第15話

 イリニの両手から生えてきたのは、石製の細いツタのようなもの。彼はそれらを、竜の両翼へと突き刺した。


(よし、なんとかできた! 今にも折れそうだけど!)


 試しに、イリニは右手を下げてみる。すると、それに連動して、竜の右翼の角度が僅かに下がった。

 この操り人形の原理で、ほんの少しだが、竜を動かせるようになったのだ。むくろを操るという非道徳は、この際気にしていられない。


(さすがに上に飛ぶ事はできないか…… でも、これならあそこまでたどり着ける!)


 そう確信した時。


「なっ!?」


 イリニは慌てて竜を左に傾けさせた。

 すると、その右の方スレスレを、重く風を切る音と共に、勢いよく何かが通過していった。地上にいくつも生えていた、あの触手だ。


(やっぱりあのうねうねが、黒い竜の頭を!)


 下を覗いてみる。そして、ゾッとした。


(嘘だろ……)


 数十本の触手の群れが、一斉にこちらに向かってきていたのだ。

 

(って、驚いてる場合じゃない。俺がやらないと)


 イリニの肩には、文字通り魔王の娘の命が乗っている。それだけではない。彼が死ねば、ネクラ国に残された皆の命が危ないのだ。彼は覚悟を決めた。


「何本来ようが関係ない! もう何者にも、俺の仲間は奪わせない!」


 竜をぎこちなく操りながら、目的地に急ぐ。下からは、雨霰あめあられと触手が突き上げが来る。

 最初の数本を、すんでのところでかわした。次の一本が、竜の尻尾を捥ぎ取っていった。その後も、何本かが竜の身体を少しずつ削っていく。今や、竜はほとんど原型を留めていない。

 だが、翼はある。


(あと少しだ! このまま持ってくれ!)


 触手の動きは意外と単調。竜の操縦にも慣れた。しっかりと注意していれば、もう被弾する事はない。

 順調だ。大丈夫。きっとたどり着ける。


 だが、事はそう簡単に運ばなかった。


「虹陽術が…… !」


 竜の翼を繋いでいた石のロープが光の粒となって、消えた。新しいのを作ろうとしても、何も起きない。さらに、腹の傷を塞いでいた岩も同じく無くなった。

 例の高揚感が消えたのもほぼ同時だ。


(くそ! なんてタイミングの悪さだ! あと十秒耐えてくれれば、確実だったのに…… !)


 イリニは覚えず顔をしかめた。今日だけで、何度不幸をこうむっただろうか。

 しかし、早くも彼の心は平静を取り戻していた。


(いや、方角は合ってる。たぶん、この高さと速度なら、上を通り越すくらいだ。いける)


 触手の一本が、竜の左翼に大穴を空けた。

 大きな揺れの中、イリニは向こう側にある目的地を見据えた。


 陽の光をしめやかに反射している。大きな湖だ。


 イリニは振り落とされぬよう、竜の脚に掴まり、飛び降りる準備をした。

 真っ平らな緑の床に思えた一面の木々が、もう葉の一枚に至るまでくっきりと見える高さ。湖が目前まで迫ってくる。

 

「今だっ!」


 イリニは湖に目掛けて、大きくジャンプした。慣性が働き、彼の身体は予想以上に前へと進む。深い青がぐんぐんとこちらに迫ってきた。

 身体の前面に強い衝撃が走る。周囲の音がくぐもり、視界には真っ暗な水の底が映し出された。


(痛い、苦しい……)


 もがくようにして、イリニは上を目指す。水面から顔を出すと、彼は大きく息を吸い込んだ。


「や、やった…… どうにか……」


 どうにか着水できた事に、喜ぶ暇もなかった。


「魔王の娘…… 起きてるか…… ?」


 返事はない。だが、小さく呼吸してるのがわかる。

 魔王の娘はなおも危険な状態。冷たい水が体温を奪っていく。さらに、イリニの腹からまた血が流れ始めていた。

 

(急いで陸に上がらないと……)


 イリニが着水したのは、湖の中心よりやや手前側。岸までの距離は、二十メートルあるかないか。普段であればどうという事はない距離だ。しかし、今の状態でそこまでたどり着けるかわからない。

 だが、やるしかないのだ。仲間を助けたい。その一心で、今の彼はかろうじて動いていた。


(なんだ…… ?)


 すぐ後ろからブクブクという奇妙な音。顔だけそちらに向けてみると、水面に大きな泡が断続的に発生していた。

 それは少しずつ、こちらに近づいているようだった。


(何かいる……)


 急いでここから離れろ。イリニの本能が、そう叫んでいた。

 彼は死に物狂いで水をかき分け、前に進む。しかし、水泡の音は段々と大きくなっていた。

 水の底から、巨大な生き物が追ってきている。


(急げ…… ! 急げ…… !)


 水中で身体に何かが触れた。そして、身体が小さく浮き上がる。泡だ。イリニの身体よりも大きい。

 それはもう彼の真下にいるのだ。


(もっと速く! こんなところで死んじゃだめだ!)


 夢中で泳ぐが、この速さでは到底間に合わない。下から見れば、イリニは活きのいい生き餌だろう。

 重く低い鳴き声が、水中に響く。


 食われる。


 その時、反対側の岸の方で何か大きな物が水に打ちつけられる音がした。それと同時に、泡の音と、おどろおどろしい存在感が消失した。


(な、何がどうなってるんだ…… ?)


 疑心暗鬼になりながら、イリニは前へ前へと急ぐ。振り向くだけの余裕はなかった。

 そして、どうにか岸へと上がった。

 木の影に魔王の娘を寝かせて、ようやく振り返ってみる。

 

(あれは、黒い竜……)


 細めに見ると、確かに翼のような部分が見えた。

 今まで、近くの木の間に引っかかっていたのが、湖に落ちてきたらしい。


 次の瞬間、イリニは目を疑った。

 竜の漂っていた水面が弾けたかと思うと、大きな開いた二枚貝のような物体が飛び出してきたのだ。それはすぐに口を閉ざすと、また水中へと戻っていった。

 竜の姿はない。荒々しい波が数回押し寄せると、湖はまたしんと静まり返った。


(さっきまで、あれが俺たちを狙ってたのか……)


 思わず身震いした。

 顎の部分だけでも、木と同じ高さがあった。ここの主なのかもしれない。さっきは、より大きな獲物の気配を察知して、方向転換したのだろう。


 竜の最期を見届けると、イリニは魔王の娘の様子を調べた。


「魔王の娘。逃げ切れたんだ、俺たち」

「んん……」


 小さなうめきを上げ、顔を歪める魔王の娘。明らかに状態が悪化している。


「もう少しの辛抱だ。どこか光の届かなそうな洞窟を探すから。それまで耐えてくれ。楽しい歓迎パーティーが待ってるぞ」


 魔王の娘の答えを待たず、イリニは彼女を背負った。

 寒い。傷口が灼けるように痛む。少しでも気を抜いたら、倒れてしまいそうだ。彼の限界も近い。


「急がないと…… みんなのおかげで、ネクラ国から逃げる事ができたんだ…… 諦めるな…… 歩くんだ……」


 自分の声もどこか遠くに聞こえた。

 千鳥足になりながら、それでもイリニは足を止めない。しかし、そんな彼の前にまたしても災厄が降りかかってきた。


「タルタロスの遣い…… "黒影"……」


 イリニの前に忽然こつぜんと現れたのは、文字通り影のように黒い人型の生き物。


 黒影のために、これまで数多の太陽の民が犠牲になった。月の民と同じ、太陽に弱いという性質を持ち、暗い所でしか行動できない。そして、死ぬと跡形もなく消えてしまう事から、その生態はほとんど解明されていない。

 

「魔王が討伐された日から、目撃情報はなかったのに。まだ生き残りがいたのか……なんなんだ今日は…… 俺の今日の運勢最悪か…… ?」


 とんだ厄日だ。

 二年前のイリニでも、黒影一体に苦戦した。今の彼では相手になるはずがない。

 だが、イリニはすぐに思い直す。


「お前、もしかして魔王の娘を助けに?」


 タルタロスの生き物であれば、その可能性は高い。

 しかし、黒影はうんともすんとも言わないからわからない。


「俺は魔王の娘は助けたいだけだ。このまま外にいたら危ないって、お前ならよく知ってるはずだろ?」


 黒影はじっとそこに佇んでいる。攻撃してくる様子はないが、不気味で仕方ない。

 意を決して、イリニは慎重に後退りしていく。


「任せろ。俺が責任を持って魔王の娘をーー」


 と、そこで背中にいる魔王の娘が何かにぶつかる。確認してみると、木の幹だった。

 少々ホッとして、イリニが前に向き直った時。


「消えた…… !? どこに!?」


 頭上から、物音。

 イリニが見上げると、黒いギロチン状の物体が降ってくるところだった。黒影が身体の一部を変形させたのだ。


「なっ!? こいつ魔王の娘ごと…… !」


 逃げ場も戦う手段もない。イリニはどうする事もできず、その場に立ち尽くす。


誅鼠拳ちゅうそけん・金剛穿ち」


 どこからともなく、渋い男の声がした。

 すると、黒影の形がぐにゃりと曲がり、左へ吹き飛ぶ。それが通過した木々はことごとく粉砕され、湖の表面は道を開くように二つに割れた。破壊的な音は十秒以上に渡り続き、やがて遠くの方で止まった。

 その衝撃の余波は強風となり、全身に打ち付けてきた。


「あの黒影を一撃で…… ていうか、何あの威力……」

「よう、大丈夫か? がきんちょ」


 あの渋い声はかなり近くから聞こえる。だが、どこにも人影は見当たらない。


「今のはあなたが…… ?」

「ああ」


 ちょっと素っ気ない返事。

 

「あの、ありがとうございます。おかげで助かりました」

「ああ」

「その上で悪いんですけど、お願いがあるんですがーー」

「待て」


 なんだろう。


「まったく最近のがきんちょは。人の目を見て話せんのか」


 出し抜けに注意され、イリニは戸惑った。


「目を見るも何も…… その前に姿を見せてくれませんか?」

「ちっ。下を見ろ」


 イリニは指示通りに下を見た。しかし、もちろん人の姿形をしたものは確認できない。

 いや。


「ん…… ?」


 黄土色の地面に、一際目立つ小さな赤がポツリとあった。注視してみて、ようやくそれが何か判明した。


「可愛いネズミがいます」

「俺だ」

「は?」

「このプリティーで筋肉モリモリなネズミ型男が、俺だ」


 イリニは目の前にいるネズミをまじまじと見つめた。確かに、ネズミの口の開閉と、男の声はあたかも連動していたようにも見える。しかし、喋るネズミなどこの世に存在しない。

 では、肘らしき部分を曲げ、腕を上げるそのポーズは何だろう。


(可愛い…… 威嚇してるのかな?)


 と、そんな呑気に構えてる暇はない。


「いやいや、冗談はよしてください。ていうか、筋肉モリモリ要素ゼロですし。どちらかと言うと、モコモコ。後で撫でよ」


 ネズミは短い腕を器用に組むと、つぶらな瞳を愛らしく細めた。


「それが命の恩人に取る態度か? 見たところ、お前さん、だいぶ難儀してるみたいだが。俺のような人間に、何かお願いもあるそうだが」

「は、はい……」

「助けてやってもいい。お前さんが相応の接し方をすればの話だが」


 そうだった。今は相手がネズミとか、そんな些細な事は一旦棚上げしなければ。


「お願いします。この子を手当てして欲しいんです。大事な仲間なんです。絶対死なせたくないんです」


 再び「お願いします」とイリニは地面に膝をつき、深々と頭を下げた。人の良さそうなため息が、すぐに返ってきた。


「がきんちょ、少し走れるか?」

「はい。たとえ手足がもげたとしても、どこまででも走ります。俺はまだ死ぬわけにはいきませんから」

「ふっ、面白い。そっちの嬢ちゃんは運んでやる」

「え、運ぶって…… ?」


 しどもどしているイリニを他所に、ネズミは仰向けに寝かせていた魔王の娘の下に潜り込んだ。すると、彼女の身体が数センチ浮かび上がる。


「えぇ……」

「行くぞ」

「あ、待ってください!」


 イリニは慌てて呼び止めた。


「筋肉なら後にしろ。そんなに焦らなくとも、ちゃんと触らせてやる。まったく、今時のがきんちょはすぐモリモリの筋肉を触りたがる。まあ、そういう期待に応えるのも大人のーー」

「全然興味ないんで大丈夫です」

「なっ…… なんだと…… ? この世に、筋肉に興味がないがきんちょが存在するのか…… ? お前さん、変わってるな……」


 変わっているのはどっちだ。


「それで、できるだけ暗いところを通ってください。陽の光には当たらないように」

「なぜだ?」


 彼女が魔王の娘である事を伝えるべきか迷った。しかし、今話をこじらせる訳にはいかない。とにかく今は彼女の命が第一だ。


「その…… 日焼けするのが大嫌いな奴で……」


 あまりにも酷い言い訳。


「わかった。急ぐぞ」


 意外とすんなり了解してくれた。

 魔王の娘の身体が小刻みに揺れながら前進していく。それも、かなりの速さ。なんとも奇妙な光景だった。

 イリニは最後の力を振り絞り、ネズミの後に続いた。


「よく頑張ったな、がきんちょ。ほら、着いたぞ」


 ネズミから労いの言葉がかかったのは、走り始めて二十分後くらいだ。イリニはほとんど自分の足に向いていた顔を、ゆっくりと持ち上げた。


「あれ、ここって……」


 なんとなく既視感があった。


「あの、可愛いネズミさん」

「ネズミさんじゃない。バルクだ」

「可愛いは否定しないんだ…… えっと、バルクさん。ここは何ていう国なんですか?」

「はあ? 決まってるだろ。フリュギア王国だ」

「フリュギア王国…… これが…… ?」


 再び街並みに目を向ける。


 やはり、二年以上前に訪れたフリュギア王国とは似ても似つかない。

 まず国内にこんな巨大な根は侵食していなかった。


(これは、さっきのうねうねか…… ?)


 それが通りの半分以上を占領し、ずっと向こうまで続いていた。途中で分岐した一部分は民家に突っ込み、中で無遠慮に成長したと見え、今は趣味の悪いオブジェへと変貌している。

 どれも動き出す様子はない。

 さらに、根は上へ上へと異様な網目を築き、まるでひっくり返した丸籠を被せたように、国全体を覆っていた。そのせいで、光はほとんど届いていない。道理で、さっきは上から国を発見できなかったわけだ。


 バルクがさっさと走って行くので、イリニも遅れて走り出した。その途中、新たな違和感に気づいた。


「人が全然いない……」


 王国内に入って数分したが、往来に人の姿はない。代わりに、見たことのない動物が数頭いたくらいだ。どれもイリニたちを窺うように睨んでいたが、特に襲ってくる気配もなかった。


「あ、あの、バルクさん。フリュギア王国に何があったんですか?」

「なんだその、初めて見ましたみたいな反応。記憶でも飛んだか?」

「いや、こっちは真面目にーー」

「悪いが無駄話してる時間はない。あまり人目につくと、後々面倒になる」


 奥歯に物が挟まったような物言い。益々疑問がかさむが、バルクは答えてくれそうもない。


「ここだ」


 バルクが足を止める。彼の先にあったのは、一般的な人間が住むサイズの家だ。


「おいがきんちょ、ドアを開けてくれ。俺は手が塞がってる」


 言われるがままに、イリニは正面のドアを開いた。その横を、魔王の娘を背負ったバルクが通る。

 中は、丸テーブルや本棚等、必要最低限のものが置かれた簡素な部屋だった。

 バルクは彼女を床に下して、背中の方から這い出てきた。


「ここで待ってろ。すぐ治療できる奴を呼んでくる。嬢ちゃんは大丈夫そうだな。がきんちょ、お前も横になってろ」


 イリニは答えない。


「おいがきんちょ、聞いてるのか?」

「国王の所に行かないと……」

「何言ってる。お前さん、自分の腹が見えないのか? ここまで意識が持ってただけでも奇跡に近いんだぞ? 俺の言う事を聞け。それともお前さん、死にたいのか?」

「まだ死にません。仲間を助けるまでは、何があっても。早くしないと。全部俺にかかってーー」


 突然、口が思うように動かなくなった。身体に力が入らない。視界が暗闇に包まれる。

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