一章 4-1

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 高校の最寄りの駅から地下鉄で一駅の場所に、雪と壱矢の住んでいるマンションはある。一駅だけ地下鉄に乗るのも勿体ないし、場合によっては逆に時間がかかるので、通学は徒歩だ。

 マンションは二棟が同じ敷地内に建っており、建物が違う壱矢とはエントランスの前で分かれた。雪は譲を伴って五階にある自宅に向かう。

「こんな時間に行っていいのか?」

 気にするなと雪は片手を振った。

「うち今、親いないから」

「一人暮らし?」

「うん、まあ……」

 口うるさい三毛猫がいるので厳密には一人ではないのだが、そのことは飲み込んで雪は曖昧に首肯した。どうせすぐに譲も彼女と顔を合わせることになるのだ。

「家族は?」

「両親と、兄が二人いるけど……兄さんはどっちも東京」

 雪にはさくしょうという兄がいる。朔は社会人一年目、璋は大学三年で、雪とはやや年が離れている。

「父さんが急に実家に行くことになって、でも高校の途中で転校するのが嫌だったから、俺だけ残ったんだ。母さんは父さんについてった」

「ふうん? 随分信用されてんだな」

「そう……かなあ? まあ、期間限定だし」

 父も母も、玉藍がいるから安心だと言っていた。玉藍がいなくて雪一人だけだったら、父の実家がある長野に一緒に連れて行かれるか、どちらかの兄の家に預けられただろう。

「佐瀬は兄弟いんの?」

「いや、一人っ子。ちなみに、壱矢ん家は?」

「あいつのところは弟二人に妹二人。七人家族だ」

 さすがに驚いたようで、譲は目を丸くした。

「五人きょうだいの一番上なのか」

「そう。だから、変に面倒見がいいって言うか、世話を焼き慣れてるって言うか……あ、ここ」

 譲を呼び止め、雪は玄関の鍵を外した。扉を開けながら譲を促す。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 電気をつけると、奥から三毛猫が出てきた。しかし途中で譲の存在に気付いたらしく、玄関の隅に座る。

 鍵を閉めながら譲の様子を伺うと、彼は玉藍を不可解そうな表情で見下ろしていた。やはり見えているのだと確信し、雪は靴を脱ぎながら彼女に囁いた。

「今は出てるわけじゃないよな?」

 玉藍は雪を見上げてふるふるとかぶりを振った。三和土たたきに立ったままの譲は、玉藍の喉を撫でようとしたのか、手を差し伸べて言う。

「なんだ、やっぱり猫飼ってるんじゃん」

「いや、飼ってるわけじゃない」

 玉藍はペットではないので、雪はあまり深く考えずに返したのだが、それを聞いた譲は、何か取り返しのつかないことをしてしまったとでも言うふうに表情を強張らせた。ぱっと手を引っ込め、踵を返す。

「ごめん……やっぱり俺、帰る」

「え? あ、おい、待てって」

 雪は鍵を開けて出て行こうとする譲の肩を掴んで引き留める。触れた場所から震えが伝わってきて、雪は譲の顔を覗き込んだ。

「佐瀬?」

「なんでもない。なんでも……何も見えない」

 譲は殆ど怯えるような顔をして呪文のように唱えた。何故そうまで頑なに否定するのかわからず、胸中で首を捻りながら雪は言う。

「猫が見えるなら見えるでいいって。そのことで話が……」

「……なんで」

 遮って掠れ声で呟くと、譲は肩にある雪の手を乱暴に払った。雪に向き直って睨みつける。

「わざわざ家まで連れてきて、話ってこれか?」

「え? いや、そういうわけじゃ」

「たしかにこの間、変なこと言ったのは俺だ。けど、わざわざ蒸し返さなくてもいいだろ。俺の頭がおかしいのはわかってるから、放っといてくれ!」

 雪は咄嗟に言葉を返せなかった。固まっている雪から顔を背け、再びドアノブに手をかける譲の腕を、雪は慌てて引き戻した。振り解こうとする譲と引っ張り合いになる。

「待てってば」

「放せ!」

「頼むから話を聞いてくれ。佐瀬がおかしいなんて、俺は」

「うるさい、もういいだろ! ばらしたきゃばらせよ。妄想癖とか虚言癖とか陰口叩かれるのは慣れてんだ、脅迫しようってったって無駄だからな!」

「そ……」

 雪が反駁する前に動いたのは玉藍だった。どろん、と音でもしそうな勢いで、三毛猫から白拍子の衣装を纏った少女に姿を変える。そして、手にした扇を譲の鼻先に突きつけた。

「黙って聞いていれば、セツさまになんてこと言うのよ!」

「……は!?」

 目の前で起きたことに頭がついていかないのだろう、譲はたった今までの剣幕もどこへやら、ぽかんと口を開けて硬直する。頭を抱えそうになりながら、雪は玉藍の肩に片手を置いた。

「玉藍……いきなりそれはちょっと」

「でも、セツさま!」

「俺が悪い。最初にちゃんと話せば良かったんだ」

 譲が始業式の日からずっと気に病んでいたのかと思うと、後悔が胸を刺す。やはり、嘘を言うのではなかった。

 今はとにかく誤解を解かねばと後悔を後回しにして、雪は動かない譲の目の前で手をひらひらと振った。

「佐瀬。佐瀬、おーい。気を確かにー」

 完全に呆けた顔で玉藍を見ていた譲は、視線を雪に移した。

「……これが発狂ってやつか?」

「いや、だから、佐瀬がおかしいんじゃないんだってば。幻覚なんかじゃない」

「幻覚じゃないならなんなんだよ。どっから夢だったんだ、肝試しからか?」

「全部現実。よく言うだろ、事実は小説よりも奇なりって」

「奇妙にもほどがあるだろ! 化け猫なんて誰が信じるんだ!」

「わたしは猫又よ!」

「似たような……なんでもないです」

 玉藍に睨まれ、雪は場を和まそうと言いかけた言葉を取り消した。このままではらちがあかないので、事態の収拾を図る。

「この間のことは謝るよ。嘘ついて悪かった、ごめん」

「嘘?」

「図書館で会ったのは間違いなく俺だ。確かに変な手足がいたし、玉藍……三毛猫もいた」

 気を取り直したか、譲の表情にも険が戻った。胡乱なものでも見るように目をすがめる。

「……会ったのは事実だとしても、なんで鷹谷に俺の幻覚が見えるんだよ」

「幻覚じゃない。玉藍はちゃんといる。あの手足は、所謂幽霊ってやつだ。さっきの裏山で佐瀬の手首を掴んだ手も」

「はあ? 幽霊?」

 一転、譲は小馬鹿にしたような表情になった。

「何言ってんだ? 幽霊なんているわけないだろ。鷹谷ってそういうの信じるタイプだったのか。お化けとか妖怪とか」

 幽霊を明らかに視認していて、その上、目の前で玉藍の変化へんげを見ておいて、そっちこそ何を言っているのだと言い返したくなったが、雪は言葉を飲み込んだ。今なら話を聞いてくれそうなので、雪は家の中を示す。

「とにかく、ちゃんと説明するから上がれよ。腹減ってるだろ? よかったら夕飯を……あ、でも家に用意してある?」

 譲は雪と玉藍を見比べて迷うような表情になったが、やがてポケットからスマートフォンを取りだした。

「……家に電話してくる」

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