(3)

 さて彼女は、ようやく安堵の表情を見せつつ、何とかショックから立ち直ろうとしている。呼吸がまだ荒い。


「ふぇぇぇ・・・」


 俺に礼を言う余裕すらない。脚の旧ヒル地点を検分すると、傷は大したことないようだがちょっと血が出てる。そういえばおばちゃんが言ってた。ヒルの唾液には麻酔作用があって噛まれても痛くない。血も固まりにくくなる。ってことは、彼女の体内には既にヤツの唾液が注入されちってんのか? なんという鬼畜。なんといううらやまけしからん。


「いちおう消毒して包帯巻いた方がいいかな。バイキンとかもあるし」


 気色悪そうに傷口を眺めていた彼女は、「バイキン」って言葉にびくっとして、不安そうに俺の顔を見た。ちょっと優越感。よしよし俺が守ってあげるからね。


「病院行くほどじゃないと思うけど・・・うち近いの?」

「う~ん。ちょっと遠い。自転車ならすぐなんだけど・・・」


と、彼女はあぜ道の方をちらと見た。停めてある彼女のチャリはよく見るとけっこう高級そうなやつだが、遠目でもダメージは明らかだった。車輪がひん曲がってる。


「俺んちで消毒すれば? すぐそこだから」


 彼女の表情に、直ちに警戒の色が浮かんだ。条件反射的に、


「いやいいです! 大丈夫だからどうもっ」


 繊細な俺は正直傷ついた。けっ。こんなに親切にしてあげてるのに、まだ不審者扱いですかそうですか。まあヤバい奴ほど親切かもしれんけど東京じゃ。この時点で、俺のよそ者センサーは、この女が東京もんであることを高確率で検知していた。


「あそう。ならいいけど。ヒルって、血が止まりにくくなるんだ。なるべく早く傷口洗って、ちょっと傷の周りから絞るように押して、包帯したほうがいい。じゃ」


と、冷ややかに退散しかけた俺の背中へ、


「あの! やっぱりあの! さっきの話で。消毒とか。いいのほんとに?」


 振り向くと、彼女はヨレヨレになったチャリを引きずりながら、引きつった愛想笑いを浮かべている。ははあ。どうやら、このチャリ連れて血を流しながら自分ちまでたどり着くのにかかる時間と、俺の不審者リスクを、天秤にかけやがったな。


     *


「ちょっと待って。今タオル出すから」


 俺がタオルを見つけて玄関に戻ると、彼女は脱いだ靴をきちんと揃えて、


「お邪魔しまあす」


さわやかに声を上げた。


「おうちの人は?」

「誰もいないよ。共働きだから。あ、靴下脱いじゃっていいよ。濡れてんだろ。裸足はだしで。風呂場そこだから。シャワー使って」


 いきなり彼女の顔がこわばった。「一軒家に俺と二人きり」+「脱げ」+「風呂場」+「シャワー」=「変態レイプ魔」という等式でも成立したのか、


「お邪魔しましたっ」


 脱兎のごとく逃げ出しかけたが、急いで濡れた靴を履こうとして、くちゃっという気持ち悪さに、うっとたじろいだ。俺はもう半ばあきれて、


「何もしないって。消毒薬、今出すから。包帯がいい? 絆創膏? まだ血出てる?」

「・・・何もしないってのが一番危ないんだから・・・」


 彼女はまあ観念したらしく、それでもぶつぶつ言いながら、俺に背中を見せないよう用心しいしい、じりじりと風呂場へ向かった。脱衣所の内側からしっかり鍵をかける音がした。俺がノックすると、中で飛び上がらんばかりに驚いたご様子。大きく息を吸って上ずった声で、


「はいっ! なに!?」

「消毒薬は、そこの洗面台の棚のとこ。包帯は、ええと・・・たぶん二番目の引き出しにあると思う」


 まったく、どこまで疑り深いんだ。これだから東京もんは。人を信じるという尊い心を完全に失っている。どうしてこの俺を信じて、服を全部脱ぎ捨ててシャワーを浴びてくれなかったんだ。ちょっとだけ期待してたのに。


     *


 消毒と包帯をして、それから靴下と靴をきれいに洗ったころには、彼女の警戒心もやや薄れ、落ち着きが戻ってきた。靴はドライヤーですぐ乾いたが、靴下は乾燥機であと十分といったところ。俺たちはそれを待ちながら、ダイニングでジュースを飲んでいる。


「南高? 今日は午後から休み? うちといっしょだね」

「見ない顔だけど、転校生? 引っ越してきたの?」

「東京から?」


「そう」

「そう」

「そう」・・・


 取り付く島もない。俺はしびれを切らして、


「あのさ。さっきからいいかげん、そのジト目やめてほしいんだけど。俺、不審者に見える?」

「見えるわよ」


 真顔で断言されてしまった。さすがに腹に据えかねた俺は、


「は? これだけ親切にしてんのに、ちょっとそれは――」

「さっき私の写真撮ったでしょ」

「うっ」


 そんな大昔の些細な出来事、よく覚えてましたね・・・。だが彼女は、有無を言わせぬ刑事の口調で、


「見せて」


 逃げ道はない。しぶしぶケータイのアルバムを開いて渡すと、彼女は少しスワイプしてみてから、ちょっと意外そうに言った。


「これだけ?」


 ああ変な画像撮ってなくてよかった。日ごろの行いと純真な我が心! 俺は胸を張った。てか、どんな画像予想してたんですか? あなたは。


 ・・・だが待て。俺の渾身の一枚にさり気なく宿る――まったく重要ではないが誤解を招く恐れのある――細部の描写表現。具体的には、例えば透けた下着の線とか。そこに注目させてはならない。不適切かつ誤った解釈を許してはならない。俺は機関銃のようにまくし立てた。


「そうだよ! ちゃんと後で許可もらって、肖像権クリアするつもりだったんだ! いいだろ芸術だろアートだろ! モデルがいいから! 俺、写真部だしっ」


 まあ、実質帰宅部だけどな。うちは必ずどっかに入らなきゃならない規則だし。


「この構図。最高だろブレッソンだろ。ニューカラーだろマイケルケンナだろサルガドだろ紀信だろ! オフィーリアみたいだろ!」


 ほぼ口から出まかせでテキトーな固有名詞を並べた。すると、最後のやつが予想外にヒットして、


「オフィーリア?」


 彼女は、しげしげとケータイを見直した。


「そう。知ってる? 有名だよ。美術の教科書に載ってんじゃん」

「うん。見たことある」

「だろ? 東京でも、同じ教科書使ってんのかな?」

「実物。たしかロンドンで見た」


 俺は絶句した。すいません次元が違ってまふ。うすうす気づいてはいましたが、やっぱお金持ちのお嬢さんだったんですね。うまく取り入ればフレンチディナーぐらいおごってもらえるかも。・・・そんな俺の思惑をよそに、彼女は首をかしげて、


「・・・でも、あんまり似てないよ、これ」


 ですよね。確かに、哀しい歌を口ずさみながら川底に沈んでゆく悲劇のヒロインと、自分からチャリで田んぼに突っ込んでゆくあなたとでは、微妙なところで無視できない風情の違いがありますね。が、俺はとっさに、


「うん、そうだね! モデルはこっちの方が断然良いから! ねっねっ」


と見え透いたフォローをかました。本心だけど。


「・・・まあいいけど」


と彼女は、変な画像じゃなかったことにいちおう安心したみたいで、ようやく表情を緩めた。アートとかモデルとか言われて、ちょっと気をよくしたってのもあるんだろう。スリッパの上で素足をぶらぶらさせて、アルバムの写真をすいすいとめくりながら普通に喋り出した。何だよちゃんと会話できるじゃないか。


「これって北高?」

「男子校じゃないのね。共学?」

「うちは女子高なの。知ってた?」


 もちろんです。地元民で知らないやついないから。南高は、百年以上の伝統をもつ、今どき絶滅危惧種の女子高です。お嬢さま学校です。県民の誇りです。


 だが、正直言って、目の前のお嬢さまは、よく見る地元のお嬢さまとはどこか本質的に違っていた。一言で言えば、一挙手一投足が、あか抜けている。ダサさのかけらもない。さっき田んぼから上がってきた時でさえ、まるでモデルがランウェイに上がってくるみたいに洗練されていた。本当です。制服も同じなのに、一体何が違うんでしょうね。


 ひょっとすると、やっぱ東京もんは、生まれた時から厳しい生存競争にさらされていて、常に他者の目を気にする生活を強いられているので、自然とスムーズかつスマートかつ如才ない自己表現が身につくのではないでしょうか。嫌味いやみなほどに。ある意味、近代の肥大化した都市が生んだ悲劇と言えましょう。


 などと社会学的考察に踏み込んでいる間に靴下は乾いていた。ほっとしたような、がっかりしたような気分で、俺は彼女を玄関から送り出した。ちゃんとお礼を言ってくれたから、やっぱり良い娘だよね。名前も連絡先も聞いてないけど、向こうは警戒してたしタイミングをもう逃しちゃった感じだし(俺のバカ!)、取って付けたように今から聞く理由も見つからないし。もう会うこともないだろうな、たぶん。はぁぁぁ~。


 だがここでひらめいた。俺って天才!


「あ忘れてた! さっきの肖像権の件だけど、いちおう名前と連絡先を――」


 玄関の前で、自分のひん曲がったチャリを恨めしそうに眺めていた彼女が、にっこりと振り返った。


「許可するとは言ってないわよ」

「えっ? ええっ?」


 満面のにっこり。でも目が笑ってない。怖い。


「自転車直してくれたら、許可してあげる」


 何なのこの女! 油断したのが間違いだった。無茶振りやめろ!


「な! いやそれ無理だから! 素人の手に負えるレベルじゃないからそれ!」

「だったら写真消して。今すぐ」

「・・・それだけは勘弁してください。一生に一度の傑作なんです! アートなんです!・・・」

「・・・泣くことないじゃない。いいからもう分かったから。じゃあどこで修理頼めばいいの?」


 俺は涙をふきふき考えた。う~ん。前は近所に自転車屋があったんだけど潰れた。今なら〈マモ~レ〉かな。あそこのスポーツ屋ならチャリ売ってるし。


「だったら、そこに持っていくの手伝って。暇なんでしょ?」

「今から? いやそれ大変だって。チャリならまあこっから行けるけど、そいつ引きずって、歩きだろ? 大変だよ。親に頼めばいいじゃん。車ならすぐだし」

「うちのパパ、仕事でむちゃくちゃ忙しいのよ。頼めないわよそんなこと。私もついて行くから持ってってよ。何分ぐらいかかるの?」


 おお。お嬢さまは「パパ」ですか、なるほど。と俺が感心している隙に、彼女はさり気なく、ヨレチャリを持っていく主体をちゃっかり「自分」から「俺」にアップデートしている。思ったとおりだ。東京もんは詐欺師だな。しかも、俺のチャリを指さして、


「鍵は?」


 え? 歩くの俺だけ?


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