第6章

翌朝、LINEの通知がきていた。


重い瞼を薄く開いてスマホの画面を確認すると、美由紀さんからトークルームに招待されていた。


そこには美由紀さんのアカウント、僕のアカウント、そして「Rika」という名前のアカウントの3人が属している。きっとこの人が昨日美由紀さんが言っていた佐々木梨花さんなんだろう。


僕は美由紀さんから続けて送られてきていた日程調整に回答し、軽めの朝食を済ませて大学へ向かった。今日は2限目と3限目に授業がある


2限目は、心理学入門という一般教養の科目を初めて受講する。


教室は数百人は収容可能だと思われる大きなホールだ。そのホールに足を踏み入れると、なんとなく自分が「大学生になった」ということが実感できた。


どこか空いている席はないかとキョロキョロしていると、見覚えのある顔が目に止まった。


目線の先にはあの宮本真浩が3人掛けの席に1人で座っていた。


これは都合がいい。


近いうちに梨花さんとも会うことだし、彼がどんな人なのか探ってみよう。



「宮本君!隣空いてる?座っていいかな?」


「あ、うん、構わないよ」



入学式ぶりに彼と出会った。


改めて彼の顔を見たが、やはりそこには夢の中の少年がいた。



「宮本君、この授業誰かと受ける約束とかしてる?」


「いや、してないよ」


「そうなんだ!実は僕も1人なんだけど、よかったらこれから一緒に受けようよ。テストの時とか助け合いたいし」


「君がいいなら僕からもお願いするよ。あの、僕この分野はそんなに詳しくないから自信なくてさ」


「自信ないのに取っちゃったの?まあでもこの授業楽に単位がとれるって有名らしいし多少苦手でも取りたくなるよね」


「うん、4年生がやってる履修相談会に行ったらこの授業を猛プッシュされて…」


「あはは、みんな同じだね。僕この手の分野は得意だからいろいろ教えるよ。個人的に心理学系の本とか買って読んでるんだ」


「あ、ありがとう。助かるよ」



彼は至って普遍的な大学生に見えた。


こんなどこにでもいそうな男子大学生が実は過去にストーカーをしていて、今現在も梨花さんを狙っている可能性があると思うと僕は恐ろしくなった。


この広い世界のどこに狂気が潜んでいるか分からないし、いつ狂人と出会うかも分からない。そんな狂人と見られる男と僕は友人として接しているのだ。


授業中もとくに変わったことはなく、僕たちは教授から配られたレジュメの空欄を埋めながら授業を聞いた。


そして授業が終わると、ホールいっぱいの人の波がどっと食堂へ向けて流れ始めた。


僕たちもその流れに乗って2人で昼食をとることにした。


食事中、僕は彼にいろいろと質問を投げかけてみたが、やはり彼からはごく普通の返事が返ってくるだけで、怪しい発言はこれと言ってなかった。




結局彼とは3限目の必修科目が終わるまで一緒に過ごしたが、彼は最後までなんの変哲もない一般大学生だった。


ただ、僕が自然な流れで年齢を伺ったところあっさりと21歳であることを教えてくれて、この大学に入るために2浪したことも何の躊躇もなく話してくれた。


自分でいうのも気が引けるがこの大学はそれなりに偏差値が高く、合格できればエリートと言われる大学なので、2浪ぐらいしている人は珍しくない。とはいえ相当な強い想いがないと2浪はできないだろう。


それと、彼はこの市内で一人暮らしをしていることと、絵画を観るのが趣味なんだと教えてくれた。


今日彼と過ごして得られたモノは僅かだったが、とりあえず彼の容姿・名前・梨花さんと同い年であることから、彼は毎晩僕の夢に出てくる少年であり、かつて梨花さんをストーカーした宮本真浩で間違いないだろう。


そして彼は2浪してまでこの大学に入学してきたということは、今現在もなんとかして梨花さんに近づこうとしている可能性が高い。しかも近くに住んでいるとなるとさらに危険だ。


そして彼の趣味は絵画を観ることだと言っていたが、それも彼が梨花さんに近づく動機になっているような気がした。理由は僕が見ている夢にいつも“絵”が出てくるからだ。


あの絵の何が彼を惹きつけ、それがどのようにしてストーカーの同期に繋がったのかは不明だが、どちらにせよ無視できる事実ではないとなんとなく思った。


これらのことは梨花さんにも伝えなければならない。


僕はその日の授業が終わったので家に帰ることにした。宮本君はバイトに行くと言っていた。


その日の夜、美由紀さん達とのトークルームにメッセージが来ていた。


見てみると、3人で会う日程が決まったようだ。


2日後の夜19時に大阪駅の近くにあるHEP FIVE前に集合とのことだった。

僕は「了解です」と書かれたスタンプを送り、スマホをベッドの上に放り投げた。


明日は休みなので、今日はゆっくり読書でもしながら過ごすことにした。




・・・・・・・・・・




彼女との交際が始まって1ヶ月の時が流れようとしている今日、僕は初めて彼女のアパートに遊びに行く。そしてそのまま泊まることになっている。


これまでは食事に行ったり映画を見に行ったりと外に出かけることが多かったが、僕が一度君の家に行ってゆっくり過ごしてみたいと提案したところあっさりと了承してくれた。


この予定が決まった日から僕の心は躍りっぱなしだった。


彼女と2人きりで過ごせる。


僕はこの時がくるのをどれだけ待ち望んだことか。


この4年間ずっと心の中にある彼女への想いは、今日果たされるのかもしれない。


僕は荷物をリュックに詰めると、彼女の家へと向かった。




彼女の部屋はとても綺麗に整頓されていて、加湿器からはアロマの香りが漂っていた。


まもなく彼女はお茶とお菓子を運んできてくれた。


お母さんみたいだねと言うと、彼女は照れ臭そうに笑った。


僕と彼女はいつものように他愛もない会話に華をさかせていた。


付き合っているとはいえつい1ヶ月前に数年ぶりの再会を果たしたばかりなので、僕たちの話題は尽きることがなかった。


高校時代の話、互いの大学の話、アルバイトの話、彼女の友達の話。


本当になんでもない会話だが、今の僕にとっては十分すぎるぐらい幸せだった。


そして夜になると、彼女が晩御飯を作ってくれた。


中にチーズが入ったハンバーグと青紫蘇のソースがかかったサラダ、そしてご飯に味噌汁といった立派な食事だった。


僕たちはテレビで録画した映画を見ながら晩御飯を食べた。こんなにもちゃんとした食事をしたのは久しぶりな気がした。


映画を観終わると、2人でお茶を飲みながらその映画の感想について語り合った。


その映画は画家が主人公の作品だった。


僕はふと思い出したように彼女に言った。



「そういえば佐々木さんは美術部だったよね。今はもう描いてないの?」


「最近は描いてないなあ。高校の部活を引退してそれきり」


「勿体ないなあ。僕、君の絵好きだったんだけどな」


「ありがとう。でも私、美術部の中でもあまり上手じゃなかったし上達も遅かったから、大学に行ってまで続けようとは思えなかったの。顧問の先生がよく見せてくれたものすごく価値のある絵画も、なんだかよく分からなかったし」



彼女は俯いて少しの間黙り込んだ後、僕の目をしっかりと見て話し始めた。



「でも、あなたが手紙の中で私の絵を褒めてくれていたのを見て、初めて絵を描くのをやめたのを後悔したわ。ああ、私の絵にも人に感動させる力があったんだって。私ね、あなたからの手紙を読むまでは、私の中であなたがどんな存在なのかはっきりと分かっていなかったの。毎晩夢に出てくるからなんとなく意識はしていたけれど、何年も会話していない人を好きになるわけないって思い込んでたの。でも、あなたが絵を褒めてくれたのを見て初めて、『私にはこの人が必要なんだ』って気が付いたの。宮本君、これ本当よ」



再開してから今日までいろいろな話をしたが、彼女がこんなことを言うのは初めてだった。


改めて自分が彼女を想い続けたことは間違いじゃなかったと思った。



「ねえ宮本君、私もう一度絵を描くことに挑戦しようと思うの。上手くできるかな?」



僕はこれ以上ないぐらい大きく頷いた。



「もちろん、絶対いい絵が描けるよ。僕も1人目のファンとして応援する」



彼女はほっと綻んだように微笑んだ。


僕も同じく微笑み、彼女をそっと抱き寄せた。


僕たちはしばらく無言で抱き合っていた。



「ねえ宮本君、あの夢の話なんだけど」



彼女が突然口を開いた。



「あのね、私たちが再会した日の最後に私が聞いたこと覚えてる?『あの日、私たち2人きりだったよね?』って聞いたの。あの質問に関することなんだけど、実は4年前のあの日の夢の中に、私とあなた以外の別の人が出てきているの。それも、宮本君の少し後ろに立っているだけ。私その人が誰なのかずっと気になって、もしかしたら宮本君の知り合いかなって思ってるんだけど、本当に知らない?」



僕は頭をフル回転させて記憶を辿った。


しかし、何度思い返してもそんな人が自分の後ろにいた記憶はない。僕はたしかに1人で彼女を待っていたのだから。



「いや、本当に知らないなあ。あの日の僕は寧ろみんなに隠れて君を1人で待っていたんだ。女の子を駐輪場で待っているなんて、学校の奴らにバレたら恥ずかしいと思っていたしね」



僕はそう答えると彼女は僕の身体から離れ、机の引き出しからスケッチブックと鉛筆を取り出した。



「宮本君、ちょっとまっててね」



僕は言われた通り黙っていた。


彼女はどうやら絵を描いているようだ。


ものの数分で彼女は絵を完成させたらしく、その絵を僕に見せてきた。


その絵はとてもよく描けていて、顔の綺麗な1人の少年が写っていた。

僕は眉を顰めて彼女の方を見た。



「あ、もちろんだけどその人が好きだとかじゃないのよ。だって私はあなたの彼女だし、あなたが好きなんだもの。」



そして、彼女は言いにくそうに言った。



「その人、すごく顔が整ってるでしょ?私、夢でその人を見たその瞬間から、その人をモデルに絵を描いてみたいって思ってたの。もちろん恋愛感情はないのよ?ただ、モデルとしては素晴らしいと思ったの。ねえ宮本君、本当に知らない?」



彼女の目は本気だった。


僕は彼女の役に立ちたいと思い、なんとか思い出せないか必死になった。


しかしどう考えてもあの日の僕の後ろには誰もいなかった。



「ごめん、やっぱり分からないよ。あの日の僕は絶対に1人だったんだ。あの、夢ってすごく曖昧なものだし、もしかしたら佐々木さんが過去にどこかでふいに出会った人がたまたま夢に出てきてるんじゃないかな?」



彼女は僕の言葉を聞くと、一瞬目を伏せた後に僕の目を見て微笑んだ。


その一瞬の間に、彼女の目から光が消えた気がしたが、僕の目を見る彼女の目はいつもと変わらず優しかった。



「そっか、ごめんね変なこと聞いて。やっぱり私、宮本君にモデルをやって貰おうかな」


「僕でよければなんだってやるよ」



僕たちは再び抱き合った。


彼女は先程よりも強く僕を抱きしめていた。


そのまま僕たちは互いを求め合い、そしてひとつになった。


行為中僕は何度も彼女の胸元に手を当て、彼女にも僕の胸元に手を当てさせた。


彼女の心臓はとくんとくんと規則正しく鼓動を打っていた。


僕の心臓はというと、異常なほど激しく運動を続けていた。彼女が驚いてしまうのではないかと思うほどに。


激しく興奮した僕は、彼女をぎゅっと抱きしめ、耳元に顔を近づけてある言葉を囁いた。


その時の僕には見えなかったのだが、彼女はひどく怯えた顔をしていたようだった。


そしてその後、早くも僕たちの関係には変化が生じてしまうことになったのだ。

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