第12話 セシリア・ホーリーズ

「にゃほほん……」


 と、ジロウは小さく悲しげに鳴きながら私の頬に鼻を押し付けてくる。


 また、鼻を密着させた状態で呼吸をするので、ぷしゅーっ、ぷしゅーっ、という可愛らしい鼻息が耳に届いている。


「ーーちょっと、分かったからもう止めて、ジロウ。頬がくすぐったいわ」


 ジロウの小さな身体を両手で掴んで引き剥がそうと試みるが、ジロウはそれを拒むように両前足を器用に使って私の肩をがっちりと掴んでいる。


 先ほどよりも力強く押し付けられる鼻、テンポの早くなった鼻呼吸、私の肩をがっちりと掴む小さく震えている両前足。それら全てから絶対に離れまいとするジロウの強い想いが伺えた。


 そもそも、鼻を頬に押し付けるというジロウのこの行為自体はどうやら安心感を求めるがゆえの行動らしい。


 それによって匂いを間近で感じられるのか、あるいは狭いところに身を置いて安心感を得ているのかは私には分からないけれど。


 とにかく、ジロウは我が家に来た当初から何かの理由で気持ちが落ち着かないと、決まって私の頬に鼻を押し付ける。


 そして今現在はなぜそうしているのかと言うと、お気に入りのおもちゃを屋敷に忘れてしまったからだ。


 それにより非常に落ち着かない気持ちでいるらしい。


 また余談だが、鼻を押し付けるのは誰の頬でも良いという訳ではなく、私の頬でなければいけないというジロウなりの強い拘りがあるらしい。


 ちなみに右頬と左頬に関してはどちらでも別に問題はないようで、今がそうであるように右頬の方が若干多く使用されているように感じる。


「もうっ! 本当にくすぐったいんだからね!」


 言いながら私はジロウの身体をくすぐってみる。


「ーーおほっ⁉︎ ほっほっほっほっ!」


 よほどくすぐったいのか、ジロウはやや興奮した様子で鼻息を荒くした。


「もしリチャード殿下にばったり出会しちゃったとしても、威嚇しちゃダメだからね?」


「ぷしゅっ!」


「悪口言われても怒っちゃダメだからね?」


「ぷしゅっ!」


 ジロウは私の問い掛けに答えるように鼻息を鳴らした。


「うわぁ……見てジロウ。王都の空、すっごく天気が悪いわ。真っ黒よ」


 改めて見上げた王都の空は未だかつて見た事もないほどの黒い雲が渦を巻いていた。まるで王都の中心部から立ち昇っているように、あまりにも局所的に。不自然に。


「ぷしゅっ⁉︎」


「雨、降らなきゃ良いんだけど……」


「ぷしゅっ⁉︎ ぷしゅっ⁉︎ ぷしゅっ⁉︎」


 雨に濡れるのを極端に嫌がるジロウが更に興奮し、鼻息を荒くする。


「雨が降って来たら私の頬から離れて服の中に隠れるのよ?」


「…………ぷす」


 少しの間を取ってジロウは小さく鼻を鳴らした。どうやら私の提案を飲んでくれたようだ。やはり背に腹は変えられないのだろう。


 私は不機嫌そうな曇天を見上げながら、少し前に潜った王都への門を再び通過した。


 すると妙なことに、そこには笑顔が素敵なさっきの門番さんはいなかった。


 天気が悪くなってきたからきっとどこかに避難でもしたんだろう、と勝手に予想を立てて私は足早に屋敷へと歩を進める。


 門番さんに戻ってきた理由を何と説明しようか色々と考えていたけれど、どうやら無駄になったらしい。


 でも良かった。忘れ物をしただなんて格好悪いから。


 王都の郊外とはいえ日頃は多くの人々が行き交う場所なのに、今日という日は全く人影が見えない。


 きっと天気が悪いからみんな家の中でじっとしているんだろうな。そういった意味では今日は天気が悪くて良かったともいえる。下手に人に会わずに済むから。


 誰にも見られず、誰にも知られず密かに国を後にしたい。


 ずいぶん近くに見えてきた華やかな王都の街並みは通り雨にやられたのかびっしょりと濡れていて、道の至るところに大きな水たまりがいくつも出来ていた。


「ふぉぉ……」


 ヒゲで湿気を感じ取ったのか、ジロウが弱々しい鳴き声を上げ小さな身体をふるると震わせた。


 身体を忙しなくもぞもぞと動かしているので、今すぐ頬を離れ身を隠すべきかどうか決めかねているらしい。


「あああぁぁぁ……」


 王都の街の入り口に辿り着いた途端、そんな声が遠くの方から聞こえた気がした。若い男性だろうか?


 あと、つい先ほどから何の音かは分からないけれど、あまりに騒々しい音が王都のあちこちから聞こえてくる。


 そして、


「きゃっ⁉︎」


 遠くの方でまた落雷があったらしい。轟々と唸る雷鳴が肌を震わせた。


「ぷしゅっ! ぷしゅっ! ぷしゅっ! ぷしゅっ! ぷしゅっ!」


 ジロウの鼻息は極限に激しくなる。


 怖いのなら服の中に入っていればいいのに、と私は思わざるを得ない。


 私は大きく深呼吸をひとつして、ジロウが振り落とされないように身体をギュッと抱きしめ屋敷に向かって走り出した。


 道中、幸いなことに私とジロウは雨に打たれる事もなく無事に屋敷へと辿り着いた。


 中に入ると屋敷の中は静まり返っていた。テーブルセットにシャンデリア、いつも使っていた豪華すぎる調度品は当たり前にそこにあるのに何だか屋敷の中が空っぽに見えた。屋敷を出てまだ一時間も経っていないのに、屋敷の中はまるで他人の家のようでいてとても居心地が悪かった。


 だから私はなるべく視線を伏せて住み慣れた屋敷の風景を見ないようにしながら、二階のかつて私の部屋だった場所へと向かった。


「おほほー!」


 お気に入りのおもちゃをしっかりと口で咥え、ジロウはいつもの可愛らしい声で鳴く。


 ようやく解放された右頬を撫でつつ屋敷から出ると、暖かな日差しが私達を出迎えてくれた。


 王都の上空に渦を巻いていたあのぶ厚い不機嫌そうな雨雲はいつの間にかすっかりと取り払われ、今はうっとりするほどの洗いたての青空が視界いっぱいに広がっていた。


 道にいくつも出来た水たまりには、お日様の光が反射してきらきらと輝いている。


「急がなきゃっ」


 心洗われる見事な空模様を見上げていた私だったが、ハッと我に帰り王都を後にするため、その一歩を踏み出した。


 私は国を追われた偽物の聖女なのだ。


 ここにいちゃ、いけないんだ。


「あっ……」


 と、数歩分歩いたところで王都の住民の方と期せずして出会してしまった。


 その男性は全身ずぶ濡れでいて怪我をしているのか、自身の肩に手を当てている。また、遠目に見ても分かるほど大きく息を切らしており私の事をじっと見ている。


 そんな男性の後ろから同じような姿をした若い女性二名が現れた。片方の女性は血で顔半分が赤く染まっていて、もう一人の女性に肩を抱かれ立っているのがやっとだといった風だった。


 気が付けば屋敷の周りにはそういった怪我をした人々が多く集まりだしていて、私とジロウはそんな人々にすっかりと取り囲まれてしまっていた。


「大丈夫ですかっ⁉︎ いったい何がーーーー」


 私はたまたま近くにいたお婆さんにそう問い掛け、怪我の具合を確かめた。


「あぁ……あぁ……もうダメかと思った……遂にお迎えが来てしまったのだと……あぁ……」


 言いながら、お婆さんは私の両手を強く握り大粒の涙を溢した。


 

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