第7話 忘却

 

 霊脈が噴き出す真上に位置している鬼有里おにゆりちょうは繁栄を約束されていた。

 自然のエネルギーが満ち溢れ、生き物に活力が宿り、生命力を活性化させる。人々は無意識にそれを察知し、こうして街を作り上げた。


 この鬼有里町は羅刹らせつたちが通う私立天蓋高校があり、彼らが住む町でもあった。

 近くには標高五百メートルほどの山がそびえ立ち、川も流れている。自然豊かで農業が盛んだ。

 人口約五万人。それほど大きな町という印象はなく、町内で一番高い建物と言えば10階建てのマンションが二棟ほどあるだけだ。


 そして、この鬼有里町はある界隈では有名な場所でもある。

 行方不明の事件や猟奇的な殺人事件が多発し、怪音や異形の影、心霊現象など、原因不明の怪奇現象が数多く巻き起こる。町全体が心霊スポットとしてオカルト界隈では熱狂的な支持を集めていた。

 怪現象を求めて観光客が多く押し寄せるほどだ。


 彼らはこの町をこう呼んでいる。


 ―――鬼ある里、と。


 実際、霊脈の上は異形の鬼たちが棲みやすい場所でもあり、この町で起こる怪事件や怪奇現象はほぼ全て鬼の仕業である。それを知るのはごく一部の人間のみ。

 そんな人間の認識外で異形が蠢く町のスーパーから一人の少女が出てきた。高校の制服を着た可愛らしい少女だ。柊姫ひいらき桃仙ももせである。

 彼女は一仕事やり遂げたスッキリとした表情で、特売日という名の戦争を勝ち抜いて手に入れた戦利品をぶら下げている。


「ふぅ。私はやり遂げた!」


 マイバッグの中の食材を満足げに見下ろす。

 桃仙は一人っ子だった。両親同士の仲が最悪で別居状態。母親は家を出ていき、残った父親も仕事の忙しさから職場の近くのホテルに入り浸っている。家には滅多に帰ってこない。実質一人暮らし。

 いつ離婚してもおかしくない状況なのだが、両親は桃仙が成人するまで離婚はしないと決めているらしい。

 そんなわけで、桃仙は自分の食事を自分で用意しなければならなかった。

 学校終了直後に教室を飛び出し、特売日のスーパーという戦場を駆け抜け、達成感と疲労感を漂わせながら家路に就く。


「あっ、忘れてた。思いっきり一人になっちゃってるけど大丈夫かな?」


 ふと、桃仙は羅刹の警告を思い出した。一人になるな、死ぬぞ、と。

 彼が言うには、どうやら桃仙は鬼とかいう存在に狙われる力を持っているらしい。

 ファンタジーな力があることは知ったが、まだ桃仙は鬼を見たことが無い。だから実感があまりない。こうして警告を忘れてしまうほどに。


「一人になるなって言われたけど家では一人だし」


 桃仙は悩む。彼に連絡を取ってみようかと思う。

 しかし、スマートフォンを取り出して彼女は気付いた。羅刹の連絡先を知らない。

 どーしよ、と本格的に悩む。彼が頼るよう名前を出した鬼無里きなさ紅葉くれはの連絡先も実は知らない。聞いておけばよかったと後悔する。

 時刻は夕暮れ。太陽が地平線に沈んでいる。黄昏時。またの名を逢魔時。


 ―――昼と夜が混ざり合い、魔と出会う時間帯。


 彼女に黒い影が近づいていた。


阿曽媛あそひめ君のおまじないが効いているのかな? ここまで襲われることもなかったし、一回学校に戻ってみるのも良さそう。よし、戻ろう!」


 阿曽媛君か鬼無里さんがまだ残っていますように、とバッグを持ち直し、学校へ戻ることにする。

 来た道を引き返そうとして、桃仙はあることに気づいた。


「バッグおもっ!」


 そんなに大量に買った覚えはないのだが、腕や肩に重量がかかっていた。もう腕がパンパン。握力が弱くなる。

 長く持ちすぎて疲労が溜まったのかな、と呑気に思いつつ、持つ手を変えようとした時―――何かと目が合った。


「……えっ?」


 身長1メートルほどの人影。薄汚れた赤い肌。鋭い爪。ギザギザの歯。異様に大きい瞳。そして、額から伸びる角。

 人間に例えると3~4歳ほどの小柄な異形が、食材が入っているバッグを引っ張っていた。

 目が合った鬼が口を歪ませてニヤリと笑う。


『ケケッ!』


 人ではない耳障りな笑い声。桃仙の身体が恐怖で竦む。


「お……鬼!? これが……?」

『ケキャキャ!』


 けたたましく鳴いた鬼が強く引っ張った。鋭い爪が布製のバッグに引っかかり、やすやすと繊維を引き千切る。


「うわっ!?」


 均衡が崩れた反動で、桃仙は尻もちをついた。よく見れば鬼も倒れている。

 今のうちに逃げ出そうと思ったが、足がいうことを聞いてくれない。ガクガクと震えて立てない。恐怖で腰が抜けたのだ。

 子鬼は予想以上の速さで飛び起きると、ニヤニヤと笑いながらゆっくりと桃仙へと近づく。

 臭い。体臭が強烈だ。歯も黄色い。汚れた口からねっとりと唾液が垂れ落ちる。


「ひ、ひぃっ!? こ、来ないで! 来ないでよ!」

『ケキャキャ……巫女、ダ……』

「い、嫌ぁ!」

『オ前……嫁……鬼巫女……ダ』


 片言で喋る子鬼。桃仙はパニックに陥り、言葉を聞いていない。

 近づいてくる子鬼めがけて半狂乱で手に持っていた水着のバッグを叩きつけるが、あっさりと受け止められ、またもや引き千切られた。

 ニタァ~と愉快に笑う子鬼に、桃仙は恐怖が倍増した。


『鬼巫女ダ……ナ?』

「ひぃっ!?」


 ガタガタと震え、歯が噛み合わない。ポロポロと涙が零れ落ちる。

 本当に恐怖した時は声すらも上げられなくなる。まさに今の桃仙の状況だった。

 小さな手が服に掴みかかる。

 咄嗟に両手で跳ね飛ばしたのは奇跡としか言いようがなかった。


『グギャッ!?』


 不意打ちを受けた子鬼は吹き飛び、コロコロと転がって地面に倒れた。

 ビリッと嫌な音が聞こえたのはそれと同時のことだった。

 子鬼の爪が掠り、制服が破れたのだ。中に着ていたキャミソールまで破れて下着が露わになっている。

 あんな爪に触られたら、彼女の柔らかな肌などあっさりと切り裂かれていただろう。

 桃仙は地面を這って逃げようとする。すると、涙でぼやける視界に複数の人影が映った。


「た、助けて! 誰か助けてぇ!」


 必死に大声で助けを求め、人影に向かって這い進む。

 しかし、待ち受けていたのは更なる絶望だった。


『女……ダ』

『美味シソウ、ナ、人間……』

『眩シイ……見タコト、ナイ!』

『クキャキャ! キャキャッ!』

『キャハッ! 知ッテル! ソイツ、鬼嫁、ダッ!』

『鬼嫁? 鬼巫女? ドッチ? 美味シイ? 美味シイ、ノ?』

『持ッテ、イク……かしらノ、所ヘ……オコボレ、モラウ』


 家の玄関の物陰から、屋根の上から、塀の隙間から、電柱の後ろから、曲がり角から、死角となっているあらゆる場所から、小柄な姿が続々と出現する。総勢二十を超える。

 全員に共通しているのは、額に伸びる角とニヤニヤと浮かぶ下賤な笑み。そして、隠し切れない歓喜の欲望だった。

 ヒタヒタと裸足の足音を響かせ、ゆっくりと桃仙に歩み寄る。

 いつの間にか、完全に包囲されていた。


「いや……来ないで……」


 彼女は泣きながら小さな声で懇願する。でも、鬼は歩みを止めない。恐怖の表情に嗜虐心をくすぐられたのか、更に笑みを深める。

 ふるふると首を振って後退る桃仙。トンと何かが背中に触れる。

 悪臭が漂う。嫌な予感がして振り返ると、そこには子鬼の顔が―――


「いやぁああああああああああああ!」

『ウル……サイ』

「ひぐぅっ!?」


 小柄な腕からは想像できない強い力で桃仙は地面に押し倒された。子鬼たちが歓喜に盛り上がる。

 次々に押さえつけられ、ビリビリと衣服を破かれる。

 これは警告を忘却してしまった罰だ。羅刹があれほど警告してくれたのに。殺されるとあんなに真剣に教えてくれたのに……。

 死にたくない。犯されたくない。誰でもいい! 誰か! 助けて!


『ンッ? 鬼ノ……ニオイ?』


 何かに気づいた子鬼がクンクンと桃仙の体臭を嗅ぐ。周りの鬼たちもそれに倣ってクンクンと臭いを嗅ぎだした。


『本当、ダ……鬼ノ、ニオイ、ガ、スル……』

『コイツ、誰カ、ノ、獲物』

『コノ人間、鬼ノ……モノ』

『デモ、美味シソウ……喰ッチャウ?』

『食ベヨ! 食ベヨ!』

『待テ! かしらガ先! オレタチ、オコボレ、モラウ!』


 子鬼たちの言い争いが始まった。ここで食べようとする鬼。かしらとやらに献上しようとする鬼。桃仙から漂う他の鬼の匂いを嗅いで尻込みする鬼。

 一匹の子鬼が食欲を我慢できずに大きく口を開けた。ねっとりとした涎が桃仙の綺麗な肌に垂れ落ちる。

 桃仙は迫りくる痛みにキュッと目を瞑って備えた。

 柔らかな肉が喰い破られようとしたその時―――空から流星のような光が迸り、桃仙を押さえつけていた鬼が一瞬にして消滅した。


「―――やっと見つけた」


 上空から降ってきたその声に、桃仙は心の底から安堵した。

 屋根の上から飛び降りてきた人物が桃仙を庇って鬼の前に立ち塞がる。


「すまない。遅くなった」


 短く謝った彼は、片手に白と紅の色をした華麗な拳銃を握りしめ、全身に覇気を纏う黒髪紅眼の少年。

 彼の名を、桃仙は涙を流しながら呼んだ。


「阿曽媛君!」


 服をビリビリに破かれ、ほぼ裸体同然の桃仙に微笑みかけると、羅刹は鬼に向き直る。

 鬼を前にするその顔に笑みはなく、轟々と紅い瞳が燃えていた。

 放たれる圧倒的な威圧感に子鬼たちは怯え、後退る。


「お前ら、俺の女に手を出したこと、後悔しながら死ぬがいい」


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