主役になれない俺と、殺人予告と、シャーロック

保月ミヒル

第1話 降って湧いたような殺人予告

 俺は今朝からずっと、頭上から降ってきた一枚の紙切れを前に頭を抱えていた。


 机の上には広げた現代文の教科書があり、その紙切れは見開きの溝に置かれている。

 授業の内容はまったに頭に入って来ず、4限目だというのに腹さえ空かない。

 さっきまで夏目漱石の『こころ』を朗読していたはずの先生は、いつの間にか雑談を始めていたようだ。


 楽しそうな笑い声が響く教室の中で、俺だけがひきつった顔をしていた。

 教科書とノートを開き、マーカーを握ったまま……目だけは、今朝偶然拾ったメモに書かれた文字に釘付けになっている。


『3月1日。私は、人を殺します。この学園内で殺します。音楽室に呼び出して、とどめを刺します』


 この紙切れに書いてある殺人予告じみたものは、何かの間違いで、深刻に捉えるようなものではないのかもしれない。

 だが、取るに足らないこととして飲み込むことは、俺には困難だった。


 ルーチンワークと化した高校生活の中では、ほんの些細な変化だったとしても、それは真っ白な紙に落としたインクのごとく、あっと言う間に日常を浸食し、黒く滲んで、無視できるものではなくなってしまう。


 その些細な変化が、たとえば『ある日、校庭に謎の物体が置いてあった』なんていうSFチックなものだったら、きっと戸惑いつつも、好奇心に抗えずに胸を弾ませたことだろう。


 大人への過渡期を、思春期特有の漠然とした鬱屈と、妄想力を持て余しながら過ごしている俺たちは、きっと物語の主人公になれる最後のチャンスを今か今かと待っている。

 けれど大抵その時は訪れることなく、大学生になり社会人になり、いずれこの世の中をしみったれた顔で批判する大人になるのだ。


だから、今朝、校舎の三階の窓からまるで花びらのように俺の手の中に落ちてきたこのメモは、本当は喜んでも良いような代物なのかもしれない。


 文字通り、降って沸いた非日常。


 けれど――SFや青春ものならともかく、こんな物騒な物語に巻き込まれることを、俺は望んだ覚えはない。

 ひとりの胸にしまい込んでおくには深刻すぎるメモの内容に、ため息をついたその時。


 コツン。

 後頭部に、なにか弾力のあるものが当たった。消しゴムか?

 振り向くと、後ろの席の清水が、嫌味なくらい整った顔でにっこりと笑っていた。


 清水月下しみずげっか

 間違いなくキラキラネームと呼ばれる類のきらきらしい名前だが、この友人には不思議と似合っていた。


 ――確か、祖母がイギリス人とか言ってたな。

 窓から差し込む日の光のせいで、清水のヘーゼルの瞳に、うっすらとグリーンの虹彩が見える。

 その清水がなぜ俺に後ろから消しゴムをぶつけたのか分からないままに見つめていると、声を出さないまま、清水の唇が動く。


 『文太ぶんた、お前も付き合え』……?

 そのメッセージの意味を理解するよりも早く、清水がすっと手を挙げた。


「先生」

「どうした清水」

「すみません。今朝から頭痛が治まらなくて……我慢できそうにないので、保健室に行っても宜しいでしょうか?」

「あっ、それじゃあ、私保健委員だから――」


 保健委員の女子である鈴木が、ここぞとばかりに立ち上がる。

 控えめなふりをしているが、少し上気した頬と、期待に輝く目は隠せていない。

 きらきらしい見てくれに騙されてるぞ、鈴木。

 こいつはそういう奴じゃない。


「ありがとう。

 でも大丈夫だ。村上むらかみ君が連れていってくれるそうだから」


 ふいに清水に指名されて、ぎょっとする。

 同時に、さっきの口パクメッセージの意味がやっと分かった。

 というか、普段は文太文太と呼び捨てにしてるくせに、先生の前では村上君か。


「おー、そうか。それじゃ、村上頼んだぞ」


 先生は何の疑問も持たずにうなずき、残り時間も少なくなった授業を再開した。


 ……本当に具合が悪いのか?


 清水を疑ってしまうのには理由がある。

 しかしこの状況で断るわけにもいかず、俺は現代文の教科書に挟んでいたメモをポケットに入れ、席を立った。

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