第10話 工房 其の一

 隠し部屋で聞き耳を立てていた俺はここで少し困った。このまま留まって王の話を聞いた方がよいか、それとも王女の後を追うべきか。

 迷っていると、玉座の間に誰か入ってきた気配がした。やがて王の秘書官が、式典に招待する賓客の席次という緊急でもなく、面白くもない話を始めた。俺は即座に王女の後を追うことに決めた。

 地下道を通って薪小屋から外に出ると、ちょうど王女が宮殿から出てきたところだった。本当なら、今頃は乳母と仕立て屋と婚約披露宴の衣装選びをしてなきゃならないはずだが、もちろん、われらが王女様はそんなことはなさらない。俺は嬉しくなって、王女の後をこっそりとつけていった。

 王女はまっしぐらに丘を下ると、町中に入っていった。

 クレタの町は、狭い石畳の通りの両側に石造りの平屋建ての家が並んでいる。通りは曲がりくねって見通しが悪く、家と家の間に人ひとりが身体を横にしてようやく通れるような路地があったりするので、尾行の時、あまり距離を置くと見失う。といってあまり近づくわけにもいかない。だが、俺はなんとか、通り過ぎる物売りや荷車、走り過ぎる子供の群れの中にまぎれながら、王女の後をついていった。幸い、王女はつけられているとは毛頭思っていないようで、一度も後を振り返らず急ぎ足にさっさと歩いていく。

 露天商と買い物客でにぎわう市場を抜け、病人が列を作って並んでいる施療院を通り、調練の兵の規則正しい足音が響き渡る練兵場を過ぎる頃から、人通りは急に少なくなり、両側の家は一段と貧しげになる。多くは扉を固く閉ざしており、もしかしたら空家かもしれない。子供の声も聞こえず、料理のにおいもしない。こんな町外れのさびれた貧民窟に、王女は何の用があるのだろう、と俺は思った。

 やがて、一軒の、軒が傾いて崩れかかったような家の前で王女は立ち止った。俺はあわてて顔をそむけると、運よく扉が開いていた傍らの家の中に飛び込んだ。戸口の石段にうずくまるようにすわっていた老婆は、いきなり飛び込んできた俺を、うつろな目でじっと見つめた。

「すまないな。ちょっとの間、場所を借りるよ」

 懐からビタ銭を取り出すと、老婆の膝の上に置いた。そしてそっと戸口から外を覗く。街路に王女の姿はなかった。さっき立ち止った家の中に入ったに違いない。俺はほっと息をつきながら、王女の消えた家に近づいていった。

 崩れかかったような家だが、人が住んでいる気配はある。平屋の煙突から薄い煙が立ち上っているところを見ると、中で火をたいているらしい。ためしに扉に手をかけてみると、鍵はあいている。そっと中を覗く。信じられないほど乱雑な部屋が目に入った。

 中央に大きなテーブルがある。その上に様々な大きさの木切れ、板切れ、紙、ロープ、金槌、鋸、ノミ、ペンなどの道具類が載っている。床には巻いた糸玉、竹ざお、金属片、鉄棒、布の切れ端、大小様々の石、金網、ワイヤ、バネなどが散乱していた。部屋の隅には大きな樽がいくつも並んでいた。覗いてみると、一つには砂がぎっしりと詰まり、もう一つは水樽だった。水を汲むためのひしゃくが添えてある。三番目の樽は空だった。四番目の樽には木屑が詰まり、五番目の樽には小石が三分の一ほど入っていた。

 その時、石畳を叩くかつ、かつ、かつという軽い音が近づいてきた。俺は急いで空樽の中に飛び込んだ。他に隠れるところはない。もともと葡萄酒を入れていた樽らしく、アルコールの匂いが頭に来てくらくらしたが、贅沢は言えない。しゃがむと俺の身体はすっぽりと隠れた。蓋は無い。誰も中を覗きこまないことを祈るしかなかった。

 俺が隠れたのは少しも早過ぎはしなかったらしい。かつ、かつ、かつという軽い音はこの家の前で止まった。表の扉が開く音がして、誰かが家の中に入ってきた。重い、引きずるような足取りで部屋の中央まで進むと、立ち止った。

「そこにいるのは誰だ」

 低い、威嚇するような男の声だった。俺の心臓は喉元まで飛び上がった。

「さっさと出て来い。さもないと……」

 どうするのかは、樽の中からは見えない。意気地の無い話だが、俺はもう少しで降参するところだった。

 その時、軽い足取りが聞こえて、奥の部屋から誰かが出てきた。

「久しぶりだな、ダイダロス」

 俺は驚愕した。ダイダロス! 伝説の名工。クノッソス宮殿とラビリンスの設計者。まだ生きていたのか。

「王女様」

 ダイダロスの声から威嚇が消えて、疲れた老人の声に変わった。

「勝手に入って悪かった。でも、扉が開いてたんだ。無用心じゃないか」

「なに、盗まれて困るものなど、何もありゃしませんから」

 足を引きずるようにして数歩歩くと、ドスンとすわる音がした。同時にカラン、という棒を投げ出すような音。

「失礼してすわらせてもらいますよ。どうもこの、リュウマチというやつは……」

 さっきのかつ、かつ、かつという音は杖をつく音だったらしい。一代の名工と言われたダイダロスも、年とって杖の助けを借りるようになっているのか。痛ましい気がした。

「火を焚いた。喉が渇いたんで、白湯をもらいたいと思って」

「ああ、勝手になさって下さい。この脚じゃ、たいしたおもてなしもできませんから。椅子はもう一つ、台所にありましたでしょう」

「うん」

 軽い足音が遠ざかり、やがて何か大きなものをずるずると引きずって戻ってきた。

「ダイダロス、これ」

「姫様、そんなものをどこから」

 ダイダロスは明らかに狼狽していた。

「台所で、薪の一番下から見つけたんだ」

 逆に王女の声には得意そうな響きがあった。

「そんなもの、とうに処分したと思っておりましたに」

「してなかった。もうろくして忘れてたんだろ」

 俺はそろそろと身体を伸ばして樽の中で中腰になった。今にも、「何だお前!」という大声がとどろき、髪をひっつかまれて樽から引きずり出されるかとどきどきしながら、少しずつ、頭を持ち上げた。頭のてっぺんが、額が、そして目が、樽の縁から出た。

 樽からほんの十数歩の所に、ダイダロスと王女がいた。

 ダイダロスは白髪頭に白い顎鬚を生やしたがっしりした老人だ。若い時はさぞかし立派な体躯をしていたに違いない。太い樫の杖を握っている手は痩せて骨ばっていたが、その目の光は衰えていなかった。射抜くように鋭い目で、王女が振り回しているものを見ている。

 王女は嬉しそうにくすくすと笑いながら、等身大の人形のようなものを振り回している。丸い頭にシーツをかぶせたようなもので、それに針金のように細く長い手足がついていた。俺は満足して、樽の中に頭を引っ込めた。

 ところが、王女の次の言葉で俺はあやうくまた、樽から顔を出しそうになった。王女はこう言ったのだ。

「こいつがミノタウロスの神託をしたんだろ」

「さようです」

「信じられないな。こんな木偶に騙されるなんて」

「オートマトンを馬鹿にしてはなりませんぞ」

「オートマトンって名前なのか? これ」

「自動人形という意味です。ここをこう……」

 俺はそろそろと樽から頭を出した。ダイダロスと王女は身体を屈めて、人形の胸の辺りを覗き込んでいた。パチン、というバネが弾けるような音がすると、二人は身体を起こした。同時に、人形がまっすぐに立ち上がった。ブーンという奇妙な音がする。

「ミ…ミノタウロスを……に……クレタの…」

 人形がしゃべった!

 俺は度肝を抜かれて、頭を引っ込めることも忘れていた。幸い、ダイダロスと王女も、オートマトンしか見ていなかった。

 きり、きり、きり、とネジが緩むような音をたてて、人形が歩き出した。生命の無い目を宙に据えて、ぎこちなく前に進む。ダイダロスが人形を捕らえて、胸の辺りから何か小さな塊を取り出した。すぐに人形はくたくたと床にくず折れた。俺は素早く樽の中に頭を引っ込めた。今、見た奇蹟にどきどきと心臓が鳴っている。

 再び、王女の声が聞こえた。

「ぼうっと光るって聞いたけど、光ってないな」

「あの時はこれに夜光烏賊から取れる特殊な薬を塗っておきました。闇の中でぼうと光ります。あとは、ほんのわずか、幻覚をもたらす香を焚いておきました。海辺の崖の上ですから、潮の匂いが強くて気付いた者はおりません」

「うまくやったな」

 王女の声は掛け値なしの賛辞を伝えていたが、ダイダロスの返事は聞こえなかった。

「ばれたら首はねられただろうに。なぜ、そこまでしてやった?」

「パシファエ様はお美しい方でした。お美しくて、お気の毒な方でした」

「白い牡牛に惚れこんだ馬鹿女じゃないか」

「王女様!」

「事実だろ。お前が手を貸して思いを遂げさせてやったんじゃないか」

「パシファエ様は苦しんでおられた。もとはと言えば、ミノス王から起こったことなのです。ミノス王はマケドニアとの戦いに赴く前に、海路の平安を願って、海神に島で一番いい牡牛を捧げると誓いを立てられた。その数日後、海岸を一頭の牡牛がさまよっているのを漁師が見つけた。海の泡から生まれたように真っ白の素晴らしく美しい牡牛だった。誰もこの牛がどこから来たのか知らなかった。所有者もわからなかった。所有者のいない牛は王のものになる。ミノス王は、この牡牛を海神に捧げるべきだったのです。ところが……」

「父上は惜しくなった。ありそうなことだ」

「ミノス王はもとから所有していた牡牛を捧げた。パシファエ様が口にできないような異常な欲望に憑かれなすったのはそれからなのです」

「惚れたのと欲望とは違うのか?」

 王女は大真面目に質問している。俺は心底、王女の顔が見られないのを残念に思った。

「まるで違います」

 ダイダロスがまた、大真面目に答えている。

「どう違う」

「惚れるというのは全身全霊で相手を慕い、うやまうことです。欲望は、おのれ一己のものです」

 王女は考え込んでいるようだった。

「王女様、どなたか気にかかる方がお出来になられましたか」

 ダイダロスがからかうような口調で尋ねた。

「わたしじゃない。今日、一人の女がわたしの鞭に打たれた。ある男をかばって、自分から飛び込んできたんだ。なぜそんな馬鹿なことをしたのか考えていた」

「それは、その女はその男に惚れていたのでしょう。女は惚れた男のためには命を懸けるものです」

「お前も命懸けで母上に惚れていたのか」

 しばらく沈黙が続いた。やがて、何かが喉に詰まったような声で、ダイダロスは言った。

「王妃様はお優しい方でした。追放の身であったわたしに、住まいと職を与えて下さいました。わたしは、王妃様のお役に立ちたいと思っておりました。生まれたお子様たちの幸福は、王妃様の最後の願いでした」

「それで神託を考えたのか」

「そうでもしなければ、王は弟君を殺していたでしょう」

「そうだな。ミノタウロスが生きている限り、クレタ島の繁栄は続く。そう言われれば父上はミノタウロスに手が出せない」

「神託があったと称して弟君をラビリンスの奥深くに隠す。それが一番安全だと考えました。姿の見えないものは、人に怖れられます。好奇の目で見られるよりも、怖れられた方が安全でしょう」

「お前は頭がいいな」

「恐れ入ります」

「その頭脳を、今度はわたしのために役立ててくれないか」

「王女様、何があったのです」

「船がほしい」

「船?」

「クレタ海軍が束になって追っかけてきても追いつけないような高速の船。できるか?」

「わけをお聞かせください」

「父上がわたしの縁組を決めた。相手はポントウス将軍の息子のへなちょこだ。わたしは逃げるぞ」

「どちらへ」

「アテネだ」

「アテネ……」

「そうだ。お前、昔住んでいたな」

「アテネに誰か頼れる人がお有りで?」

「アテネの王子だ」

「テセウス?」

 ふふふ、と王女の含み笑いが聞こえた。

「王女様、いつの間に……」

「テセウスが保証人にたてば、わたしはアテネに入れる。違うか?」

「それはもう」

「ならばいい。船だ。用意できるか」

「いつまでに?」

「この夏至のトーナメントが終わって三日後に、ミノタウロスへ供物を捧げる儀式がある。その夜までだ」

 ダイダロスは考え込んでいるようだった。

「王女様、船は扱えますか」

「馬鹿にするな」

「それなら、大丈夫でしょう。しかし、一つ、お願いがあります」

「なんだ」

「王女様がクレタを脱出されたら、ミノス王は激怒されるでしょう。わたしが手を貸したことは絶対に秘密にしていただかねばなりません」

「お前も一緒に来ればいい」

 ダイダロスは首を振ったようだ。

「わたしは昔、罪を犯し、アテネを追放になった身です。お供はできません」

「それは知らなかった」

「王女様をお助けすることは、わたしの命を賭けるのと同じことなのです。ここへはもう、おいでにならない方がいい。連絡は、信用できる使いに手紙を持たせてください。以前差し上げた、見えないインクはまだお持ちですか」

「持ってる。心配するな」

 王女が立ち上がる音がした。

「船のこと、頼んだぞ」

 はっと、ダイダロスが立って見送ろうとする気配がする。

「いい、すわってろ」

 王女が扉に向かう軽い足音が聞こえた。と、その足音が止まった。

「忘れてた。せっかく火を熾したのに。お前、喉が渇かないか?」

「そうですな」

「湯をわかそうと思ってたんだ」

 王女が戻ってくる足音がする。やかん、やかんと言いながら台所へ入っていく。俺は生きた心地がしなかった。今すぐ、樽から飛び出して逃げ出そうか。ダイダロスは脚が悪い。とっさに俺を捕まえることはできまい。今、王女がやかんを探している今のうちだ。さあ、飛び出せ、子ヤギのように飛び出して、一目散に逃げ出すんだ。

 だが、俺の手も足も言うことをきかなかった。俺は恐怖にすくんだまま、空樽の底にちちこまって、じっとしているしかなかった。

 すぐに軽い足音が戻ってきて、水樽に近づく。

「これは井戸水か?」

「さようです。この辺には良い水がありませんので、町の広場まで汲みに行かねばなりません」

「その脚じゃ大変だろう」

「なに。広場まで行って、その辺の子供に水汲みを頼みます。ちょっとした細工物をやれば、喜んで樽一杯に水を運んでくれます」

 ぴしゃ、ぴしゃ、という水の音。どうか、お願いだ。こっちを見ないでくれ。水樽だけを見ていてくれ。お願いだから……。

 俺の願いは聞き入れられなかった。

「なんだ、貴様!」という大声と共に、俺の髪の毛をむんずと掴んだ手があった。

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