07 X列車で行こう


 父は失敗したのか。

 失敗したのだ、と母は言う。あの人がやったことは何もかも間違ってたが、最も酷かったのは、神に代わって愛を敷こうとしたことだと。人の身でありながら神の名のもとに善き行いをなどと、驕慢と呼ぶもおぞましいと。そうなのかもしれない。復讐するは我にあり、というときの我とはもちろん神の主格であり、凡夫は神の名のもとに復讐など許されない。とすれば愛も。なるほど理屈はついている、ように思える。

 それでは愛は、善はどこにいってしまうのか。人の世における美徳のようなものは。神の存在自体がすでに愛で善である、いつか神父がそんなことをのたまっていた気がする。しかしこの世は、明らかに愛も善も欠いている。あるいはその逆。愛も善も多すぎるせいで今日もまた流血が。人の世が明らかに出来損なっているのは愛と善の存在ゆえか。「神はこの世を七日でつくったのに、お前はズボンの修繕に何日かかるんだ!」、「しかし旦那、この滅茶苦茶な世の中をご覧なさい。そしてあっしの滅茶苦茶なズボンをご覧なさい!」。それにしても、このズボンというのはすごいな。いったいどういう経緯いきさつで trousers がズボンになるのか。 Gibbon はギボンなのに trousers がズボン。どうした日本語。だいじょうぶか英語。バベルが駄弁だべる大混乱であり、たしかに滅茶苦茶には違いなかった。

 父は間違っていなかったのではないか、と娘は思う。あの人の誤ちは全て、愛と善のゆえだったのでは。愛と善で為されるものはすべて、過ち以外の何かにはなり得ないのでは。わからない、わかるはずもない。しかし考えてみれば不思議だ、そもそもこんな土臭い世で愛と、善と。物は落ちるし揺れるし砕ける、重力から逃れようもない場所で、それでも天の仕事を行うとは。父がしようとしたのはそういうことだ、人の身でありながら天の仕事を。そのようにしたイカロスが、ルシファーが、どうなったか皆知っている。 “non serviam” 、我はつかえぬ。では父は、神に遣えていたわけではなかったのか。神に成り代わろうとするならば、その結末は堕地獄しかありえない。最も神に近づいたものは堕とされて、這いつくばって、その応報をこそ愛と呼ばなければならない。そうだ、そうして誰もが父のもとから離れていった。あたしでさえも。この地上で神を望む者は、最後には余計者になる。ところで「我は遣えぬ」という日本語は “I’m useless” とも訳せるではないか。この世で最も神を愛した者が、最も余計な者になる。これは皮肉でないどころか至当とさえ思える。

 一八世紀の啓蒙思想家は書いた、「僕たちの庭を耕さなければなりません」。一九世紀の小説家は書いた、「労働で神を手に入れるんですよ」。二〇世紀の詩人は書いた、「この土地に規律でもつけてみるかね」。誰も間違っていない、が、それぞれ半分くらいしか当たってない気がする。そもそもなぜこの世が。重力とともに神が存在するなんて事態が、なぜ有り得るのか。前提からおかしくはないか、どうしてそんなに軽々しく神と、土地と。自分の被造物と同じ闇のなかを這い回る創造者は、這いながらも創造することができるだろうか。天上の神と地上の者とでは、そもそも食い違ってるのでは。何によって? 言葉によって。「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。そしてこういうことになった、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい」……




 ヒメ、と揺すられる。いや揺れてはいた、さっきから多少は。この新幹線という無骨な乗り物は、揺り籠のような心地よい眠気を与えてくれる。しかしこの揺すりは明らかに人の手によるものであり、そこから導出されるのは、あたしは今ミッシーの腕で身体を揺すられている、という状況である。

 眼が覚めた、の一言で済ませばいいんだ。

 もう着いたのか、の語尾があくびでぼやける。いや、まだだけどさ、お客。客? 新幹線だぞ。しかもこれ福岡まで停まらないはず……ああ、乗ってたんだよ、前から。前から? 目尻をこすりながら見上げる、と、いた。

 Wassup folks? と、いやに甲高い語尾。93キュウゾウ、だな。と返したあたしの言葉に、やけに驚いて見える三人。いや驚かなきゃいけないのはこっちのはずだが。なんか今日、新幹線で? 東京から福岡まで? 移動らしくて、偶然わたしらの車両と同じだったらしいよ。え、じゃ、あたしたちが新大阪から乗った時にもう。そうそう、わたしらも乗ってたんですよー、と傍らに立っているパタゴニアのフード付きプルオーバー姿の女が言う。あのドゥさんっているでしょ? ああ。あの人に電話で今日の会場入りどうすればいいですかって訊いたら、あらあ偶然ねえその列車にあの子たちも乗ってるわよおって指定席の番号教えてもらって、こうして挨拶来たんです。あもう丁寧語じゃなくていい? まあ何でも……好きなように。しかしドゥさんも思い切ったことするね、このSNS蔓延の世の中でスターを新幹線で移動さすとはねー。まあ、かたちだけでもX-TRAINてことにしなきゃいけないからな。えどういうこと? ええと……ほんと声でかいなこいつ。立ち話もなんだし、別の場所で話したら。とミッシーが促すので、そうだな、と周囲を見回しながら立ち上がる。幸いにして、乗車を察したファンがフリークアウトしている気配はなかった。新幹線って、座って話せるところあるか。ある列車もあるけどねー、のぞみ201号はちょっと無いな。じゃあ、どこか落ち着いて話せるとこ……そしたらね、えーと。


 立ち話もなんだしと場所を移したくせに、連結部にて双方ともに立ち話をする羽目になる。タバコ吸う? いや。ほんとごめんねー座って話せたらよかったんだけど。寝台車でもあればな……『スノーピアサー』みたいなやつ? なんだそれ。ポン・ジュノの映画、とミッシーが注釈する。そういうのには詳しくないんだ、すまないが。いやいや全然。しかしまー狭いよねー新幹線って、移動のためだけのものだもんね。韓国でやったX-TRAINはもうちょっと本格的って聞いたよ。そうなん。鉄道公社が全面協力して、高速鉄道の車両一本まるごとχορός代表とそのファンの移動に充てたって。へえー。もともとファンイベントとツアーリングを一緒にした感じの趣向だったらしいすね、X-TRAINて。と、ワークキャップをかぶったショートカットボブの女が言う。そうそう、ただまあ大陸向けの企画だよねー。北米とか西欧とか中国あたりじゃ、X-TRAIN自体がライブになってるもんね。まじか。列車丸ごと借り切って、車内でライブとかトークショーとかミート&グリートとか。いいなー、やっぱこの島じゃ狭いよなー。ドゥの旦那の話だと、日本でも新幹線借り切ってファンミーティングの予定だったけど、直前でJR? がだめだって言い出して、結局ツアー中の移動手段だけが新幹線として残ったらしい。うわー身につまされるなー、『ブラックパンサー』の韓国ロケと『ウルヴァリン:SAMURAI』の日本ロケみたいな話だな……いや、わからん。なんでよくわからん喩え話ばかりするんだこいつ。ミッシーのほうに目配せしても、ごめんヒメ、わたしもわかんない。と笑う。それにつられて声のでかい女も笑う。なんなんだよ、と思っていたところ、あの、ちょっといいかな。と、先ほどからずっと無言だった、背の高いハウンドトゥースコートの女が言う。なにはかる。いえ、あの、これを言うのは逆に失礼かもと思ってたんだけど……すごく日本語が上手ね。ああそれ、わたしもさっきから思ってた。なんかすごいね、このツアーのためにすごい勉強したとか? 全然。え? と、一様に驚いて見える三人。ああそういうことか、さっきあたしが第一声を発した時に驚いてたのは。ヒメ、やっぱそんな知られてないらしいよあれのこと。だな、χορόςの各国代表だけの特権だから、あんたらは知ってるかと思ってたが。えっなに、なんのこと。

 周囲を見廻し、洗面所にもトイレにも人がいないか確認する。ここなら、いいか。GILAffeジラフ。え? おとがいに直接埋め込む、自動翻訳機構、だとか……なんの略だっけミッシー?  “Great Implantable Linguistic Affection”. そう、それのおかげで日本語話せてるんだ。なんそれ、そんなの初めて聞いたよ。もっかい言って? GILAffeジラフ、“Great Implantable Linguistic Affection”. ごめんはかる訳して。直訳なら「大可植言語愛着」、かな。それが何、χορόςと関係あんの? あーまだ案内されてないのか、わたしら手術受けたの先月だけど。手術? 全身麻酔打たれてたからわかんないけど、なんかまるくてうすいキャンディ? みたいなのを口ん中に。何それヤバいんじゃないの!? 蓄膿とか扁桃腺の手術みたいなもんらしいけど、でもすぐ終わったしなんともないよ。ねえヒメ? まあ。この「ヒメ」だって、英語で “Highness” と思い浮かべたものが日本語で発音されてんだよ。まじか。 “Highness” がヒメね……ニュアンスは違うけど単に「やんごとない人」って意味だから、まあ誤訳とは言えないかな。 “Hi” の発音に寄せて「ヒ」なんじゃないの。 “Hi” と「ヒ」は全然別でしょう……そうだ名乗るの忘れてた、わたしらχορός日本代表の93キュウゾウ、のラッパーの93キュウゾウで、こっちがMcAloonマクアルーンKATFISHカットフィッシュ。うん。よろしくっすー。ああ、こっちこそ申し遅れたな、スコット=アイルランド連合国Scott-Irish United Nation代表のシーラ・パト……あー、シーラ・オサリヴァンSheila O’Sullivan。こっちがメリッサ・マッコイMelissa McCoy。よろしくう。わたしらも本名で名乗ればよかったかな。後でいいよ、生憎まだ日本の人名には馴染んでない、ゆっくり憶える。はは、あー今日のゲスト出演の段取りどんな感じかな? その話も楽屋ついてからでいいだろ。あと二〇分で博多駅だってよヒメ。ああ、じゃ挨拶はこのくらいでいいか。うん、あとでゆっくり。いやードゥさんに通訳いらない会って話せばわかるって言われてたけど、まさかこういうことだとは。なんか聞いてておかしな日本語とか無かった? ぜんぜん無いよ、すごい精度だねその翻訳。まあな、ていうか、そもそもGILAffeジラフを造ったやつが日本人らしいからな。えっ。なんて名前だっけミッシー。憶えてないけど、ジラフに似た発音のやつだよ。ああ、たしか……フジラ、っていったかな。




 ありえねえ。

 ねえドゥさんこのχορόςってイベントってやつが関わってますよねえ、とわたしの頭の中でしか成立しない陰謀論、だと思ってたものを直接ぶつけたところ、そうよおイベントの運営自体はうちのDyslexiconだけどコンセプトはちゃんが出したものにあたしがメガ盛りした感じよお、と当然の如く返された。ドゥさん知ってるんすか!? 知ってるも何もあたしが出資してたのよ、あの子の発明にぃー。なあにちゃんも知り合いなのー? ええ、まあ……それより発明ってなんですか。埋め込みさえすればどんな国の言語でも話せるようになる機構、なんてそんなのあるわけないじゃんと思ってたけど、あの子が「最初の成功例が出来た」って連絡よこしてきてね、連れてきた女の子にあらゆる国の日常会話をぶつけてみるテストをしてみたんだけど、一八じゅうはっヶ国語のうち半分以上で意思疎通に成功したの。これヤバいじゃなあいってソッコー出資決めて、あたしもちょうど世界中のあらゆる楽曲データを収蔵する計画が軌道に乗ってたから、ひとつでっかい音楽イベントでもしてみようと思ってるのおってちゃんに言ったら直接会って話したいって、そのとき交わした二時間くらいの対話がχορόςの骨子こっしになってるの。とはもう会ってないんですか。うん、例のGILAffeジラフがついに完成を見てね、また別の仕事があるからって連絡があって以降は梨の礫。ほんとふとっぱらよねえー、完成した途端あっさりあたしにくれちゃうんだから。じゃあ、ほんとに、そのGILAffeジラフって、が造ったやつなんですか。さっきからそう言ってるじゃなあい。もう少ししたら大量生産が可能になるかもしれないのよ。でも考えてみてえ、顎に埋め込むだけでどんな国の言語でも話せちゃうシロモノよお? 一般に流通したらどんな値段がついちゃうかしらねえ、国家規模で争奪戦になったらイヤよねえ。ってことで、とりあえず今のうちはχορόςで各国代表に上がった子たちだけに試供してるの。なんでですか。そりゃちゃんの思想よお、優れた言語は優れた唄い手にしか宿らないって。考えてもみなさいよ、アホな政治家にGILAffeジラフみたいなテクノロジーが渡ったらろくなことにならないわあ。だからχορόςで勝ち上がるほどに優れたアーティストならいいって思ったの。美しく唄える人なら、きっとこのテクノロジーもうまく使ってくれるはずよ。と、陽気に狂ってるとしか思えない経緯と理屈をひととおり聞かされ、頭痛が強まり始めたところで通話を切った。


 大丈夫か? と気遣いながらコーヒーを手渡してくれる。うんありがと、でも大丈夫じゃない、かな……あんたの場合は、決勝のあとぶっ倒れてたらしいから、単に案内が遅れただけだと思うよ。ドゥの旦那、その辺ほんと雑だからな。旦那って呼んでるの。おかしいかな。そうね、語源がそもそも “dāna” 、「布施」を意味する言葉だからドゥさんには相応しいかな。わけわかんないくらい金持ってて、わけわかんない企画につぎ込んでる人だからな、文字通り “donor”. てかなんではかるは全然動揺してないの、のせいだったんだよやっぱり。別に今さら……そもそも海外から来た二人がよどみなく日本語を話せる状況が超現実的だし、も大概おかしい人間だったわけだから、それなら帳尻が合ってるなと思うだけ。なんだその帳尻。イヤだろそんな合い方。ただ、埋め込んだだけで話せるってどういうカラクリかな……英語と日本語の切り替えってどうやってるんすか。切り替えも何も、話そうって思った言語になるだけだよ。すごいすねー。まあ、どんな言語にも色々訛りがあって、ある程度は瞬時に使い分けできるだろう、そういうことなんじゃないか。でも、発話だけじゃなく聞き取りもできるってどういう……なあ、気持ちはわかるけどGILAffeジラフのことで質問攻めにするのやめてくれるか。あたし専門家じゃないんだ。確かに、ごめんなさいね。まあ、手術受けるか受けないかは自由だし、あんたらも説明受けたらいいんじゃないか、シンガポールまで行かなきゃいけないのが面倒だけど。わーあたしどうしようかなー、ねえさんは……ねえさん? ごめん漁火ちゃん、今日はもうその話したくない。あ、なんかごめんっす。

 とりあえず、と楽屋の椅子に腰掛ける二人。今日の打ち合わせから終わらそう。改めて93キュウゾウ、今回Shamerockシェイムロックのツアーファイナルへのゲスト参加を承諾してくれて礼を言う。ええ。こちらこそっすー。Shamerockについては、別にいいよな……先月にSIUNのχορός代表として勝ち上がった、二人組の音楽グループ、でいいだろう。もうちょっと愛想よくしようよヒメー。うるさいな、そういうのはお前の役目だろう……じゃあやっとくねー、わたしがShamerockの作曲・ラップ・およびプロデュース全般担当、メリッサ・マッコイ。ミッシーって呼んでくれていいけど、ステージネームは「Professor-M」。と、明朗かつ快活な声が響く。サウンドクラウドのアカウントありますよね、全部聴いたすよおー。めっちゃ芸風広いじゃないすか! ありがと、色々手広くできるから教授キョウジュとか呼ばれてるよ。おっ、いまの何キョウジュって、これ professor の日本語? そうっすよ。いい響きだねえ教授キョウジュ。じゃあこれから教授キョウジュって呼んでいいっすか? いいよー、悪い気しないなあこれ。ちなみに年齢いくつっすか? 二一にじゅういちヒメもわたしも。まじすかー、あたしのふたつ下っすね! やっぱ漁火ちゃんは誰とでも仲良くなるな、というか、この二人どっちもプロデューサータイプだから気が合うのかな。で、こちらにおわしますのがあ、Shamerockの作詞・ボーカル担当、シーラ・オサリヴァン。ステージネームは「SOS」。SOS、エモっぽいねえ。よく言われるよねえヒメエモっぽいって。まあ、嫌いなジャンルではないけどな……ただこのステージネームはイニシャルから採っただけだぞ。あ、そういうことか。正直言って、イニシャルで呼ばれるのも好きじゃないんだ、この名前は……えーなんで、かっこいいじゃん。まあヒメも色々あってね……言っとく? 数秒の逡巡ののち、諦めたように小さく頷く。じゃ手短に。五年前にさ、スコットランドが独立の是非を問う住民投票やって、55%の支持を得て独立して、その翌年に北アイルランドも正式にUKの統治から独立、そうしてスコット=アイルランド連合国Scott-Irish United Nationが成立した。ここまではいいね? あれすごかったすよねえ、日本だったら北海道と沖縄が独立して別の国になるみたいな事すもん。で、もうこれからは “English” 呼ばわりされないんだーって喜んでたら、あれ以来にわかにキリスト教右派が活気付きはじめてね。応じて苦々しげに頷くヒメ。うちの長老派教会はそうでもなかったんだけど、アイルランドのカトリックがちょっと厄介で……厄介って? まあ具体的には、アメリカのWASPみたいになっちゃったのよ。婚前交渉なんて絶対だめーっ避妊や中絶なんて神への冒涜だーっ進化論なんて絶対に認めないーっていう、まあどこの国にもある感じのキリスト教原理主義が、SIUN成立後の右傾化と結託しちゃってね。そういう人たちが政治家にも主権者にも増えちゃって、いま「聖パトリック党」てのが議席の30%占めちゃってんのよ。へえ……シン・フェイン党みたいなこと? むしろあっちは独立してからおとなしくなっちゃって、ぬるい中道左派って感じだよね。小さく頷くヒメ。で、その聖パトリック党の最大の支持母体である「君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentance」のリーダーが、ヒメのお母さんってわけ。なにその「血・汗・涙」みたいな名前。団員の過半数が女性で、ほぼ全員がカトリックかなあ。まあさっき言ったみたいに聖書原理主義で、言論とか音楽とか出版物への道徳的規制をガンガン推し進めてんのね。ああ……こっちでもよく聞く話ね。そういう人たちって大概、まともに聖書を読んだことすらないんだよね。と吐き捨てるように言ったはかるに、ヒメ双眸そうぼうが向けられる。そう、そうなんだよ、よくわかったな……原理主義が涵養かんようされる条件なんてどこでも一緒だよ。典拠とされる文物をまともに読む根気も能力も度胸も無い人間が、このわたしこそが原理なのだと居直りはじめた時、そこに原理主義が生まれる。だから原理主義って原理的には「無原理主義」なんだよ。というはかるの言葉を、なにか感銘らしきものとともに聞いているヒメ。の顔を横目で見ながら悪戯っぽい笑みを浮かべる教授キョウジュ。で、そんなママのとこにはもういらんなーいって家出したんだよね。家出。ああ、と短く切って溜息を吐いている。唄いたいことすら唄えないんだから、もう出ていくしかないだろう。連合になった以上、スコットランドに移るのもパスポートいらないし。そんでグラスゴーでぶらぶらしてたヒメと知り合って、わたしがプロデュースした曲で去年のχορός出たけど惜しくも敗退で、今年ふたりでShamerockとして組んだ。以上って感じかなあ。えっ、χορόςって去年もやってたの? そーだよ、東南アジアと西欧のふたつだけっていう、すんごいざっくりした開催だったけど。SIUNもUKも同じ西欧地区だったから、UKから上がってきた二人組のユニットにけて、それで今回雪辱って感じなんだよねーぃ。と笑う教授キョウジュに、ヒメは左頬だけ向けて頷く。

 てな感じで、できるだけヒメのことはヒメって呼んであげてよ。「君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentance」がらみでお母さんの名前も知られちゃってるから、ファンが気遣って付けてくれた呼び名なんだ。ああ、そういう経緯いきさつなのか。まあ、あんたらに限ってはステージネームのSOSでもいい。同じχορόςの代表だし、気を遣われてもな。いや、当分はヒメで呼ぶよ、似合ってるし。そうか……? 実際すげーヒメ感あるよねえ『ヘルボーイ』の二作目っぽくない? いや、観てないからわからん……なんかエルフっぽいじゃん銀髪だし。はいはい、初対面の挨拶ならこれで十分だろう、次はそっちの番。

 おし、さっき言ったけどわたしが93キュウゾウのキュウゾウ。メンバー名がそのままグループ名なのか? そう。マリリン・マンソンみたいだな。でしょー、ほらはかるいつか言ったじゃん、わかる人にはわかるんだよ本質が。何が本質なの……本名はりゅうっていうんだけど、こっちはまあ憶えなくていいかな。。うん。人名というのは不思議だな、口にすれば同じはずなのに、言語が変われば別の表記になる……たしかにね、中国語の当て字とかすごいよねえ、元素記号のためにものすごい作字したんだよね確か。ごめんなさい、こうしてすぐ脱線する子だから。はははいいよ、会えて嬉しいよハンにツアーファイナルのゲスト93キュウゾウだよって言ったら羨ましがってたよ。え、ハンナ……? そう、シィグゥハン。うわーすげえ嬉しい、わたしも韓国決勝の映像であの子やべーってなったんだよ。ていうか知り合いなの? ヒメと組む前からの仲だよ、三年前くらいにサウンドクラウドで聴いて、超いいじゃんってメール送ったらすぐ仲良くなって、一緒にミックステープ作った。へー。ミッシーの原点はヒップホップだからな。いまヒメと作ってるのはわたしにとっても実験ばかりだから新鮮だよ。あごめん話飛ばしちゃって、わたしらはって呼ぶかな、93キュウゾウだとややこしいし。もちろんそれでいいよ。で、こっちがMcAloonことこくはかる、作曲とコーラスとキーボードやってます。McAloon……隠す必要もないし私から言うけど、アイルランド系の血が入っててね。ああ、やっぱり。正確にはアイルランド系アメリカ人だけど、会ったこともないしよく知らない。父親? ええ。その髪も父譲り? たぶんね、栗色だったらしいから。そうか……綺麗な色だと思う。ありがとう、あなたのそれとは随分違うけどね。そりゃアイリッシュにも色々あるさ。ふふっ。あれ、珍しいな、はかるが初対面の人とこんな感じで話すって。主に作曲担当だからステージではキーボードくらいだけど、最近ちょっとボーカルの割合も増えてきたかな。はかるもMcAloonも似たようなおんだから、好きな方で呼んで。わかったはかる、よろしく。ええ。で、彼女がギタリストのKATFISH、漁火イリチ。よろしくっすー、ギターもすけどレコーディングとかミキシングとかもやってます。せっかく今日ギタリストいるんだから特別なことしたいよね。そうそうあたしら移動中に考えてきたんすけど、カバーやりませんか? カバー、何の? U2の『Pride』とリンキン・パークの『Bleed It Out』をメドレーで。ああ……いいけど、なんでその二曲? やっぱアイルランドと日本の親善試合ーって感じにしたいし、なによりわたしさ、この前リンキンのサード聴いてて思ったんだよ、この頃のアメリカのロックって明るかったんだなーって。明るい……まあ、あれ以降のアルバムに比べればな。なんかリーマンショックくらいから、アメリカの音楽とか映画とかってやたら鬱々としてきたじゃん。それねー、同じ英語圏でも思うよ、あの時期から余裕なくなったんだなーって。でしょ。わたしもその雰囲気に慣れてたけどさ、改めて『Bleed It Out』聴いたら「うわーっ鬱っぽいと思ってたバンドがこんな楽しいパーティーラップやってたんだ」って、なんか泣きそうになっちゃって。なんで? だって一〇年後にああいう結末を選んだ人がこういう歌やってたんだって思うとさ、遡って、こう。ああ……わからないでもないな。ってことで、今回は『Pride』と『Bleed It Out』をメドレーでやりたいんだ。あの時期のリンキンって露骨にU2してたから、違和感なく繋げるでしょ。『Pride』のリフのままヴァースに入ったら面白いかもね。そうそう、トースティングで『Bleed It Out』始めちゃう感じで。ただ、トラックはどうする? さっき新幹線の中でビートとベース打ち込んだんで、それループしながらBPMいじれば問題ないはずっす。Shamerockのライブって普段どうやってんの? 基本的に事前にオケ渡してセットリスト通りに流すだけだな、でもミッシーのMASCHINEもあるか。じゃあ教授キョウジュあとでデータ渡すんで。オッケー。そのメドレーもやるとして、一発目はあれをやってほしいんだ、『好きなように唄いやがれ』。おー、ヒメ直々のご指名で! あの曲はすごく良い。グルーヴとメロディの両方があるし、何よりミッシーもヴァースで参加できる。フリースタイル用のリリックをそのままやるけど、問題ないかな? 全然いいよ、てかGILAffeジラフって日本語でも唄えるの? 何ヶ国語かで試してみたけど、字余りになったり抑揚が行方不明になったりでダメだった。やっぱりそうか。まあおんを憶えて練習すればうまくいくんだと思うけど、とりあえず今日は英語詞で。いいよ、じゃヒメはフックのコーラス唄うよね、はかると同じとこ。もちろん。あたしとはかる、ミッシーととで、きれいに分担できるはず。じゃ、『好きなように唄いやがれ』のあと『Pride』と『Bleed It Out』。持ち時間的にはこれで十分かな。漁火ちゃんは教授キョウジュと段取り確認しといて。よし、イリチ、だっけ? ギターのサウンドチェックだけ先にやるから機材一式持ってきて。了解すー。じゃ、あたしとはかるは歌詞憶えるぞ。ええ。あっそうだ憶えなきゃだ今から。


 やっぱり英語圏からはるばる福岡まで来るファンは少ないらしく、モニターから見る限りではほとんどがアジア人の観客だった。しかしもうちょっと大きいハコでもやれそうなもんなのにZeppとはねえ。初めての日本ツアーだからこれくらいが順当でしょう。ただやっぱ、この音楽性だと観客の顔が近いハコのほうがやりやすそうだな。グランジやエモを経過したロックに、ビートはヒップホップマナーで、でも編曲はメタルっぽさを押し出した感じ。ヒメのボーカルはシャウトでもピッチを外さないし、教授キョウジュもメロディに乗せてフロウするのがめちゃ巧い。なるほど、この二人が組めば強いはずだね。でもアイルランドとスコットランドの二人でA7Xとかランシドみたいなアメリカ西海岸ぽい音楽やるって、なんか面白いな。というか、A7Xのようなツインリードハードロックのルーツがそもそもシン・リジーでしょう。あそうか、じゃあ順当な先祖返りなのかこれ。

 と新鮮な気持ちで楽屋のモニターを眺めてるうちに、もう出番一〇分前となる。漁火ちゃんは上手かみてから、はかる下手しもてから、私は教授キョウジュのMCとともに出てヴァースかます感じになる。あーライブ客演なんて初めてだけど、どんな感じで迎えられるかな。「誰?」って感じだったらいやだな……


 と、一曲終えただけでこの歓声である。うわー楽しい。楽しい。二人増えるだけでこんな賑やかになるのか。ウータン・クランてステージ上がるたびにこんな多幸感なのかな……と客席の顔を眺めてるうちに、 We’ve got another shit! と教授キョウジュが煽り、さあ聴かせろとばかりに観客が応える。よっしゃ漁火ちゃん準備いいか。いくぞ。


 あちー、一二月だってのに。めっちゃ暖かく迎えてくれたじゃないすかー。彼女らのファンだから、χορόςもチェックしてくれてたのかもね。考えてみりゃそうだよな、いらん心配しちゃったなー。


 おつかれー。ああ、そっちこそ。思ってたよりずっと盛り上がったよ! あのメドレーやって正解だったあ。でしょー。アイデア出してくれてありがと、わたしらの客層にもぴったりの選曲だったな。いやー、わたし場の空気を最大限に引き出すセンスがあるっていうかさ。ははは、自分で言うか。あと、若いファンたちに「やっぱ自殺はいけません」って伝えたくてさ。なんだそれ、取ってつけたような。いやいやわたしが唄うと説得力あるってば。ええ? まあ……このことも追々話しましょうか。

 93キュウゾウはもう帰るのか? あー、何の予定もないからそうなるけど。もしよかったら最後まで付き合わないか、このあとShamerockのファンミーティングがあるんだ。え? 日本ケルト協会の招待で、The Celtsってパブでな。なにそれ、福岡うちにそんなのあるの。あるよ、定期的にセミナーとか演奏会とかやってる。まあ、私はちょっとスピっぽすぎて好きじゃないけど……招待てことはタダ酒飲めるってこと? ああ。よっしゃー行こうよはかる、大丈夫だよね漁火ちゃん? いいすよー。いいけど、タダ酒目当てで他所のファンミーティング行くってね……いいよ、あたしたちも来てほしい。何より、初めての土地だから迷わずに着けるか不安でな……ああそういうことか。じゃあ案内するよ、どこのパブ? The Celtsなら中央区の警固けごかな。じゃあ三〇分もかからないよ、タクシー呼んどこう。


 あっち方向におやこう通りていう、福岡のヒップホップなら大体ここっていう地区があるんだけど、今日はちょっと寄るの無理かなー。へえ、レコード屋とかも? 大体このへんに集まってるよ。んー、明日すぐに帰んなきゃなのが惜しいな。そっか、じゃあ今度来たとき案内するよ。今度っていうか……お前、わかってるのか? 何が? 来月すぐに本戦だぞ、χορόςの。え? 環太平洋のχορόςは日本決勝が最後だから、これからクルーズ船での本戦が始まる。たしか半年ほどかかるんじゃないか……なにそれ初めて聞いたけど! まあ、GILAffeジラフのことすら知らなかったもんな……あとでドゥの旦那から説明があると思うが。半年すかー、その間ずっと船で暮らすんすかねえ。そうなるな。わたしとはかるは橋燃やしてるからとくに問題ないけど、漁火ちゃんはスタジオの仕事に差し障るね。そうすね、まだ来年以降の仕事は受けてないんで大丈夫すけど。わたしらどうなるんだろー。先のことなんてわかるはずないでしょう、たった二ヶ月でここまで変わったんだから。だよな、まさかこんなに色々起こるなんてな……あっ着いた、ここだよここ。えっもうか、予定の入り時刻よりずいぶん早いな。いいよもう、入っとこ。あちょっと待って教授キョウジュ。なに? Shamerockって、今までライブ中もずっと英語で話してたよね。うん。日本で受けた取材とかも? ああ、向こうは日本語いけるなんて思ってもないから、英語で応対したよ。てことは……ファンは、実は日本語で話せますってことも、ここで初めて知るわけだよね。ああ、それかあ……どうするヒメ。どうするって言っても、遅かれ早かれ明らかになるんだから仕方ないだろう。GILAffeジラフの存在が知られてパニックになったとしても、ドゥの旦那が悪いとしか言いようがない。ま、そうなるなあ。じゃ、今夜は日本語で話してみようか。うわーどうなるかなあ……


 どうなったかというと、酒が全部持っていった。スペシャルゲストのわたしらが司会進行という体で、かんぱーい、とともに二人が日本語で話し始めた、のは衝撃をもって迎えられたが、そんな違和感はギネスの泡とともに消えていった。ケルト協会の人らは「いやあやっぱり音楽は言語を超えますねえ」と情感たっぷりに言ってたけど、全然そういうことじゃないと思う。

 同じ言葉が話せるとわかったとたんに馴れ馴れしくなるんだな、日本人って。とトイレから帰ってきたヒメが言う。まあね。新幹線の移動でもファンから話しかけられたのは数えるほどだったが、もし話せると知られてたらもっと露骨に絡まれたのかもしれん……まあよかったよ、ひとまずパニックにはならなくて。向こうの席では教授キョウジュがひとりひとりミート&グリートに応じている。ヒメはやんなくていいの。言われたらやる、だがああいうのはやっぱりあいつ向きだ。カウンターの方でははかるがケルト協会の人とアイリッシュトラッドの本をめくりながら議論してるっぽい、が、会話がすべて英語なのでまったくわからん。どーしようかなわたしもGILAffeジラフれるかなあ。悪い選択ではないと思うぞ。ヒメはどうして入れようと思ったの。単に、英語圏以外にも移住先の選択肢が増えるからな。え、スコットランドじゃ不満なん? そういう意味じゃない、ただ、備えはあったほうがいい。まあ、日本語できりゃ十分なんてこの国だけだしなあ。わたしもあの頃ポーランド語ができたら……なぜポーランド語。このことは、まあ、いつか話すよ。ほんと長い話なんだ……


 大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。はそう言っていた。人間も、言語も、か。確かに大したことだ、分裂したり統合したり、切り裂いたり縫い合わせたりしながら、それでもかろうじて多くのものが存在してるってことは。何の因果か、こうして海の向こうからやってきた客人から、間接的にの消息を知ることになった。もうが無関係だと思うこともできないし、この道は絶対にへ続いていると信じることもできない。相変わらず宙吊りのままだ、届かなくてたどり着けなくて、しかしやめることはどうしてもできなくて。ならわたしは、数え切れないくらいの誰かたちが並び立つこの世界で、もっと多くのことを学ばなきゃならない。誰かの歌から、言葉から、存在そのものから……、ほんとに大したことだね、これだけ多くのものが存在するってことは。

 ねえさあん集合写真とりましょー、と、だいぶ出来上がった感じの漁火ちゃんが飛び込んでくる。なに、どしたの。教授キョウジュと一緒にチェキ撮ってたらファンのひとらが93キュウゾウとも一緒に撮りたいってえ、じゃあもうみんなで写ったらいいじゃんってなりましてえ。ああ、ミッシーだけじゃ捌き切れなかったか。ごめんヒメー、とはかるもいいかなー? この写真撮ったらお開きってことでー。なんか飲み会終盤特有の雑なバイブスになってきたな。いいよ、撮ろう。タダ酒飲んだんだからこれくらい付き合ってくれるだろう? わかってるよ、と立ち上がり、カウンター席の壁を背にして、二人と三人で屈み込み、その周りにファンたちが蝟集する。バーカンさんカメラ大丈夫すかー? あざすー、じゃあみなさんありがとっしたー! スペシャルゲスト93キュウゾウにでっかい拍手をー! と、漁火ちゃんと教授キョウジュが宴を締める。


 じゃ、道中気をつけて。そっちもな。ほんと共演できてよかったよ、またやりたいね。ああ、こちらこそ良いツアーファイナルだった。宿どのへん? 歩いてすぐそこ。じゃ気をつけてね、またχορόςで。ああ、会うことになるかもな。おつかれっした教授キョウジュー! ありがとイリチ、はかるもー! また連絡するー!


 本当に、また会うことになるかもね。と、タクシーのドアを閉めながらはかるが言う。なんで。なんでということもないけど、あの子とはこれっきりって気がしない。ヒメ? 頷くはかるの頬の上で、窓外の街灯が明滅する。はかるにとっては初めて会えた同胞だもんな。まあ、ね……探したらいいよ。えっ。世界は広いんだから、探したらいいよ、家族と呼べるような人を。何言ってるの、前にも言ったけど、自分の生まれなんかに執着したって──そういうことじゃないよ。赤信号で停まった車内の暗闇で、はかる双眸そうぼうを見据えて言う。わたしじゃ限界があるから、はかるのことをわかるには……だから、これから探してみたらいいよ。誰かを通して自分を、自分を通して誰かを。そしたら、もっと遠くまで行けるかもしれない。もっと別のものになれるかもしれない。ヒメたちが今日来てくれたのも、何かの運命だと思うよ。

 数秒の沈黙。が、やにわに破られる。一度、帰ろうと思うの。長崎? 静かに頷く。この一ヶ月で諸々の整理をつけたら、ね。あの人の場所は知ってるけど、まだ一度も行けてないし……気持ちの整理をつけるにはいい機会かも。だね、行ってあげなよ。ねえ。なに。青信号で発進した車内に、ふたたび街灯の明るみが兆してくる。これからどうなろうとも、変わらずにいましょう。うまく意味がとれない言葉に、どう返したらいいのか。変わるよ、変わらないのは無理。そういう意味じゃなくて……変わらずに友達でいましょう、ってこと。ああ、こんな顔で笑うんだったなはかるは。懐かしいな、あのとき以来だ、ふたりで暮らした最後の日。友達、ねえ……友達以上のこともしたけどね。あれは必要なことだったの……イリチ、聞かなかったことにして。あはは、漁火ちゃん寝てら。苦笑で誤魔化してもしょうがない、から、はっきり言わなきゃいけない。友達だよ。だけど、変わるよ。謂おうとしたものは察せられたらしく、はかるも苦笑する。変わるね、確かに。あなたも私も──も──誰かは誰かの生を変えてしまう、残酷なほどに。そういうこと。そのこと自体をどうこう言ってもしょうがないよ。とにかくこう、って、また帰ってこよう。帰る場所すらなくても、どこかにたどり着いてはしまうんだし。くしかない。とりあえずこの夜を明かして、また新しく始めよう。もっとうまく失敗しよう。




 あなたがどんな酒を好んでいたかさえ、うまく思い出せない。そもそもうまい酒を飲んだことがあったろうか、あの生活水準で。知らない、私はあなたのことをよく知らない。最も近しい存在であるはずの娘でさえ、あなたに深く這入はいることはできなかった。当然だろう、出産してしまえばもう別の人間だ。いつまでも暖かく迎えてくれる故郷があってほしいなどと、私は思わない。

 だからひとまずは、この一献いっこんを捧げて、あなたのもとを去ろうと思う。母を愛したかわからない私から、娘を愛したかわからないあなたへ。しかし、それでも愛はあった。あってしまった。あなたとあの人の間にだって、愛はあってしまったはずだ。この墓石のように冷たい破局だけが父母のすべてだったとは、誰にも言い切れはしないのだから。

 長崎。あまりに多くの異種を孕み、あまりに多くの中絶を強いられたこの土地、わされた愛と嬲りにはとても見合わない不妊の土地で、かつて私も生を享けた。殊更に役立てようとも、無駄にしようとも思わない。どうあっても受け取ってしまうのだ、拒みようもない一つ身なのだ。なら私も繋ごう、どこから伸びてきたかも知れない線を。切って、いで、繋いだ先が、絶えざる脈の走りのように見えたらいい。




 よりによって大晦日に呼び出しかよ。いいじゃん、さすがにこの日まで塾やってないっしょ。まあ、昨日で一区切りだったけどな。今年の子らも大丈夫そう? お前な、このきゅうぞうが志望校落とさすとでも思うか。ははは、そのために少人数でやってんだしね。そうだよ、俺からしたら毎年新しい子供ができるみたいな感じだ。あはは、考えると壮絶だな。だから責任重大だよ、人生預かってるんだからなこっちは。きゅうぞうはやっぱかっこいいなー。丸出しのお世辞は言わんでいい。本気だよ、本気で言ってるんだよ。だって、わたしには絶対できないことだからさ、その、誰かの人生預かるなんて。そう、か。お前も変えてると思うけどな、はかるさんとかの人生を。預かるのと変えるのは違うよ、親鳥みたいに巣を作って、根気強く、暖かく誰かを育むって、すごいことだよ。曲作って唄うのだってすごいことだろ。いやあ、それはさ、明後日の方向に卵を投げつけるみたいなことだからさ……なんだそれ。ははは、マジで思うんだけど、わたしよりきゅうぞうのほうがお母さんの才能あるよね、苗字に母ってついてるし。何の関係もねーわそれは。

 で、なんでここ。え? なんで元寇防塁げんこうぼうるいで待ち合わせ。もっと他に場所あったろ、こんな海風が寒いとこよりも。いやあ、ゆうきゅうのれきしにおもいをはせましょうみたいな。何言ってんだ。さあきゅうぞう先生、ここにモンゴルのイキった人たちが攻め込んできたのは何年でしょう? 西暦で一二七四と一二八一年だろ。よくできました。まあ知っての通り船が沈んでさ、攻め込んできた側のモンゴル人は処刑されたらしいんだけど、それに付き合わされてた中国や朝鮮の捕虜は助けられたんだよ。らしいな、そのあと日本に入植したとか。すごい数だったんだってよ。その人たちがさ、また次の日本を作っていったわけじゃん。その人たちと一緒に作ったわけじゃん。それよりもずーっと昔から、百済くだらや高句麗や新羅からの移民も受け入れてたわけでしょ。ねえきゅうぞう、神風ってそういうことだよ。日本ってそういう国だよ。この島にはさ、誰がいたっていいの。どんな人が住んでもいいの。どこから来てどこに行ってもいいの。でしょ。当たり前だろ、わざわざそんなこと言うために呼んだのか。それもあるけど、さ。行くんだろ。えっ。あのχορόςってイベント、日本で終わりってわけじゃないだろ。知ってたんだ。そりゃあ俺だってファンだからな、93キュウゾウの。一番近くて一番遠いファンだ。あはは……なあ。なに、っていうかきゅうぞうがわたしのこと名前呼びって珍しいね。いいから、今から言うこと、一切茶化さずに聞け。いいな? 内容にもよるけど……なに? まさか、お前がそっち側だとは思ってなかった。え、ああ……ごめんね、でもと付き合う前は──違うわ、そっちじゃない。えっ。お前が、音楽を創る側の人間だとは、思ってなかったよ。……あ、そっちのほう。当たり前だろ。ただ音楽が好きで、でも趣味でしかなくて、平凡に生きていくだけの人間だと思ってたからな、俺と同じで。うん……わたしも思わなかったよ、まさかキュウゾウになっちゃうなんて。だからさ……助けてやれよ。えっ、誰を? 、を。言ってたろ、にはわたしが必要だって。は音楽を理解できない人だけど、わたしならわかってやれる、だからわたしが必要だって言ってたろ。なんで憶えてんだよ、もうそんなん──俺もそうだと思う。えっ。必要なんだよ、音楽に選ばれた側の存在は。そうじゃない側にとっては、音楽に選ばれた側の存在は救いなんだよ。だから、また会いに行ってやれ。これから世界を巡るんだろ。なら会える可能性も十分ある。会いに行ってやれ、あの時お前が言ってたことは間違ってない。お前の歌が俺を救ってくれたように、今度はも救ってやれ。

 救い、かあ。救い、だろ。自分にできないことをしてくれる誰かがいるってのは。誰かにできないことをやれる自分になれたってことは。そう、か、もね。そうだ。ありがときゅうぞう、じゃあさ、これからもわたしにできないことやってよ。おう。お前も、せっかく音楽の道に進んだんだから中途半端に終わらすなよ。わかってるよ、きっと地獄みたいな道なんだろうなあ。でもお前は誰かを救ってるし、誰かに救われてる。だからけよ、もう振り返るな。このまま続けさえすれば、誰も辿り着かなかったところまでけるかもしれない。

 ありがと、きゅうぞう。おう。あんたのこと好きになったの、間違いじゃなかった。こっちの台詞だバカ。わたし、くから──ぜったい戻ってくるから、必ず。中途半端な旅じゃなかったって、言えるようにするから。わかってる、頑張れよ。ありがとう。


 ばれたらかなきゃいけない、そうはかるは言った。そんなわけない、わたしみたいなのがばれるわけない、と思ってた。でも、たしかに聴こえてしまった。その音が鳴り止むことはなかった。たとえ癒されようと傷つけられようと、聴こえてしまったものを、なかったことにはできない。

 わたしが愛したもの、憎んだもの、植えたもの、摘んだもの、得たもの、喪ったもの、すべての結果としてここにいる。わたしと無関係だったはずの何かたちが、偶然のうちに絡まりあって、こうしてひとつの歌をあざなった。そしてまた、誰かの歌が聴こえてくる。海の向こうから、空の果てから、地の底から。そうか、君もこうしてばれたんだな。もはや何者でもない誰かに成り果てながらも、それでも自分の声で唄わずにはいられなかった。構えるな、きっとわたしたちはともだちになれる。しかし一朝一夕の話でなく、勝っては負ける千一夜の、乾坤一擲の斬り結びを経て。

 あいあえぎ、こと寿ことほぐ。まいぐわい、おとおとづる。また聴き逃す、また見誤る、またなにかを喪っている。人ひとりができることには限界がある。ならわたしは、これから何を喪ったかを探しにいこう。何を間違えたかを知りにいこう。これからくのはきっと、数えきれないほどの肉体ひしめく、未知の光で目眩めくるめく世界だ。


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