05 騙されう者は彷徨ぬ


 やっぱ、、おかしいよ。なにが? なにがって、今まで絶対なかったもん、耳だけでこんなに何度も、って。それはが敏感だからだよ。いいな、正直羨ましく思っちゃう。なにが? そんなにさとい耳を持って生まれてきたことが。褒められてんのかな、あ、や、もーそのパターンもっていくのやめて。飽きた? じゃなくて、わかってるから、またの思いどおりにいっちゃうのが……だいたいなんでいつもうつぶせにするの、顔見えないし息苦しいし。息苦しくしてるんだよ。えっ。いつもね、こう、の背中から脇腹に左腕を回すでしょ。うん。で、枕にの口と鼻をうずめるようにして、そのあと先に回した左腕と覆いかぶせた右腕で、肺と横隔膜を圧迫するの。そのまま息をさせないように続けてたら、だいたいは達しちゃうね。そ、そんなこと考えながらするやついねーよ! 愛し方の話じゃないよそれ、殺し方みたいに聞こえたよ今。ふふっ、だってもそれ好きでしょ。いつも達したあと、ずーっと止めてた呼吸をすぅーっすぅーってはじめるときの顔、すっごく可愛いよ。やめろってのーもう。そうそう、霊長目の呼吸って既にネアンデルタールの頃から横隔膜の収縮に依存してたんですってね、それがヒトでは胸郭が扁平化して骨盤との隙間が大きくなって、腰椎部分の自由が広がったって。いきなり何だよ。わかるでしょ? 吹いたりとか屈んだりとかは、人間が愛を交わすには不可欠な動作。すなわち言葉と息吹ね。人類以外のすべての哺乳動物では、咽頭が喉の高い位置にある。だから咽頭腔がせまくて、作り出せる音声の種類が限られるの。対して人類は、咽頭の位置が低いからさまざまな音声を出せる。そのかわり、呼吸と嚥下が同時にできなくなったけどね。なんの話。こういう話。あ、やーもう、いきなりやめろお。ふふ、だって、息止められながら耳をされるの好きでしょ? 心拍が荒くなってるのに耳元が舌音でいっぱいだから、自分の鼓動の昂りに気づかないのかもね。もー分析はそこまで。とにかくもう息止め作戦はやめて、耳いくのも。弱いとこばっかされるの気分悪いよー。わがままだなあは。じゃあね、こうして。えっ何、また後ろ。いいから、あのテーブルの前まで行こうか。えっ立ったまま? そう。これなら呼吸もしやすいでしょ。そういう問題かな、っ、ぃ、きなりやめてってー。ここもだよね、うなじ撫でられるとすぐだもんねは。ょ、っと、、これやだあ。すじばかりはいや? じゃなくて、これだとさっきと同じじゃん、どっちの顔も見えないじゃん。何のためにこれがあると思ってるの。これ、って……鏡? もちろん。そのために立たせたの。さっき、うつぶせだと顔が見えないって言ってたでしょ、こうすればお互いの顔が見られる。やだよ、結局正面からじゃないじゃん。いいから、よーく見てみて。こういうことしてる自分の姿、今までまともに見たことなかったでしょ。当たり前じゃん。ほら、背中から頸にキスされてるときの顔、よーく見えるでしょ。やめゃ、ぁ、なに……ぷ、口に指突っ込むなって。舌、撫でるだけだよ。また息させないつもりか。ちがうよ、はそこも弱いから、してあげようと思って。舌をかよ。ほら、前ちゃんと見て。んぅっ、このお口で、毎日いろんなことをしてるねわたしたちは。ぁが、そう、辛かったら前かがみに。肘ついてもいいよ……さあ、これでもっとよく見えるね。ゃは、ぁ。キス、してみようか。ぃや、むりじゃんこの体勢だったら。ちがうよ。えっ。にキスするの。あっ。ほら、どう見える、鏡の中の自分にくちづけて。はぁ、ゃ、だよこれ。いいから続けてみて。気づいてないでしょ、さっきからぐっしょりなってるよいつもよりも。がへんなことやらすからじゃん。そうかな、実はすごく欲情してるんじゃない、鏡の中の自分に。ぁ、ほら、舌も入れてみて。入るわけないじゃん。そうだね、鏡は平面だもんね。っふじぁからかってるでしょ。まさか、これも大事な勉強だよ……そういえば、神も鏡に映るんだよね。は。神は自らの姿に似せて人間をおつくりになりました、ってさ、なら神は鏡に映った自分の姿を知ってたはずだよね。も、しながらそういう話やめてよ。してるからするんだよ。神は鏡を見て自らの姿を知り、それに似せて人間を創り、地上にあふれた者どもを通して自らを愛す。一神教にとって、そもそも現象界は神のイマージュなの。ぁ、はゃ、神は鏡によって分節され、自らの外側を知ったことによって、人間を創らずにはいられなくなった。ゃ、ぁ、だから人間は神の反映であり鏡像、神が自身を愛すための。だとしたらさ。ぁふ、あ、っあ、どう思う、? もしも、人間がそれと同じことをやっちゃったら? はあっ、ぁゃ、っくぁ、最も愛する者が自分自身の姿だったとき、その人は正気でいられるかな?




 ええと、SoundCloudのアカウントが停止されました。まじすか。一体何やったの。何やったのていうか、わたし一年半くらい前からずっと曲上げてたじゃん。そのトラックでまあダズ・バンドとか、ファク・インクとか、あとハンコックとかチック・コリアとかピーター・ガブリエルとかベタなのまでサンプリングして使ってたから、権利関係のあれが一気に来て、それでアカウント停められました。急に? まあここ一ヶ月で再生数跳ね上がったしねー。アカウント停止ってことは、私たちと組んでから作った曲も聴けないってこと。あれはSpotifyとYouTube Musicに移してあるから大丈夫。だけどひとりでやってた頃の曲は全滅だなー、バックアップも取ってなかったし。取っときなさいよ。あんなのは過程だから振り返んなくていいんだよ。でも、ねえさんの曲のリミックス上げてる人たちいっぱいいますよね。ああいうのは禁じようがないよー、まあヒップホップ的な楽しみ方の一つだし。

 しかしまあこの野球場さあ、ヤフオクドームよりちょっとキャパ少ないくらいなんだね。東京ドームくらい押さえるかと思ってたすけどねー。さすがに埋まらないでしょう。そうかな、いよいよ日本代表決定戦なんだよ、ごまんは来るっしょ。だいたい、今オリンピックのせいで諸々おかしくなってるわけだし、この会場でやれる時点で御の字でしょう。そうそう韓国代表決定戦見た? マジヤバかったよーAgustDみたいなファストラッパーが持っていってさ、超バッドアスだったなー。やっぱ各アジアの国でやってるんすね。まあ主催の本社がシンガポールだからな。そんな遠眼鏡でいいの、足元がお留守だけど。えっ。あなた、まだ今回の出場者一覧見てないの。いや見てないよ、いま着いたばっかだし。そうそう今回やばいすよねえさん。えっなに、なんかあったの?

 驚かずに聞いてね。

 うん。

 |93キュウゾウが、もう一組エントリーしてる。

 え?


 これ、と言いながらはかるがパンフレットを開く。「関東地区代表:93キュウゾウ」……って、何これ? 何って言われても、キュウゾウでしょう。なんでだよ、なんでこんなダフトパンクみたいな覆面したのがキュウゾウなんだよ。なんでと言われても、実際に出てきて勝ち上がって認められてるわけだから。ちょっと見して……「現代の日本語ラップシーンに聳え立つモノリスの如きリリシスト。性別・本名・出身地すべて不明の謎めいた存在感がヒップホップヘッズの間で話題になっていたが、ついに日本代表決定戦でそのベールを脱ぐ」……ってなんだよ、誰だよお前。キュウゾウは北九州市門司もじ区出身のりゅう様だっての! 動画あるすよねえさん。えっ。東京大会の。な、うわ、わたしがソロでやってた頃の曲だ、サンクラから抜いたのかな。フロウそっくりすよねー。ほんとだ、わたしよりわたしに似てるわ、なんだこれ気持ち悪っ、昔のわたしが勝手に動いてるみたいだー! でもすごいウケてるすよねー。まあ、トラックもリリックもわたしのだしな……て、ちょっとまって。じゃあこのニセキュウゾウが上がったってことは、え? えらく不興げなおもちではかるが頷く。

 そっちがホンモノ、ってことになってるらしいよ。

 はあ!?

 これ、と言いながらはかるがスマートフォンの液晶画面をスワイプする。あなたはエゴサーチなんてしないでしょうから、知らないでしょうけど。なんだよ雑な世論なんか見せるなよー。でも、これは知っておいたほうがいいと思う。なに……Abemaの記事。「結局どっちだ!? ふたつの93(キュウゾウ)をめぐる憶測まとめ」って……とりあえず全部読んでみて。「今年九月末、それは突然に始まった。福岡の観覧無料フェスでのオープンマイクにて、謎の三人組フィメールヒップホップクルーが現れ、そのパフォーマンスを客席から撮影した動画がSNS上で爆発的に拡散されたのである」。いちいち「フィメール」とか付けるなようるせえな。「K-POPグループ等のライブツアーに帯同経験のあるKATFISHがギタリストとして参加している以外はすべてが謎なこのクルーは、」ははははかるも無名扱いされてるぞ。うるさい。「その沸騰するようなファンクネスと破格なリリシズムによって瞬く間に話題となり、動画内でパフォーマンスされていた楽曲が93キュウゾウというラッパーのものであることが特定され、93キュウゾウはネット上でソロとして活動していたラッパーのクルー名として記憶されるにいたった」。まあ間違ってはいないな、ふたりと組むことにしたのはこれの後だけど。重要なのは次。えっと、見出し……「実は単なるコピバン? 九州のクルー93キュウゾウと東京のソロ93キュウゾウ」、はあ? 「ほぼ時を同じくして今年一〇月、もう皆さんご存知χορόςコロスの東京大会にて、クルーではない覆面ラッパーの93キュウゾウが名乗りを上げたのである。そのライムとフロウはSoundCloudにアップされている音源と寸分違わぬもので、実はこちらの93キュウゾウがホンモノなのでは、例のクルーは単にコピー演奏がバズったきっかけで93キュウゾウを名乗ることにしたニセモノなのではないか、という疑惑が一気に広がり始めたのだ」。ふ、ざ、けんなボケ!! 私に言われても。「そもそも福岡のほうの93キュウゾウは、あの動画以降、ソロ時代の曲を一度もパフォーマンスしていない。アカウントに膨大な楽曲の蓄積があったにも拘らず新曲しかやっていない以上は、93キュウゾウの名を利用した新人バンドではないかとの疑惑を持たれるのも無理からぬことだ。」無理からぬことじゃねーわ! 三人で組むことにしたのにソロの曲やってどーするよ、頭沸いてんじゃねーのかこいつ。その記事はただ世論を記述してるだけだから。「因果なことに、福岡のクルー93キュウゾウと東京のソロ93キュウゾウχορόςコロス日本代表決定戦で相見える成り行きとなった。どちらがホンモノの93キュウゾウかは、χορόςコロスでの勝敗によって明らかになるだろう。謎が謎を呼ぶネット上での憶測に振り回されてきたヘッズには、是非その目で真贋を確かめてほしいところだ。」お前らが勝手に振り回されてただけだろーが!!


 ……と、いうわけ。わかった? よーくわかったよ、ネット上でピーチクパーチクやってんのは聞く耳も見る目もないバカだらけってことが。ねえさんおちついて。もう、マジで……思うか普通? あっちのほうが明らかにコピーじゃん、サンクラの音源さえ聴いてれば誰でも真似できそうなことじゃん、覆面だし……なのにあっちの方がホンモノだとか思うか普通? あっちは単独の活動なのが大きいんでしょう、あなたはソロとして名が知られてたわけだし。あたしもそうだったわけっすよ。正直、あたし自分がメンバーとして参加してなかったら、キュウゾウがミュージシャンとクルー組んで活動はじめたって聞いたら、えーって思うかもしんないす。なんでえ……? やっぱ謎めいた孤高のリリシストってイメージだったすもん。ああ、世間的にはそっちのイメージが基準なのか……こっちが前進してるだけなのに……ちくしょー過去のイメージにしがみつく奴らばっかかこの世紀は……そりゃスターウォーズもあんな感じになるわ……

 そういう経緯でね、今回の日本代表決定戦は、どうも「93キュウゾウ VS 93キュウゾウ」って図式になってるらしいから。え。あたしらさっき中部代表のひとらにイヤミ言われたんすよ、「お前らの茶番に付き合わされる身にもなれ」「ステマ乙」って。なんだそれ。気持ちは解らないでもないでしょう、もし自分が勝ち上がったコンペティションの決勝が、フェアな審査とは別の二者の話題で持ち切りだったとしたら、そりゃうんざりするでしょう。うんざりしてるのはこっちだっての!! くっそもう無理だわ、カチコミ行ってくるわ。どこに。そのニセキュウゾウの楽屋に。あたしらもさっき見たすけどだめでしたよ、取材のひとらもいっぱい来てたすけど、あっちはパフォーマンスまで外に出る気ないみたいっす。そんなん丸太とか打ち込んで突破してやるわ。どこに丸太があるの。あれだよ、なんか場内のイントレ解体して鉄骨とか持ってくるよ、こちとら設営現場で働いてんだ。何を血迷ってるんだか、落ち着きなさいって、こうなった以上はもう仕方ない。なにが仕方ないんだよー。決着はパフォーマンスでつけるしかないでしょう、とっておきの新曲も持ってきたわけだし。それで単なるコピー相手にけたとしても、そういうものだと思うしかない。そういうものって何。そもそも音楽で勝敗を決めること自体がおかしい、と。今更それかよ……あるいは音楽にニセモノとホンモノの区別があること自体がおかしい、と。いや、それはおかしいだろ! オリジナルよりコピーが優れてるとか絶対ナシだろ。でも音楽史的にはよくあるでしょう、贋作の方が人口に膾炙する、みたいなこと。ああ、まあ……クロード・フランソワよりもシナトラのほうが有名だもんな。そう。メタリカの『Enter Sandman』のリフも、あれパクリだもんな。アメリカのポップスをパクったジョージ・ハリスンの『My Sweet Lord』がオアシスにパクられて『Supersonic』になる、みたいなこともあるしね。なんかそれドン・キホーテみたいじゃん、鏡の騎士じゃん。そうだね、そしてドン・キホーテって確かあの騎士にけたあと……やめろってのーもう、縁起でもない! くそーはかる開会まであとどんくらい。九〇分かな、例によって出順でじゅんは開会してから決まるけど。ちょっとわたしひとりになっていいかな、頭痛くなってきた。大丈夫すか? この前みたいな具合じゃないから気にしなくていい、けど、なんか頭ん中ぐちゃぐちゃだからさ……ひとりで静かにしてたい、ごめんだけど。いいよ。じゃイリチ、私たちは開会まで出ときましょうか。はい。ごめんねなんか。全然いいすよ、あねえさん今日のケータリングは出前らしいんで、その棚のメニューで注文していいらしいっす。おっけーありがと。じゃ、今日イリチは私のおごりかな。いいんすか! たまには年長者らしいことさせなさい。ちょっと歩くけど、自家製パンのランチやってる店があるから。おーしゃれてるっすー! じゃあねえさん、時間までには戻ってくるすから。ういーいってらっしゃいー。


 ばたん。と、急に無言になるのはよくないな。なんかかけようかな。いやBluetoothスピーカー持ってきてないし、自分で静かにしてたいって言ったくせに。出前頼むか。何があるんだろ、ピザか。きゅうぞうと同棲してた頃はピザクックばっかだったなー。なに頼んだらいいかわかんないな、適当でいいか。アルコールも一緒に頼めるかな。ないな。あっドリンクの注文は別の業者か。おっワインある、本番前だけどいいかな。いーよもう、気付きつけ薬だ。備え付けのタブレットでご注文をって、これでやればいいのか。

 

 あいーこっちで。どうも。あー個室で寝そべってピザって、すげーヒップホップぽい。スタジオじゃなくて楽屋だけど。赤いプラスチックカップもあれば完璧だったんだけどな、まあいいや。うわなんだこれ、全っ然薄いじゃん。全国チェーンの宅配ピザってこんなもんかい、だらしねえなー。まったく増税しやがるわ食べもんのサイズも小さくしやがるわ、全部自民党が悪い。一刻も早く日本の総人口の七割を移民で占めさせるべきである。そしてすべからく移民に選挙権を与えるべきである。「すべからく」を正しく使うことすらできないやつは日本人ではない。日本語もろくに読み書きできない日本人は日本から出ていけ。どう考えても次の日本語の担い手は移民しかいない。そして現状トップクラスの日本語のつかい手がインダハウス。俺の芝生が一番青い。改正開始で一球三振。あーもう酒が回ると余計な連想ばっかになるなー。それもこれも全部あのニセモノが悪い。わたしの過去のイミテーションなんかにけてたまるか、かもーん、かもーんのーわんきゃんしーゆーくらーいあいあいあいあいあーい、こちとら何度も何度も脱皮して生き延びてきたんだ。ズルムケのウロボロスだ。UROBOROS THE MCだ。ふつうにいい名前だなこれ。未来は俺等の手の中。未来は俺等の手の中。ピザがいま胃の中。『世界は僕の足の下』っていうSMAPの曲あるけど、あれBOSSのより先に出てるんだよなー。ヤっバいよなあの歌詞。誕生日が来る親友にも会うって日常の歌詞なのに、いきなり二番のBメロで呪いみたいな言葉が出てくるんだよな。只野菜摘が英語直訳調の詞を書くときは大抵ヤバい。いやでもわたしのがヤバい。俺の芝生が一番青い。親御さん真っ青。他所じゃ聴けん青の専売特許。ていうボーストが引用なの自体どうなのか。初七日しょなのか。新譜の『Twilight』ほんと喰らったなー。もしわたしが本当に死んでたら、はかるもあんな詞書いたのかな。書かないか。無意味な仮定だ。起こらなかったから起こってないんだ。世界は現状で最善です、って言えたライプニッツのほうがヴォルテールより根性あると思う。これが最善の上限なのでこれ以下のことばかりが起こります。肝が据わってるな。二宮尊徳イズムだな、天道が畜生道。スリップノットよりよっぽど過激だ。人間はクソである人間はクソである別にそれでもいいけど、クソっぽい存在がそれでも人間であってしまう驚きがあるじゃないか。そこんとこにちゃんとビビれてないからダメだよな。いや好きだよコリィ・テイラー。名曲だよ『Song #3』。スリップノットも三枚目と四枚目は良いと思うよ。「お前が五五五なら俺は六六六」、でもマグニチュードは七以上でした。地震ごときで動揺してどうする、揺れてるんだからそりゃ揺れるだろう。アングロサクソンはやっぱ呑気だ。そしてこんなゆらゆら帝国で事故起こしておきながらまだ原子力マネーいけると思ってるこの国はもっと呑気だ。なんの話だっけ。そうだワインだ。なんをずっと淮陰わいいんだと思ってたことをここに告白いたします。正直者で関心である。韓信だけに。それにしても淮陰わいいん|って字の淫猥いんわいさはすごい。股くぐりだけに。しょうまいを妹だと思い込むほどの想像力はさすがにありません。ばつだし。でもたくんでもいいし夏侯惇かこうじゅんでもいいわけです。加工豚かこうとん。身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり。そりゃまあ中国ではそうでしょうけども、自分の眼球を喰らうのはイスラーム的にはどうなんだろうか。どうでもいいか。父母も神の被造物なんだから、そっから産まれた自分が自分の身体を喰ってもどうでもいいか。だから原父殺害みたいにカニバになんか特別の意味を持たせる思考の罠からも逃れられるわけか。イスラームってやっぱ頭いいな。こういうの、もっとに訊けばよかったな。あ、けっきょくドゥさんにのこと訊けてないや。もしかしたら来てたりして、今日。




 すごいな、本当に話せるんだ。まあね。全然わかんなかったよわたし、エイリアン語みたいだったよ聞いてて。ポーランド語なんてどういうきっかけで話せるようになんの。んー、まえに低地ドイツ語を勉強したとき、ついでに覚えた。ついでにできるものなのかよ。

 で、何話してたのあの人らと。いまわたしが作らせてるものが完成したら、真っ先に提供するようにって。金に糸目はつけないってさ。あの自動翻訳機とかいう? 機械ではないけど、まあそういったもの。すごいねー、かくめいそしきのいちいんだね。わたしは新共産主義者なんてどうだっていいんだけどね。そうなの、なんか思想がつながってて協力してるんじゃないの。まさか。ああいう人たちと話してるとほんとにがっかりするよ、いまだに経済economyを一八世紀以降の意味に限定しちゃってるんだもん。もし本当に共産主義革命を起こしたいんだったらね、最低でもトマス・アクィナスまで遡って鍛え直さないと無理だよ。共産主義とアクィナスってなにその組み合わせ。肝心のことだよ、そもそも資本制に抗おうとした共産党がキリスト教を切り離した時点で、まったくお話にならない。わたしたちがやってることだって経済にまつわるんだよ。重商主義なんかに意味が限定される前の、もっと広義の経済のね。ぴんとこないなー。今はまだこなくていいよ。

 とりあえず、とうぶんは金の心配いらないね。ええ、この国にはもうひとつ用事があるけどね。なんだっけ、ガリツィア地方? この辺の地理わかんないけど。そう、南のほうのウクライナ国境。そこに何しにいくの。わかりやすく言えば、装置の点検かな。点検? うん、どの程度修理が必要でどの程度使い物になるか。でもその装置って本のことでしょ。そうだよ。本が装置、っていうのが、いまだによくわかんないんだよなー。言葉の通りだよ。本、というか「書物」ほどよく組み立てられた装置はないでしょ。で、その「書物」ってのも、単に紙の束をまとめたものじゃないんでしょ。もちろん。なんだかの言葉の遣いかたが独特すぎてさー。じゃあ復習しようか。まず、この世界には「書物」はひとつしかない。それはいいね? いやよくない、そこからわかんない。当然のことだよ、だって「書物」は世界だから。定義上そうなんだから。の中ではね。でも、この世には「書物」以外の本もいっぱいあるでしょ。あるけど、それはまあ、劣化した複写版と言い切ってしまっていいかな。人類が書字文化を発達させてすぐに本は──巻物や粘土板も含めて──たくさんあった。でもそれらはすべて取るに値しない出来損ない。ギルガメッシュ叙事詩もアヴェスターもガリア戦記も史記も、もちろんあなたの国の記紀もね。なんで。だってそれは、この世界に存在したものを、そのまま書き記したものだから。歴史を、祭儀を、偉人伝を、ただそこにあったままを伝えるためのものだから。それじゃだめなの。だめにきまってるでしょ。さっき「書物」は世界だって言ったよね。世界に存在したもの、するもの、するであろうものは既に「書物」に書かれてる。既に書かれてるものをまた書き直してどうするの。そんなことしたって劣化した複写版しか生まれようがない。なんかボルヘスがそんな小説書いてたよな。『ピエール・メナール』ね。でもあれだって、既にセルバンテスの『ドン・キホーテ』の中で伝記が流通して作者まで出てきて私が書いたんじゃありませんアラビア語の本を翻訳しただけですってところまでいってるのに、いまさらその本の作者が別にいましたなんて何も面白くないよね。ボルヘスってやっぱり、もったいぶってかしこぶってるくせに肝心のところで間が抜けてると思う。そんなことしてもしょうがない。ただ世界に存在したものを記録するでもなく、これはフィクションですからなんてつまらない逃げを打つでもない、別の書き方をしなきゃいけない。そんな本はすくなくとも七世紀までは存在しなかった。ムハンマド──彼の上に平穏あれ──が『クルアーン』を授かるまでは。それムスリムが使うやつでしょ、ムスリムじゃないのになんでなの。尊敬してるからに決まってるでしょ。彼があの本の母umm al-kitābを授かるまでは、人類の言葉は「書物」の周りをかすめるだけだったんだから。でも、ムハンマド──彼の上に平穏あれ──は作者として『クルアーン』を著したわけじゃない。天使を介して神の言葉を授かったにすぎないし、彼自身も「自分は預言者であって断じて詩人ではない」と謙虚さを保った。さて、人類の書字文化がはじまって『クルアーン』を授かるまでに三八〇〇年ほどかかったわけだけど、次に最も「書物」に接近した本、それも誰かが作者として著したものを授かるにはさらに一三〇〇年ほど待たなきゃいけなかった。さて、その表紙に署名されていた名前は? ジェイムス・ジョイスでしょ。そう。彼が『肖像』と『ダブリナーズ』を経て到達した『ユリシーズ』で、ついに人類の小説は最初の成功者を持つことができた。「書物」に最も近い形で書くという無謀な試み、そもそも凡庸な作者はその要請自体感じることができない試みの。さらに人類は幸運なことに、次の成功者を二〇年も待たずに迎えることができた。誰。ブルーノ・シュルツ。かつてポーランドに生きていた画家であり小説家。彼の「書物」への接近のしかたはジョイスと同じようで違う。ジョイスはギリシア神話の構造を基底にして市井の人々を書いたけど、シュルツは「書物」そのものについて書いた。なんて無謀で果敢な試みなんだろう、考えるだけで目眩がするよ。シュルツは隠された「書物」こそが本物であり、他の全ての本は贋作であることを見抜いていた。曰く、「すべての本は〈本物〉となることを目ざす、実は、本は借りものの生命を生きているにすぎない。飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく。だからこそ、本は減少し、そして〈本物〉は増大する」。なんか、どっかで聞いたことあるような……あれかな、『神曲』かな。そう。「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」って、まんま天国篇じゃんね。そしてには前にも説明したけど、『神曲』での昇天はムハンマド──彼の上に平穏あれ──の昇天伝説を記した『ミーラージュ』と全く同じ。そっか、シュルツとムハンマドがダンテを介してつながるのか。そもそもムハンマドがしたのは本を授かることだったし、じゃあシュルツの言う〈本物〉ってのも……そう、ムハンマド──彼の上に平穏あれ──が受胎した本の母umm al-kitābと同じ意味。そしてシュルツの「書物」は、小説の伝えるところによれば古雑誌や広告の挿絵によって構成されている。彼の日常にあったはずのありふれた紙片によって。それって──そう。織り上げられた平々凡々な風景が神話になる、ジョイスの方法論とまったく同じ。ということは、どうなる? シュルツとジョイスとムハンマド、この三人は全く同じ仕事に取り組んでた、ってこと。人間の言葉を使って「書物」に接近するっていう。そういうこと。、こんなに美しい三位一体があるかな。この三人はそれぞれユダヤ人、アイルランド人、アラブ人。でも、シュルツはカトリック国家のポーランドに生まれたユダヤ人だし、ジョイスは祖国の信教を相手にせず放浪を続けたし、そしてムハンマド──彼の上に平穏あれ──はジャーヒリーヤ時代のアラブにおいては迫害の対象でしかなかった。彼ら三人は、それぞれ生まれついた世界の内部において余所よそものだった。そんな三人の仕事によってユダヤとキリストとイスラームが三位一体を成す、これほど美しいものって他にあるかな。しかもムハンマドからジョイス経てシュルツって、一神教の成立順序でいえば逆さだもんな。ふふっ、そうだね。でも驚くことでもない、起源なんてものは時系列と関係ないんだから。えっ。ないよ。いま挙げた三人は、それぞれがそれぞれのしたことを反復している。そして、反復は時間の順序とは関係がない。そうなの。もちろん、さっき全ては既に「書物」に書かれてるって言ったでしょ。えっでも、ページの前後くらいの違いはあるでしょ。無いね。無いの? えっだったらさ、えと、ジョイスのお母さんお父さんはいるわけじゃん、でその人たちはどう考えてもムハンマドより後に生まれてるじゃん。そうだね。じゃあ時間の順序は関係あるでしょ。無い。多分、いまは別の時間について語ってるんだよ。えっ。この世でクロノジカルに流れてる、直線の、計測可能な時間は、「書物」の時間とは何も関係がない。は音楽に詳しいでしょ。リズムと拍の違い、って言えばわかりやすいんじゃないかな。あっそうか、そういうことか。「書物」はジョイスやシュルツなしでも存在するけど、ジョイスやシュルツは「書物」なしには存在しない。なぜなら「書物」は世界だから。そして彼らが書いた素晴らしい本は、人類の言葉で書かれた中で最も「書物」に近づくことができた〈本物〉だけど、それでさえ「書物」の中に含まれる。さっきわたしが劣化した複写版と言った本たちは、言わば拍の時間に囚われになってリズムの時間を取り逃がしたもの、と言えるんじゃないかな。あー……わかった、やっとわかったよ。は、そもそもこの世界で起こってることを、ひとつの流れとして見てないってことか。当たり前だよ。当たり前ではないと思うよ。そうかな、ただ時間の流れが異なるだけだよ。たとえばにはのお母さんお父さんがいる、わたしにもいる。でもね、わたしやが「書物」のために仕事をすることができたら、この世であなたやわたしの係累とされている物事なんて、何の関係もなくなる。えっ? そりゃそうだよ、シュルツの言い方を借りれば、「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」んだから。そこまで行くことができれば、もうやわたしが繋がっていたものとは関係がなくなる。親とも、友達とも、恋人とも? そうだね。


 関係なくなる。

 って、どういうことだろう。だからわたしは訊いたんだ、その訊き方が正しかったかどうかはわからないけど。

 あのさ、ソクラテスの──いや、プラトンが記述したソクラテスの、か──有名な言い方があるじゃん、人間に関するものの存在を認めても人間の存在は認めない、馬の存在は認めないけど馬に関するものの存在は認める、笛吹きの存在は認めないけど笛吹きに関するものの存在は認める、そんな人間はいないだろうって。これ、から言わせれば間違ってるの。完全に間違ってるね。言い切った。言い切ったんだ、は。笛吹きに関するものの前には笛吹きがあって、笛吹きの前にはたとえば笛吹きの父母と楽器職人がいて……というふうに、ものごとの存在にはそれぞれ異なる因果があるって言いたかったんだろうね、ソクラテスは。違うの。違うよ。クルミの種が実の中で転げるような声で笑っていた。笛吹きをつくったのはその父母? 笛をつくったのは楽器職人? 違うよね、全然違う。なんで? えと、最初から「笛吹き」として存在してるから、他のものとは関係なく在るってこと? それも違う。どういうことお。すごく簡単なことなんだよ、。ざゃり、と舗道をにじる音とともに足が留まり、こちらの双眸そうぼうを覗き込んでいた。

 笛は笛吹きの父母と関係なしに在る。笛吹きは楽器職人と関係なしに在る。でも、笛も笛吹きもその父母も楽器職人も、これなしには存在し得なかった、ってものがあるでしょ? なに。わからない? わかんないよ。

 沈黙。

 これだよ、。えっ? これ。どれ。目の前の微笑みがまたもだす。わからない、何を言いたかったんだろうは。言おうとしても謂えなかったのかな。あるいは、ただわたしに聞こえてなかっただけ。ねえ。なに。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。


 おー、これがバルト海。そうだね、グダニスク湾。いちど来てみたかったんだ。来てみたかったんだって、観光気分かよ。ふふっ、。なに。できるだけ、こういうのを、たくさん持っておいてね。こういうのってなに、好きな人との幸せな思い出、みたいな? そう。あはは、なーんからしくないなー。わたしはずっと同じことを言ってるはずだよ、愛について。もしわたしたちが「書物」に近づくことができたら、思い出もすべて関係なくなっちゃうから。まーた変なこと言ってるー。でもね、こういうものがあなたを〈本物〉へ近付ける助けをするはず。だからたくさん持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、この思い出は残る。また順序が逆だ。わたしがとここに来たからこの思い出が在る、でしょ、と言ったところで、違うって言うつもりでしょ。そうだね。もーわけわかんないなー。これも簡単なことだよ。、問題。「犬から骨を引いたら何が残るでしょう」。なにそれ……肉? 正解は、「犬のがまんが残る」。なにそれ。赤の女王が言ってた。犬から骨を引いたら、犬はがまんをなくして、どこかへ行ってしまって、それで犬のがまんが残る。今日のはわけわかんなさの百貨店だなー。わたしたちはさっきからずっと同じことについて話してるんだよ。西脇順三郎の詩に、こういう一節があったでしょ。「すべてが残される/すべてがのこ……こらない/でも吃るキノコが残る/どじようの眼の光りが残る」……これはかなりのところまで謂えてるよ。何を。この世界には別の時空が同時に存在する、ってことを。そうかなあ、犬のがまんが残る、吃るキノコが残る、どじようの眼の光が、うーん……どもるきのこがのこる……より精確には、キノコの吃りが吃るキノコを残す、ってことかもね。吃りはもともとキノコのものだったのに? そう、一度いなくなってそれきりの流れもある、でもいなくなったものが時間とは関係なしに帰ってくる流れもある。それはたとえば……チェスと将棋の違い。「偉大なチェスをやってるんだわ──世界じゅう総がかりの──これが世界だとしたらね。まあ、おもしろい! わたしも仲間入りしたいわ! 仲間入りさえできたら、だってかまわないわ」。なにそれ。『鏡の国のアリス』の、あまり感心できない日本語訳。原文の “Pawn” を「歩」って訳したんだね。責めるべきことでもないけど、意味が違っちゃってる。だって将棋とチェスは真逆の競技でしょ。いやールール知らないからな。チェスでは、駒はとられたら即刻退場で、同じゲーム内で再び使われることはない。でも将棋では、とった駒を自分のものとして使える。つまりチェスは減算のみだけど将棋には加減両方がある。あっそうか。これはわたしが考えたことじゃないよ、キャロルやジョイスの翻訳者がエッセイで書いてたこと。えっと、柳瀬さん?『フィネガン』の全訳した人でしょ? そう。ベケットの『エンドゲーム』はある意味で『フィネガンズ・ウェイク』と相補関係にある。前者は最後の減算が尽きても何度でもゲームに戻ることができる、チェス盤の永劫。後者は殺し殺された者たちが何度でも召喚されてひっくりかえって揉み合う、将棋盤の永劫。そっか、駒の扱いが違うのか……扱いっていうか、運動がね。運動? さっき言ったでしょ、キノコが吃る流れと、吃りが吃るキノコを残す流れ。行き先は同じで、行き方が違うだけ。たとえ数が減っても増えてもね。減っても増えても……かあ。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。


 ねえ、

 と、また唐突に、いちもんにこちらの眼を見据えていた。

 愛してる。

 数秒待ったが、さらに言葉を継ぐつもりはないらしかった。うん、愛してるよ、わたしも。ちがうよ。えっ。微笑みながら小さく首を振っていた。わたしが、あなたを、愛してるんじゃない。

 沈黙。

 愛してる。また同じ言葉。えっと、何なのそれ。わたしに言ってるんじゃない、んでしょ。は相変わらず微笑むばかりで。そうだよって言ってもちがうって言っても、どっちも外れちゃうね。でもこれはね、何も間違ってないんだよ。なにがだよ、なんの話だよ。

 愛してる。

 沈黙。

 、ねえそれ、からかってるの。まさか、わたしはいつも真面目だよ。だってわけわかんないもん、誰が誰を愛してるんだか。そう。えっ。近付いてるよ、。いいところまで来てる。どういう意味だったんだろう、ああして向き合っていても全く話が通じていなかった。向き合って……?

 ねえ。なに。いつか言ってたよね、verseはそもそも対向vertereって言葉に由来するって。詞をページの端から端まで書いて、また次の行に移る、そうして次々とうねを作っていくからヴァース。ヴァーサス、対向するって意味を含んでいるって。そうだよ。じゃあ、さ。最初の詞があるじゃん、神は「光あれ」と言われた。すると光があった。創世記ね。そのあと人間をつくるじゃん、えっと似姿に……なんだっけ。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。それ。「われわれのかたちに、われわれにかたどって」ってさ、じゃあ神はさ、人間をつくる前に自分の姿を知ってたってことだよね。そうだよ。なんで。鏡を見たから。えっ。もちろん物質的な意味での鏡じゃないよ、って、たしかこの話は前にもしたよね。したっけ。愛しあってる最中に。なんだよもーそんなん憶えてるわけないじゃん。ふふっ、でも簡単なことだよ。さっき言ってた「光あれ」は創世記の第一章三節。その前の二節は? えっ。「はじめに神は天と地とを創造された」、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。あっ、「光あれ」の前にすでに世界はあったのか、「光あれ」でつくったわけじゃないのか。でもそれさ、「初めに言があった」ってあれと矛盾しない? するよ。ヨハネ福音書はキリスト教文献だから、成立時期から考えても旧約聖書と喰い違ってても仕方ない。だよね。じゃあ旧約聖書の時点では、世界って言葉ではじめられたわけじゃないのか。そう、「神の霊が水のおもてをおおっていた」。世界に水が存在するということは、言葉よりも先に神の外、鏡があったってこと。詞よりも前に鏡があった……じゃあ、「光あれ」って詞は神が鏡に対向して生まれたもの、ってことになるよね。もちろん。じゃあさ、なんで神は、そもそも、自分の姿が映る鏡なんてものを、必要としなきゃいけなかったの。

 沈黙。

 よく、ここまで来れたね。えっ。思ったよりも、ずっと早かった。まさか、あなたがこんなに早く来てくれるなんて。なにどういうこと、いま言ったのだって殆どははかるからの聞きかじりだよ。はかるさん……うん、やっぱりは持ってるね。なにを? 資質。〈本物〉を授かるための、「書物」に近づくための。もしかしたら、わたしはを試さなきゃいけなくなる、かもね──えっ。

 じゃあ、特別に教えてあげる。の後景の、グダニスク湾の水面が、一一月の痩せた日差しを受けて微睡んでいた。なぜ、神は鏡を必要としたか。これだよ、。あのときのの顔を、ちゃんと思い出せるだろうか。そのときまでは一度も見たことがなかった、眷愛けんあい哀寂あいじゃくの念が入り混じったような、一度も向けられたことがなかった、あのおもて

 互いのひたいを突き合わせて、ふうっ、と溜息ひとつ。

 それだけだった。




 そこでケストリッツァーとかエルディンガーとか飲めたんだけど、ついこのあいだ閉店しちゃってね。あちゃー残念すね。あれでしょ、輪っかのプレッツェルとか出る感じの。あるね。フォルクスワーゲンのハンドルみたいなやつっしょー? 輪っかのやついーなあ、あたしプレッツェルったらプリッツしか知らないす、まっすぐなやつしかー。やけに形にこだわるね。だってホンモノ知らなきゃだめじゃないすかー、だってあたしも、沖縄のもずく喰ったこともないのにもずく語ってるやついたら、すげえむかつきますもん。もずく語るって何。え、はかるん沖縄のもずく喰ったことないすか? じゃあこんど贈るすよ、あの味知ったらスーパーのやつとか戻れないすよ! ふふっ、ありがと。それはいいんだけどね、ふふ。え、なんすか。もずくを語る、って状況に、ふふっ、今まで居合わせたことがなかったから、その、ふふっ。えなんすか、ツボに入ったすかー? いや、ふふ、そういうのじゃないけど、もず、っぶ、もずく、もずくを語るって、そん、ふ、ふふ。めっちゃ笑うじゃないすかー! そんな面白かったすかー? ごめ、ただ、もず、ぶふっ。えーだって長崎のひともこだわりあるでしょー、なんかあの、風車とかー。長崎といえば風車なの。あごめんっす、冒涜っぽいすか? いや仕方ないよ、長崎=ハウステンボスってイメージは、どうしても。でも長崎=風車っていうのはドン・キホーテ=風車と同じくらい安直な連想であってね……はかるんその話は後でしましょ。あ、そうだね、もうちょうど開演時刻。あーついに決勝すねー、気合い入れなきゃあー。どうもねえさん戻ったっすー。

 うん。なに、随分だらしないこと。あピザ残ってる、もらっていいすか? いいよ。ワインまでけたの……別に構わないけど、本番には支障が出ないように──あのさはかる。やけに神妙な声色。何。やっぱ──じゃないかな仕組んだのこれ全部。語順がめちゃくちゃなのは酔いのせいだろうか。仕組んだって何。わたしらさ、九州北部予選でANDYOURSONGと当たって、九州大会で知念さんと当たってさ──わかるだろこれ、共通点あるだろ。いや、ないでしょう。ある。どっちも93キュウゾウメンバーの知り合いだってこと。はあ、それが何。よく考えてみろよ、安影やすかげズはわたしが中学生の頃の、知念さんは漁火ちゃんが高校生の頃の。予選でも九州大会でも、なぜかわたしらとゆかりのある相手と当たってるだろ。直接勝負したのは予選だけで、知念さんとは対戦したわけじゃないでしょう。でもさすがにおかしくないか、二回もこんなことが続くっておかしくないか。ふつうの確率でいけば、まったく見ず知らずの相手と当たるはずだろ。あのね、なぜこうなってなぜこうならなかったか、そんな問いの立て方に対する答えなんて一つしかない。こうなったからだよ。そうなったのはが仕組んだからだよ。一体どういう筋道を通ってその結論に達したか知らないけど、あなたちょっと酔いすぎだよ。ミネラルウォーターでも頼もうか、今のうちに利尿してアルコール出してくれないと本番に──真面目に聞けよ!

 不真面目な論旨を真面目に聞けというのは、何やら陰謀論に付き合わされるのと同じ惨めさがある。真面目じゃないのはあなただよ、というか、まともじゃない。なにが。今までの全てをと結びつけようとすることが。なにがおかしいんだよ、だって最初にドゥさんに会ったとき言っただろ、あの人の思想がに似過ぎてるって。それはそうだけど、とにかく個物を全体に広げすぎ。だって、だってさ──子どもの駄々のような言い草が苛立たしくないと言えば嘘になるが、瞬間、突然の黙考に沈んだは、妙に落ち着いた口ぶりで話しはじめた。

 だって、言ってたんだよ、別れる直前に。何て。「わたしはを試さなきゃいけなくなる」って。だから置き去りにした、ってこと。ちがうよ。いやちがわないけど、あの日から今日までが全部だったんだよ。全部が何……さっきから構文がおかしいよ。今日の舞台を準備するためだったんだよ、がわたしを試すための。そのために世界規模のイベント開催して、あなたがラッパーとして成長するのを待って、わざわざシンガポールの会社まで巻き込んで、対戦相手まで全部お膳立てして、そして最後の試練としてニセキュウゾウまで用意したってわけ。そう。頭おかしいよ。よく考えてみろよ、SoundCloud停まったんだぞ、急に昨日の夜中。それもの仕業ってわけ。そう、今日あのニセキュウゾウと勝負させるなら、事前にわたしの過去の形跡を消去しとく必要があったんだよ、そう考えれば全部つじつまが合う。本当にそう考えてるんだとしたら、あなたはもう私の知ってるじゃない。これ以上言い募るのはやめて。

 あのー、とイリチが後方から。何。話の途中すんませんけど、出順が決まったみたいっす。運営からの連絡でも来ていたのか、くだらない話に付き合わされて気づかなかったが──わたしらは。と、隣につけたが手元の紙片を覗き込む。二番目──関東代表の次、だね。ニセキュウゾウの! ほらそうじゃん! やっぱじゃん! この決勝自体、わたしを試すためのだよ。、いいかげんにして。だってそうだろ、ド頭に対戦カードぶっこんでくるってことはさ! もしね、私があなたを試してるの立場だったとしたら、冒頭じゃなく大トリに配置するな。そしたらあなたへの試練がイベントのクライマックスになるでしょう。それ運営基準の判断じゃんよ、他の奴らはどうでもいいから冒頭でいいんだよ。あなたが自分のことしか考えてないだけでしょう。わたしじゃなくてがだよ! と見るも無残な丁々発止が、あのー、もうスタンバイしなきゃっすよ。との、やけに他人行儀な声で制される。なぜ歳下に気を遣わせなきゃいけないのか。ですって。行くぞ。決然として歩き出すの背中が、勇壮にでも見えてくれたらいいのだが、やはり滑稽味を帯びることが免れない。大丈夫すか。相当参ってるね。なんかおつかれっす。私がじゃない、がだよ。さんへの想いが強すぎて、ってことなんすかね? なんてことない、ただの誇大妄想、というか関係妄想。でも、これでねえさんのパフォーマンスに火ぃ着いたらいいっすねー! はあ……まあ、ただ酒が抜けてないせいだと信じましょうか。


 


 やるよ。。これがあんたの仕組んだことなら。わたしが本当に、本当に進むことができるかを試すために、ここまで導いてくれたんだとしたら。

 勝つよ。わたしは今までのわたしを乗り越える。

 そして、あんたのところまで行く。こっちから行ってやる。




 さあ一番手はー、関東地区代表! あまりに多くの謎に包まれたリリシストがー、今日ついに、神秘のヴェールを脱ぐ!

 キュウゾーウ!


 うわ、この曲か。ちょうど一年前に作ったやつだな。ファンクネスには欠けるけど、まあかっこいいよな、わたしのトラックだし。おお、観客、こんな細かい歌詞まで覚えてくれてるのか。わたしが部屋で一人で録ってたときは、こんなの想像もしてなかったな。でもあのニセキュウゾウ、観客がレスポンス返してくれてる割には煽んないのな。今のとこは客席にマイク向けていいくらいだろ。ああ、うん、まあ、やっぱ良いな。一年前のレベルだとしても、わたしだしな。

 どう? えっ。あのキュウゾウのお手前は。ヘタではないよな、まあよく似せてきたなって。もしかしたら、あのヘルメットを取ったら本人がいたりしてね。それはないよ。えっ、そこは冷静なの。それだけはありえないよ、が直接乗り込んでくるなんて。わたしがあの刺客を倒す姿をどこかで見てる、ならそうだよ。はあ、まだそんなこと……あっ、終わった。おー大喝采。まあわたしだしな……さあ、次は私たちの番。準備するよ。おう、わかっ……えっ。なんだ。なんの騒ぎだ。


 え、うわ。ヘルメット、外しやがった。


 割れんばかりの歓声がドームに反響する。あいつ、本当にこのステージで正体を見せるつもりだったのか。カメラのズームアップ映像がバックスクリーンに映し出される。ついに顔を曝け出した、その姿。


 え、誰だ、あいつ。

 誰だ。ほんとに誰だ。なんか、が送り込んできたんなら西アジアっぽい顔とか想像してたけど、すげえそのへんのフェイスブックにいそうな……えっ何だこれ。はかる、あいつ知ってる? いや……全然。ちゃんとよく見ろよ、東京で作詞家やってた頃の関係者じゃないの、色々と私怨買いそうなことやってるだろはかるは。人聞きの悪い……ほんとに知らないよ、あんな小娘。イリチ、も知ってるわけないか。はい、なんつうか……すごい、ふつうのひとっすね。

 わっつぁーっぷ、と、上ずった語尾がPA装置から伝達される。観客はまたしても大歓声で応える。えいよーとーきょーわっつぁっぷちょうしどう、ついにすがたあらわしたりあるきゅうぞう、にほんじゅうおれにやられたやつきゅうぞう、おまえらいっちょでかいこえでいえよほーおー。ほーおー。ほー、ほー。ほー、ほー。いえよほーほーほー。ほーほーほー。

 なにあれ。

 えぃよぅまさにあきらかになるこのいちにち、ださいにせものきゅうぞうのかおびちびち、みんなきづくことになるおれりあるしっ、き、っくするゔぁーすちょ、うやばすぎっ。

 なんだあれ。

 フリー……スタイ……ル? っすか? 本人はそのつもりなんでしょう。うまくはないっすね。ヘタって言っていいんだよ。でもお客さんすごいノってるすねー。まあ、幼稚なフリースタイル番組に慣れた客層からすれば、あれでもいいのかもね……キュウゾウがついに素顔を晒してラップした、って付加価値もあるでしょうし。

 ようかおみせてみろよにせものー、おれしってるおまえがふるえてるのー、もうしょうぶはついてるめにものー、みせたぜおれがりあるきゅうぞう、ぶらぁっ。

 あ、終わった。どうすかはかるん。「目にもの見せた」を二行に切ったあたりは良いなと思うけど、それくらいかな。あの声質で一人称「俺」はさすがにないでしょう、さらに言えばライムもフロウも未熟すぎ。やっぱそうすか、トラックに乗せてたときは気になんなかったんすけどね。ただのコピーにフリースタイルの技術は必要ないからね。あっ、なんか始まったっすよ。

 でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。

 え、煽りすかこれ。たぶん。ステージ出てきて、フリースタイルで勝負すれってことすか。たぶんね。うわー客も一緒になって煽ってるっすー。

 でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。




 ああ、ようやくわかった。やにわにヘルメットを脱いでフリースタイルらしきものを始めたせいで、ちょっと判断が遅れたけれど。今ようやくわかった、あのニセキュウゾウを見ていて去来するこの感情。

 可哀想。

 、もうその子にかまう必要はないよ。そんな価値は無い。あれは、とっても凡庸な、よくいるタイプ。自分が遣っている言葉の意味さえわかっていない、借り物だけで全部済ませてしまった子。なんの努力も鍛錬もなしに、なぞり書きだけで能書のうしょになったつもりの子。しかし現代的ではあるのかも。初期衝動と無軌道を一緒くたにしてしまった、型破りと形無しを履き違えてしまった、コピーとペースト以外の道具立てを何も持たない、可哀想な子だ。


 あ、ねえさん……ちょっと。ステージ袖から無言で歩き出す、その背中を引き留める。、行かなくていい。あなたの程度が落ちるだけだよ、あんな──振り向いたその顔は、厭悪に満ちていてもおかしくはなかったが、そこに浮かんでいたのは柔和な笑みだった。

 大丈夫。えっ、心配しなくていいよ、漁火ちゃんも。でもちょっとさ、行かなきゃだから。待ちなさい、決着は私たちで──いやだめだよ、そっちのがだめだよ。だってさ、と笑みを崩さずにステージのほうを指差す。あれのためにさ、とっておきの新曲やるなんてさ、もったいないじゃん。こんなところでお披露目したらあの曲が汚れるよ、だからやめよ。やめるって、棄権すか。まさか。にっこり、という形容が似つかわしい顔だった。わたしが、ひとりで行く。

 でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。

 すいませんマイク、手持ちでもらえますか。はい、予定してたセッティングは全部なしで、マイクだけでいいんで。それだけ。はい、どうも。

 でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。


 あ。行って、しまう。止めなくていいんすか。いや、もう……止めようがない。あのニセキュウゾウも、観客も、も。そうすか、あたしら行かなくていいんすか。がそうしたいのなら、行ったところで仕方ない。そう、すか。いやーでもあたし、ねえさんのあんな顔初めて見たっす、あんな顔で笑うんすねー。そうだね、そこそこ長い付き合いだけれど、私も見たことない。はかるんもすか! それとね、イリチ。はい? あれは多分、笑ってなかったよ。




 ーぞうー、ふぁっくなきゅうー……

 うおーっ!

 まさかほんとにでてきたぜ! えびばでぃ、いいかこれはふり、ふりーすたいるだあー、かちまけきめんのはおまえらだあー、かんきゃくのこえがでかかったほうのかちだぜー!

 うおーっ!

 ようようきゅうぞう、ついにあえたな。きょうここでしょうぶをつけようぜ、そしてわからせてやるぜおれがほんものだってこと、まずはせんこうこうこう……

 黙れ。

 ぅえっ?

 もういいから、黙れ。黙って聞け。とりあえず許す、お前が今やったことは許す。お前がなんか、自分の持ち時間も、それどころか大会のレギュレーションまで全部無視して好き勝手はじめたことも、とりあえずは許す。あとは全部わたしが片付けるから、もう黙って聞け。この悪ノリに付き合った観客のことも、とりあえずは責めない。ただ黙れ。静かにしてくれ、頼むから。


 沈黙。


 ビートなんか要らないし、韻を踏むつもりもない。ただ言葉だけだ。言葉だけでやる。

 わたしがキュウゾウだ。姓と名はりゅう。北九州市門司もじ区出身で、ラップ始めて二年くらいで、偶然バズった動画でなんか有名になっただけの女、だ。逃げも隠れもしない。ここに立ってる、このわたしがキュウゾウだ。

 で、そこのガキ。お前だ、お前。他に誰がいる。お前のパフォーマンス観ててわかったよ、よく勉強したな。たくさん練習したんだよな、わたしのスタイルに似せるために。ほんっと必死こいてわたしの真似してくれたんだな。すごいよ、褒めてやるよ。すごいよお前。何がすごいって、自分のものにならないものにそこまで夢中になれるってことが。わたしからすれば過去の遺物でしかないスタイルの模倣に、そこまで一生懸命になれたってことが。

 わかるよ。わたしだってそうだった。自分とは別のものになりたかった、だからキュウゾウを名乗ったんだ。書いてるうちに、唄ってるうちに、もう自分自身とは言えない別の何かが育ち始めたから。でも、お前は違うよな。同じようで違うよな。わたしは自分とは別のものになりたかった。でもお前は自分以外の誰かと同じものになりたがった。キュウゾウに。そのためには出来上がったもんのコピーさえしとけばよかった。きっと、お前はわたしよりもキュウゾウのことをよく知ってるんだろうな。


 じゃあ。

 キュウゾウになってしまったりゅうから、キュウゾウになりたくて仕方なかったお前に、訊きたいことがある。

 お前、そもそも音楽に救われたことはあるか?


 小学生の頃、親が仕事で使ってたテープレコーダーに自分の声を吹き込んで遊んだりとか、中学生の頃、好きなラッパーの違いで同級生と殴り合いの喧嘩したりとか、高校生の頃、友達に教えてもらった音楽理論を使って初めて作曲らしきことをしてみたりとか、そういう、お前の人生に音楽が寄り添っていた瞬間って、あるのか? 音楽に掴み掛かって、あるいは音楽に掴み掛かられて、ズタズタになってボコボコにされてそれでも音楽のおかげで救われたって、そんな瞬間、あるのか?


 わたしにはある。


 お前、あるのか? 友達に貸すために毎週学校にヒップホップのCD一〇枚ずつ持ってって、少しずつわたしの好きなもんを理解してくれるようになって嬉しかった、そんな経験は? 仕事先で知り合ったギタリストが、まさかわたしのつくった音楽を聴いてくれてるとは思わなくて、すげえ嬉しかったしびっくりした、そんなことは? 元カレの顔思い出すから長いこと避けてたアルバムが何年か経ってまともに聴けるようになってたことは? 一生一緒にいてもいいと思ってた恋人と行ったポーランドで、なんの前触れもなしに宿に置き去りにされて、どうしようもなくて警察の世話んなって強制送還なって、それでも生きてかなきゃならなくて気持ち紛らわそうと思ってぶらぶらしてたらデヴィッド・ギルモアの『Live in Gdańsk』ってアルバムが目に入って、その瞬間いろんなことがフラッシュバックしてTSUTAYAの床にゲロぶちまけたことは!? 死にたくて死にたくてしょうがなかった時期を思い出すのも無かったことにするのも厭だから思いつくことをノートにひたすら書いてたらそれがいつの間にかリリック帳になってた、そんな経験は!? お前にあるのか!?

 ねえだろ。ねえだろうよ。あるはずがねえよ。お前には何もない。ち当たった壁もない。ガタガタ震えて眠った夜もない。そして何より、お前は音楽に何も捧げてない。音楽から盗み取るばかりで、自分でつくったものを捧げる気もない。あるのは自己愛だけだ。それがお前だ。お前なんか音楽に値しない。救いも傷も足りてない!!


 いいかクソガキ。二度とは言わない。一回で聞き取れ。

 言いたいことは山ほどある。が、この一言で十分だ。

 キュウゾウからキュウゾウへ。この一言でお前を殺す。いいか。 

 音楽をナメるな。




 失禁、かな。カメラに抜かれてしまった以上は、もう、どうしようもない。あの子がにしたことに関して同情の余地はないけど、あんな至近距離で浴びせられるのは、嬲り殺しに近いだろう。客席は水を打ったように静まっているが、それでも中には歓声めいたものを上げている観客もいるのだから、本当に肝が据わっている。あるいは単にお気楽なだけか。

 泣かしちゃったすね。まあね。これって、ねえさんの勝ちってことになるんすか。さあ。ただ大会のレギュレーションを無視してバトル始めたのはあっちだから、運営に裁決でも仰ぐしか、

 

 ……じら……

 え。

 ……ぅ、じらぁ……

 まさか。


 ァァァめえェェェェェエエエエ!!

 何処にいんだボケがアアアアアアアアァ!! 

 つら見せろやクソがアアアアアアアアアアアアア!!

 見てんのわかってんだぞコラアアアアアアアアアアアアアァァァ!!


 まずい。

 何処だコラアアアアア、めえこのッ、ふッざけやがってクソがアアアアアアアアアァァァ!! 、それは駄目。全部お前のせいだボケが、人のこと好き放題おちょくりやがってコラァァアアァ!! 、もう退がるよ、それ以上は駄目。見てんだろ、見えてんだろオイ、コラ、何処にいやがんだ今ァ、おォもうこっちから行ってやるわ、隠れてねえで出てこいコラアァァァァァアアアアア!!


 あ。


 ステージ袖、なんだ、なにがあった。担架、担架おねがいします。おい、どうした、あのステージで横になってるやつか。ちがいます、下です。下? おい……どこに落ちた、撮影班? カメラドリーの上です。セキュリティ、起こせ。起こせるか。意識は? なに? おい頭動かすな、担架、上手かみてのイントレ下の通路から、はやく! なに? おい、救急車。はやく。


 


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