花さんと知り合う前から、夢で彼女の顔をたしかに見ていた。


ということは、僕が以前に梨花さんのことを現実で見ているとしてもおかしくなない。


それどころか同じく夢に出てきているあの宮本君だって、ずっと前に出会っている可能性もあるのだ。


僕はもはや、自分の脳を信用できなかった。


本当に記憶にはないのだが、自分の記憶と現実が異なっている可能性があることが恐ろしかった。



「…でね、学校みたいな建物の前を歩いてたら、風にあおられて車道側に倒れそうになっちゃって、そこで目が覚めたんだけど…もしもーし?」


「…ああ、それは変な夢だね。あれじゃない?パート頑張りすぎなんじゃない?それで疲れてて変な夢見るんだよ、きっと」


「そうかもね。まあ武政が家にいないと寂しいし、パートでもして家出てないと退屈だから、仕事頑張ってくれてるお父さんに申し訳なくなっちゃうのよ」


「そっか、また実家帰るよ。ゴールデンウィークは暇だと思うし」


「ああそうそう!それを言いたかったの!お父さんも会いたがってるから、また連絡もしてあげてね」


「うん。じゃあ、僕この後出かける用事があるから切るね」


「あらそうなの。まあ元気そうで安心したし、大学頑張ってね。変な人とつるんじゃだめよ」


「子供じゃないんだから。じゃあまた」



電話を切ると、まだ混乱している頭を何とか落ち着けるために深呼吸をした。


時間を見ると、そろそろ家を出てもいい時間帯だ。


少し落ち着いてきたので、駅に向かうことにした。


梨花さんとのLINEを確認すると、今日は梅田集合だった。

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