第13話

 腹の中身がえぐり出されるような痛みと共に、黒い爪が引き抜かれる。栓が抜かれた傷口からは、じわじわと血が流れ出てきた。


「あぁ…… 酷い怪我…… イリニが死んじゃう…… 違う、あたしは殺そうとなんて…… 違う、違う……」


 フリージアは取り乱したように、首を振りながら後ろに下がっていく。よくわからないが、追撃の心配はないらしい。


「くっ…… !」


 イリニは地面に崩れ落ちる。あまりの痛みに、気を失いそうだ。


「だ、大丈夫!?」

「ふっ、ふふ……」

「え、なんで笑ってるの…… ?」

「心配してくれたんだな…… ありがとうぅぅぅぅっ…… ! 痛い、死ぬ! 笑ったせいで、腹から血がぁ…… !」

「なんで今ふざけるの! ていうか、心配したわけじゃないし! あなたが死んじゃったら、私も色々とーー」


 声がぶつ切りになり、次いで地面に何かが倒れる音がする。魔王の娘が、青ざめた顔で地面に膝をついていた。


「ま、魔王の娘…… ?」

「太陽のせいで…… ちょっと調子悪くなってきただけ……」


 声はか細く、呼吸はかなり早い。これは"ちょっと"どころではなさそうだ。

 魔王の娘の言う通り、東の空はかなり明るくなっている。地平線の向こうから太陽が上がってくるまで、もうそれほど時間はない。本来、月の民にとって日の光は猛毒なのだ。


(太陽の下でも少しの間動けると言っていたけど…… まさか、月祈術の使いすぎで、その時間が早まってるのか?)

「フリージアさん! やっちゃってください、あんなやつら!」

「頑張れ、フリージアさん! 大罪人に裁きを!」


 今まで船尾の方で、物音一つ立てず縮こまっていた乗組員たちが、フリージアを鼓舞こぶする。自分たちの勝利を確信しているのか、踊りださんばかりの勢いだ。


「うるさい」


 一言、うんざりしたようにそう言うと、フリージアは軽く地面を踏み付けた。すると、それを契機に、船全体が大きく揺れ始める。


「なっ…… !?」


 フリージアの少し後方で、黒い角錐が地面を突き破って出てきた。あの結晶だ。大きさは船の柱より小さいくらい。

 それは船を二つに分断するように、一挙に群れを成して生えてきた。あまりの密生具合に、向こう側が見えなくなるほどだ。


 至る所で鳴る、木材がひしゃげて割れるような大きな音。船が破壊されているのだ。

 すると、どういうわけか、結晶は一瞬の内に霧散した。


「船が……」


 魔王の娘が唖然とした様子で言う。


 うち開いた視界の先。

 さっきまで群生していた結晶の位置を境に、船尾部分の床が傾いていく。そして、下に落ちていった。「助けて!」という、乗組員たちの悲痛な叫びが小さくなっていき、やがて消えた。ほんの十数秒。その間に、あれだけ巨大だった船の、約三分の一が消失してしまった。


 事態はそれだけでは終わらなかった。


「なんだ!?」


 不意に地面が消えたような感覚に襲われる。

 何事かと、下を向いてようやく理解した。


「そうか! もうロープが!」

 

 数分前にイリニは作戦の一環でロープを一本切り離してしまっていた。そして、たった今船尾部分と一緒に二本のロープも落下した。つまり、この船を支えているロープは残り一本だけ。平衡を保てるわけがないのだ。


 身体の落下が始まる。

 気づくと、さっきまで手足をつけていた地面はほとんど真横に来ていた。周囲に目を向けるが、近くにしがみつけるような突起はない。


「やばい、このままじゃ!」


 このままでは、地上に真っ逆さまだ。

 だが、思いの外、すぐに落下は止まった。凸凹でこぼことした感触に、背中が強く打ち付けられる。


「これは……」


 そこは甲板にある転落防止用の柵であった。幅はイリニの片方の手足がはみ出るほど。船体が振り子のように揺れる中、こんな狭い足場に着地できたのは、奇跡に近い。

 下はどうなっているか。気になったが、見たら最後、恐怖で動けなくなりそうなのでやめておいた。


(落ち着け、俺。下手に動かなければ落ちる事はない。というか、さっきまでこんなに風強かったっけ?)


 おそらくイリニが過敏になっているだけだろう。それにしても、吹き付ける風の音が、ここまで恐怖を駆り立てるとは。


「いやぁぁぁ!」


 すぐ真上で魔王の娘の泣き叫ぶ声。

 そちらを向くと、まさに彼女が頭を下にして落ちてくるところだった。しかし、どう考えても、あの位置では柵に引っかかる事はない。


「魔王の娘! 手を伸ばせ!」

「伸ばす! 掴んで、絶対!」


 イリニは片方の手で柵をしっかりと握り、思い切り腕を伸ばす。だが、嫌な予感が脳裏をよぎる。

 

(届いてくれ…… !)


 両者の手が同じ高さに並ぶ。爪の先同士が、乾いた音を立てて擦れ合う。


「えっ……」

 

 届かなかった。


 時間がゆっくりと流れる。魔王の娘の絶望に打ちひしがれたような顔が、その華奢きゃしゃ身体が、イリニの目の前を過ぎ去っていく。

 まるで自分の無能さを、じっくりと見せつけられているようだ。劣等感と、喪失感が胸を穿うがつ。


(嫌だ…… 死なせない…… 見捨てない……)


 脳裏にこびり付いた父との約束が、身体を動かす。何の腹案もないまま、イリニは無意識に柵から手を離した。

 最悪、自分は死んでもいい。仲間さえ助ける事ができれば。


 だが、その直前。

 目に入ったものに、彼はハッとした。再び腕を精一杯伸ばし、"それ"を掴んだ。

 ずっしりとした重みに、危うく自分もずり落ちそうになる。


「掴んだ! 掴んだぞ! 尻尾だけど!」

「うえぇぇん! 死ぬかと思った! ありがとう、尻尾!」

「え、俺は…… ?」


 なんだか全身から力が抜け落ちる。まあ、魔王の娘が助かったのだから、良しとしよう。


「イリニ、大丈夫…… ?」


 弛緩しかんしていた空気が、一瞬の内に張り詰める。

 フリージアは先ほどと全く変わらぬ位置にいた。つまり、今や壁と化していた床板と、直角に立っていたのだ。あの黒い鎧は、いつの間にやらなくなっていた。


「フリージア、なんであんな事を! みんな同じ国の人間じゃないのか! 殺す必要なんてなかったはずだ!」

有象無象あいつらはいいの。あたしが生きて連れ戻さなきゃいけないのは、イリニだけだから。良かった、お腹を石化させて止血したんだ? 本当に良かった」

「くっ……」


 心の底から安堵したようなフリージアの柔和な顔に、イリニは気勢を殺がれてしまう。

 彼女は少し覚束おぼつかない足取りで、壁を歩いて来る。なぜだか少し衰弱しているようだ。


「ねえ、これやばくない…… ?」


 真下で吊るされている、魔王の娘が言う。


「やばいなんてものじゃない……」

「ど、どうするの?」

「待ってくれ…… 今頑張って考えてる途中だ」


 とは言うものの、はたしてこの絶体絶命のピンチを乗り越える、打開策が存在するのだろうか。


 ただでさえイリニの虹陽術では、フリージアに歯が立たない。それなのに、今は傷を塞ぐために力の大部分を使ってしまっている。おまけに彼の両手は、自分と魔王の娘の命綱の役目で手一杯だ。

 文字通り、手も足もでない。


「どうにかして、あの竜に乗れれば……」


 イリニの視線は、未だにフローターの後ろを滑空している竜に注がれていた。

 唯一の突破口。それは竜に飛び移って、この場から脱出する事だ。だが、問題はその方法。


「魔王の娘、月祈術であの竜にーー」

「使えてたら、こんな宙ぶらりんの状態、一秒でも早く抜け出してるから! お願いだから、頑張ってそっちまで持ち上げて! こんな状態耐えられない!」

「待て、暴れるな! 手が滑ったら終わりなんだぞ!?」

「わかった、喋らない、だから手離さないで、お願いします」


 少しの息継ぎもせず言いたい事をまくし立てると、魔王の少女はピクリとも動かなくなった。協力的でなによりだ。


「なあ。昨日、地下室で起こった爆発の事は覚えてるか? 君の角が壁に突き刺さったやつ」

「忘れるわけないでしょ。あんなはずかしめを受けたのに」

「あの時の、暗い球体。あれなら作れたりしないか?」

「まあ、あれくらいなら…… 月祈術に比べれば簡単に出せるけど…… それでも、数秒で消えちゃうかも」


 つまり、タイミングが大事ということだ。

 イリニは覚悟を決めた。


「魔王の娘。せーので、俺は船から落ちる」

「ちょちょちょっ、なに言ってるの!? 唐突な自暴自棄やめて!?」

「飛び降りた後、二回目のせーので、あの球体を作ってくれ。俺もそれと同時に無垢の陽光を作るから」

「え? それって、もしかして……」


 魔王の娘にも、イリニの言わんとしてる事が通じたようた。だが、その声は重々しい。今やろうとしている事は、それだけ不確定要素が多いのだ。


「今回は一拍空ける…… ?」

「ああ。今回は一拍空ける」


 イリニは頷くと、フリージアの方を見た。


「イリニ……」


 ゆっくりながらも、着実にフリージアはこちらに迫っている。

 

「フリージア。俺はお前の事も救ってみせるから。辛いだろうけど、それまでは耐えててくれ」

「え…… ?」


 イリニは一つ深呼吸をする。


「行くぞ? せーの!」


 身体を転がすようにして、イリニは柵から飛び降りた。

 すぐに下から、呼吸が苦しくなるほどの強い風が吹き上がってきた。それに、異常に冷たい。両手両足を目一杯広げて、少しでも落ちる速度を落とす。


「ぎゃぁぁぁぁぁ!」

「魔王の娘!」


 イリニは魔王の娘の尻尾を手繰り寄せ、二人の高さは同じくらいまで合わせる。そして、今度は彼女の細い手をしっかりと握った。向こうが握り返してくれないので、なんだか不恰好な握り方だが。

 これで準備は完了だ。


「ま、まだ!?」

「まだだ!」


 彼は首を後ろに回す。

 少し前の方に進んだ船から、フリージアが目を見開いて立ち尽くしていた。この分だと、まだイリニたちの真意を測りかねているらしい。

 竜は特にこちらを気にする様子もなく、飛び続けている。

 イリニは目を細くして、その時を待った。


 真上を雲の如く覆っていたフローターが、今まさに晴れた。


「よし、今だ! いくぞ!」

「うん!」

「せーの!」


 一拍空く。

 そして、二人の手のひらに、同時に色の対照的な球が浮かび上がった。黒い方は、今にも消えそうな感じだ。二つの球は、互いに引き寄せられ、そして一つになる。

 一時の沈静。やがて、球は煮え立った液体のように、ぶくぶくと膨れ上がる。


「きた! 爆発する!」


 球が一気に膨張した。


「きゃぁっ!」


 途端に、爆発的な力の奔流ほんりゅうに押し出され、下降の勢いが収まっていく。そして、今度は上昇が始まった。

 あまりに強い衝撃波に、空中でバランスが保てなくなる。ついには、身体が言うことを聞かず回りだす。


「魔王の娘?」


 応答がない。


「おい、大丈夫か!?」


「熱い」と吐息混じりの微かな声が返ってくる。

 やはり、太陽の影響なのだろうか。真っ青な顔に、大粒の汗が吹き出している。


「くそっ…… ! 離してたまるもんか!」


 身体が狂ったように回転する中、イリニは竜のシルエットが進行方向上にあるのを認めた。


(方向は合ってる! 後はそこまで届いてくれれば!)


 回転の度に、竜の姿は大きくはっきりと見えてくる。

 だが、上への勢いが衰えていっているのも明らか。当初は竜の背に乗る算段だったが、それは多分無理だ。


(いける! もう少し!)


 イリニは手を伸ばした。竜の足指に腕を引っ掛けられれば。

 だが、そこでイリニの身体は停止してしまう。

 

「そんな!? なんで止まるんだ!? もうちょっとじゃないか!」


 竜の足との距離は、あと数センチに満たない。背伸びをすれば触れられる距離なのだ。

 無情にも、ゆっくりとその差が広がっていく。


 死ぬ。二人とも。自分の浅薄な作戦のせいで。仲間を見捨てない、あの約束はなんだったのか。

 いや、死なせない。


「魔王の娘!」


 イリニが叫ぶと、魔王の娘は夢から覚めたばかりのような顔を持ち上げた。


「俺が投げたら、竜の足指にしがみつくんだ!」

「え?」

「いいか? 竜に弱ってるところを見せちゃだめだ! あいつは頭が良いから、毅然とした態度で、自分が上だと思わせるんだ! 後は頑張って、背中に登って手綱を取れ! ちゃんとした操縦方法は知らないから、そこは適当に!」


 必要な情報を伝え終えると、イリニは魔王の娘の背中に手を添えた。


「ま、待って…… ? 何をする気…… ? あなたは…… ?」

「ごめん。この世界の事、色々案内するつもりだったけど。でも、大丈夫っ!」


 イリニは最後の力を振り絞り、魔王の娘を真上に放った。そして、放った方の手で拳を作り、親指をピンと立てた。


「この世界には、君を助けてくれる人はきっといる! 君を認めてくれる人はきっといる! 君は一人なんかじゃない!」


 魔王の娘が何か必死に叫んでいる。だが、生憎風を切る音が煩くて何も聞こえない。

 それに、イリニの意識は半ば、諦念渦巻く思考の中へと没入していた。そこは思ったほど暗くはなく、むしろ気持ちが穏やかになるような、静かで仄明るい所だった。


(さすがに無責任過ぎたかな…… 魔王の娘、一人で仲間とか作れなさそうだからな…… ちゃんと良い仲間に巡り合ってくれたらいいけど…… 結局、ブレットとの約束は果たせそうにないよ…… 折角、俺に希望を託してくれたのに…… 怒られるかな? そうだよな。俺が駄々こねて、魔王の娘を連れ出したのに、その結果がこれだもんな…… ごめんな……)


 急に息が詰まるような苦しさを覚えた。


(みんなを助けたかった。みんなとまた、前みたいに過ごしたかった。みんなで笑い合って、喧嘩もしたりして、辛い事も一緒に乗り越えて……)


 だが、どんなに切望しようが、後は静かに死を受け入れるだけ。もう何もできる事はない。イリニはゆっくりと目を閉じた。

 しかし、その直後。彼は背中に何かが触れたのを察知した。


「ん? なんだ?」


 イリニは恐る恐る目を開けた。


「おはよ、イリニ」

「………… へ?」


 理解が追いつかなかった。

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