第3話 間宮陽介のタイムリープ【急】



 人生は妥協だ。

 いつからだったか、俺はその言葉を胸に毎日を送るようになった。

 大した意味はない。

 ただ言葉そのまま。

 大きなものを願っても手は届かない。でも、それなりのものに手を伸ばせば届く。

 挫折する苦痛を味わうくらいならば、それなりのものを得て喜んだ方がよっぽどいい。

 大きな喜びなんていらない。その代わりに大きな辛さも味わいたくない。

 そんな感じで、俺はいろんなことを妥協して生きてきた。

 欲を出せばもっといい選択肢があっただろうに、失敗することを恐れ、失うことに怯え、辛い現実におののいた。

 そして今がある。

 仕事は大変だけどそれなりに給料の出る会社に就職。

 容姿はそれなり、性格が若干歪んだ相手とそのまま結婚。

 熱をもって打ち込む趣味はなく、休日は家族サービスという名の労働に勤しむ。

 楽しい、という感情は俺の日常に起こることは早々なく、けれど目を瞑ればそこそこ安定した、それなりの人生であると自負している。

 いや、思い込んでいるだけ。

 だから、成功し日々を楽しげに語る彼ら彼女らの話を聞くと胸がざわつき、何だかやるせない気持ちになってしまう。

 みんな頑張ったんだ。

 欲しいものを手に入れようとした。

 なりたいものになろうとした。

 やりたいことをやろうとした。

 ただ、それだけ。

 それだけのことをしてこなかった、俺が悪いのだ。


「間宮くん?」


 少しぼーっとしていたようだ。

 いつの間にか横に移動していた結城先生が俺の顔を覗き込んできた。

 そこで我に返る。


「あ、はい?」


 ていうか、いつの間にここに?

 さっきまで女子グループと仲良さげに会話に花咲かせてたじゃないか。と思って女子グループの方を見ると散っていた。

 散って、新たな相手と飲み交わしていた。


「いや、なんかぼーっとしてるなと思って。酔っちゃった?」


「いや、別に。ていうか、これくらいじゃ酔わないっすよ」


 嘘だ。

 結構飲んだから結構酔った。


「あ、そうなの? それじゃあわたしに付き合ってもらってもいい?」


「そりゃもう当然」


「わーい! それじゃあ日本酒追加でよろしくでーす!」


 その後めちゃくちゃ飲まされた。



 * * *



 三軒目には人数も一〇人程度まで落ち着いていた。

 飲み終わる頃には日付は変わっており、そろそろ解散するかという流れになったのだけれども。

 何となく流れで酔い潰れた女子を男子が送っていくみたいな空気になった。

 かつて仲が良かった者同士、あるいはこの飲み会で馬が合った者同士で散っていく。

 何となくいい雰囲気の奴らもいたので、もしかするとこの後大人な時間が訪れるのかもしれない。あるいは、そうなりたいがための、この流れなのかもしれない。

 だとすると、野暮なことなど不要。皆の健闘を祈るのみだ。


「まみゃーくんはぁー、あしたおしごと?」


「いや、休みですけど」


 めちゃくちゃ飲まされたものの、実はお酒に強かったらしい俺はわりかし大丈夫な状態だった。

 そして残された結城先生を連れて、道を歩く。一人で歩かせると千鳥足になり危なっかしいので肩を貸している。


「よぉし、じゃああさまれのみあかそー」


「もうベロベロじゃないすか」


 一緒に飲んでたら先に先生が潰れた。

 そこまでお酒に強くないらしい。


「よってなんかないれすよ。まみゃーくんは、わたしにつきあわないといけないんれす」


「もう舌も回ってないし」


「だめれすか?」


「いや、いいですけど」


 その後四軒目に突入した。

 その店を後にしたのは日を回った二時頃だった。

 当然終電なんてものはとうの昔になくなっている。タクシーを呼ぼうにもどうにもタイミングが悪く捕まらない。

 途方に暮れていたところ、先生があるところを指差した。


「ううう」


 もう声も出ないのか?

 どこを指差したのかと思えば、お城の外観そのままに明るくライトアップされている建物。

 つまり、ラブホテルである。


「いやいや、それはさすがに」


「らいじょうぶよ。ちょっときゅーけいするらけらから」


「それ通常男子の台詞じゃないですかね?」


「んふふー、やらもうまみゃーくんったらえっちなんらからぁ」


 とろんとした瞳で俺の顔をじっと見つめてくる。まるで誘っているように、こちらを見る目は決して逸れない。こちらが見つめれば、そのまま二人は見つめ合い続ける。

 そして。


 どちらからでもなく、そっと唇を重ね合う。



 * * *



 こうなればもう止まらない。

 俺だって男だ。目の前にエサがあればそれにかぶりつくだけの野生を持ち合わせている。

 そして目の前にはエサがある。

 赤く、透けた下着姿でベッドに寝転がる結城恭子。彼女は手を広げて俺を待つ。

 俺は上の服を脱ぎ捨て、彼女と抱き合った。

 一度タガが外れてしまえば、もはや止めるものなど何もない。

 自分の嫁の姿さえ、最初に一瞬ちらつくのみで、その後姿を現すことはない。

 いけないことをしているのは分かっていた。けれど、唇重ねる度、舌を絡ませる度、その罪悪感が溶けて無くなる。

 こうして不倫だなんだってのは起こるのか、と我ながら冷静に悟った。

 でももう遅いのだ。

 この場所に二人で入った時点で、二人の気持ちに火がついた時点で、もう全て終わっている。

 かつて憧れていたその人が、一糸纏わぬ姿で目の前にいる。そして、俺を受け入れている。


「んっ、やぁ、ん」


 甘い声が彼女の口から漏れる。

 我慢していたのか、声が漏れた瞬間に口を手の甲で押さえる。その仕草が可愛らしく、俺はさらに彼女の身体を弄った。


 そして長い長い夜が更けていく。

 俺の中に大きくて黒い、何かドロドロとしたものを残して。



 * * *



 朝帰りをすれば当然怒られる。

 こっぴどく怒られたその日、俺は散々こき使われて一日を終えた。

 先生と一夜を過ごした日の朝、目を覚ますと横に先生はいなかった。

 どうやら先に帰っていたようで、残っていたのは一枚の手紙だけ。内容は要約すると、酔った勢いでいけないことをした、これ以上迷惑をかけないために二度と会わない、というものだった。

 ただ最後に、たった一言だけ。

 何度も書き直した後があった。書こうか書くまいか悩んだのだろう。


『あなたのことをずっと思っていたのは本当です。あなたが学生の時から、ずっと』


 彼女の思いが綴られていた。

 けれど、もうどうしようもない。願おうとも手に入れられず、祈ろうとも叶わない。

 俺は彼女に会うことさえ、もうできないのだ。

 一日を終え、俺はベッドに倒れる。

 明日からまた仕事。帰ってくれば鬼嫁。

 言ってはならない。

 思ってはいけない。

 分かっていたけど、その言葉はぽろっと口からこぼれ出てしまった。


「もう嫌だ」


 あのとき、

 欲しいものを手に入れようとしていれば、

 なりたいものになろうとしていれば、

 やりたいことをやろうとしていれば、

 そのために頑張っていれば。


 もしあの時に戻れるのならば、俺は後悔のないようあらゆることに全力で向かい合うだろうに。

 そんなことを考えていると、いつの間にか意識は遠のき、俺は深い眠りについていた。



 * * *



 そして翌日。

 正しくは、気持ち的には翌日。

 俺は高校二年生として目を覚ましたのだ。

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