第16話 稲妻になった日
机がたくさんある部屋の後ろに、あたしは立っている。
部屋の前方の席に男の子がいて、背中を向けている。黒く短い髪、肩が心なしか震えていた。
「お母さんへ」
男の子は原稿用紙を手にして、それを読み上げる。顔を見なくても、あたしに向けられている内容とわかった。
「普通の日は一緒に晩ご飯を食べて学校のことを話します。休日は、お弁当を持ってよく一緒にピクニックに行きます。サンドイッチがおいしかったです。先週はプラネタリウムに行って星を見ました。将来は、宇宙飛行士になりたいです」
ああ……、やめてよ……、あたしは両手で顔を覆う。
「お母さんは僕の誇りです。僕を産んでくれてありがとう」
拓也が振り返った。しかめ面で、あたしの反応を伺っている。
本当のことなんて何一つない。晩ご飯はあまり一緒に食べてないし、ピクニックにも行ったことないし、プラネタリウムなんて口にしたことすらないし、宇宙飛行士になりたいなんて知らなかった。
あたしが拓也の誇れる母親だったことなんて、一度もないのだ。
「誇りなんて言葉よく知ってるじゃん、さすがあたしの息子」
授業参観の帰り道、頭を撫でる。拓也はうるさそうに手ではらいのけた。
「そんなのとっくに習ったよ。それより嘘ついたこと怒らないの?」
怒る資格があたしにあるのかな。仕事にかまけて愛情が足りないと思われてるんじゃないだろうか。完璧にやろうとすればするほど、理想の母親像から遠のく。他のお母さんはどうやってるんだろう。全然わからない。
「理由があるんでしょ。もしかしていじめられてるとか」
「はあ? なんでそうなるんだよ。ちげーよ、もういい」
苛立った拓也は、足を早める。あたしも追いつこうと頑張る。
「そういうのがやなんだ。変な目で見られるのが。僕は普通だ。恥ずかしいことなんか何もない。母さんがいればそれでいい」
うちは母子家庭だ。最近だと珍しくないのかもしれないけど、偏見を持つ人もいる。あたしは別に構わないけど、拓也がそういう目に傷つけられるのは耐えられない。
「そっかー、母さんだけいればいいんだぁ」
それでも拓也の気持ちが聞けて嬉しい。後ろから抱きしめて、つむじに鼻を埋める。背も伸びて口も悪くなって暴れるけど、可愛いったらないあたしの息子。
「ち、ちが、みんな見てるだろ。やめろよ」
いつか拓也が嘘をつかないようになればいいな。そのためにもあたしは頑張るんだ。宇宙飛行士になるには良い大学に入れないと駄目だ。お金貯めないと。がむしゃらに働いて働いて、それなのに……、
「え、クビ、ですか」
世界中を、感染力の強い伝染病が襲った。日本も例外じゃなくて、あたしの働く会社も余波を受けた。派遣で営業事務の仕事をしていたが、契約を切られた。
失業保険があるうちに、次の仕事を探さないと家賃も払えなくなる。でもアルバイトもなかなか見つからない。テレビでは新しい働き方というのを紹介していた。パソコンで離れた人と意見をかわしている。あたしには遠い世界のように見えた。目減りする貯金、拓也も学校が休校になって家にいることが多い。衝突する時間が増えた。
ひとまずコンビニのアルバイトが決まり、空いた時間は、フードデリバリーサービスでお金を稼ぐことにした。スマホと自転車があれば、客の求めに応じて外食を運ぶことができる。
夜はあたしの妹に家にいてもらって、拓也の面倒を見てもらった。妹は大学生だけど、パソコンで授業を受けている。けど大部分はゲームばっかりしてて、皿洗いもしてない時は、頭に来る。
同じゲームばっかり飽きもせずよくやってる。グリードエンプレスという乙女ゲーム。あたしはやったことないけど、拓也も影響されて始めたらしい。男の子がやってて楽しいんだろうか。ゆっくり話す暇もないからよくわからない。
「おやすみ、拓也」
その日は何故か、いってきますではなく、おやすみと言って家を出た。おやすみはさよならに似ている。拓也の返事はなかった。
明かりの減った街を、自転車でひた走る。外に出られなくて困っている人がいる。あたしはそれを助けてる。
「あたしも結構困ってるんだけどな……」
普段口に出すことはない弱音。拓也の前はもちろん、家の外でも。社会は弱みを見せることをよしとしない。クビになったときは、困った時はお互い様でしょって言われた。家では強い母、やさしい母でいなさいと世間は言う。拓也もそれを望んでいる。でも本当は、そんなことできない。
いつの間にか、自転車に併走するように猫が走っていた。稲妻のようにギザギザした尻尾をしている。赤毛に黒い縞のある毛並みで、目は一心不乱に前だけを向いている。しばらく同じ進路を走った。すごいな、誰の目も気にせず、ここにいられるんだから。
下り坂で猫が少しだけ先を走るようになった。坂の終わりは交通量の多い道路に繋がっている。
「あ、危ないよ! 止まりなさい」
声をかけても猫は止まらない。むしろ意地になって、足を早めているように見える。
このまま止まらなかったらどうなるんだろう。あたしも、あの美しい稲妻のように生きられるのかな。
目を焼くような閃光と、激しいクラクション。あたしは母親をやめて稲妻になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます