第5話 金曜、午前七時

 午前七時、結局、社長からのメールの返信はないままだだった。

 そう言えば、課長職になってから、今まで有給休暇を取ったことがないような気がする。

 社長からの返信が必要なのかどうかさえよく分からない。


 とは言え、もう――明日は絶対に休まねばならないことが判明しているのだ。

 行き違いのないように、私の方から内線をかけた。




 応接セットに腰かけた私の正面に、社長が座っている。


「突然、お時間いただいて申し訳ありません」

「いや、構わないよ。こっちから連絡しようかと思っていたところでね」

「そうでしたか。あの、有給休暇の件なのですが」

「うん、僕の方もその件だ」


 私たちは顔を見合わせ、そして、私は社長に言葉を譲った。

 社長はどこか痛みを感じているような渋い顔で、口を開く。


「今日、お休みを取りたいとのメールだったね。だが、申し訳ない……実はね、君には、明日と明後日、面接イベントに出場してほしいんだ」

「え……?」


 想定外の話に、私は一瞬反応できなかった。

 その隙を突くように、社長はとうとうと語り出す。


「おばあさんが大変だとのメール、拝見したよ。悲しいことだ。だが一方で、君、今年度の採用目標数、このままでクリアできるかい?」

「いえ、それは……」


 正直、努力目標――七名には到達できないかもしれない。

 その下の、絶対到達目標の五名はクリアできると思う。

 今選考中の学生の感触では、その程度の目途は立っている。


「君は、絶対目標さえ確保すればいいと思っているのかもしれないが」


 今考えたばかりのことをあてられたようで、どきりとした。

 社長はぐっと身を乗り出す。


「そんな保身を考えているようじゃだめだ。僕たちは、常に前進しなければならないんだよ」


 どうやら、私に有給休暇をとらせるつもりはないらしい。

 少し悩んだけれど、明日休めるなら口にしなかった話を、私は伝えることにした。


「その、実は……つい先ほど母から電話がありまして、祖母が亡くなったと……あの、間に合わなかったと」


 胸の奥から、変なタイミングで嗚咽がこみあげてきそうになったので、何とか押し殺す。私は、目元を軽くこすってから口を開いた。


「今夜通夜を終わらせ、葬儀は明日にするそうです。採用目標については本当に申し訳ないのですが、有給休暇というより、忌引きのお休みをいただいて帰りたいのですが――」


 私を一番可愛がってくれた祖母だ。

 死に目にあえなかったのは悲しいけれど、遠方で就職したからには、こうなる可能性も高いと分かっていた。

 せめて、しめやかに最後の見送りができれば。そう思いながらハンカチを目元に当てた。


「そうだったのか……それは、心からお悔やみ申し上げる」


 社長は少し目を伏せて呟いた。私は黙って頷く。

 どうやら伝わったらしい。

 では、明日から――と切り出しかけたとき、社長は顔を上げ、正面から私をじっと見つめた。


「ところで、忌引きというのは、労働基準法には規定がないと知っているかい?」

「ああ……はい。確かに最低基準にはない、ですね」

「なぜ、ないのだろう」


 もちろん、私だって人事の端くれだ。労基にはないことも、それはそれとして我が社の就業規則には規定されていることも知っている。

 そして、こういう場合は就業規則が優先することも。

 なにせ、その就業規則、先頭に立って音頭を取り、社内に規定したのは私なのだし。


 私はもう何も考えたくないのだけれど、社長は問いかけの後を自分から口にはしなかった。

 何か私に考えろと言っているらしい。そう思って、動かない頭を必死に回して口を開いた。


「……必要ない、からでしょうか」


 以前、社長が示してくれた『モラルの奴隷になるな』という言葉が頭に浮かんだ。

 つまり、慶弔休暇はモラルでなく道徳で考えるべき――相手のことを思えば、法律で縛る必要なんてない。そんな辛いときは誰だって休むべきだ――そんな理論が、疲弊した脳の右から左に流れていく。

 うまく言語化はできなかったが、社長は我が意を得たりと頷いた。


「そうだ。君の言う通り。モラルの奴隷になる必要はない」

「はい」

「なぜならば、親族が死んだ程度で、休むなんてもっての他だからだ」

「……えっ?」


 一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。

 私の表情に気付かず、情熱的な素振りで、彼は机をどんと叩く。


「残された者は悲しいだろう。だがね、我々には停滞している時間はない。常に前進が必要なのだ」

「…………」

「考えてごらん。人はどうすれば、悲しみを乗り越えられる?」

「……わ、かりません」

「――それは情熱だ! 集中しているときだよ。君もあるだろう、仕事に打ち込んで、何もかも忘れてしまっているときが」


 身を乗り出して話す社長の姿を、私は呆然と眺めていた。

 なぜ彼が今このタイミングに、こんな話をし始めたのか、理解出来なくて。


 そうして、しばらく滔々と続く説教を聞いていて、突然、彼の言いたいことがはっきりと頭に浮かんだ。

 ――社長は私に、忌引き休暇なんて取るな、と言っている。


 信じていたものが全て、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような気がした。

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