第35話 映画鑑賞

 氷川の突然の電話から二週間余り経って、久しぶりに彼女と会える日が来た。


 何度か連絡を取り合った末、都内の映画館にて午後から上映される話題の映画を観ることになった。映画のジャンルはアクション、チケットの料金は割り勘、なおかつ現地集合というデート感のまるでないプランとなったが、そもそもデートではないので問題はない。まあ、氷川の場合、デートだとしても同じような条件を出してきそうだが。


 とにかく、約束は取り付けることができた。


 映画館に直接集合ということになったので、俺は早めに家を出て電車に乗り込み、正午前に駅近のファストフード店で一人軽めの昼食をとった。


 その後、時間を確認しながら俺が向かった先は映画館ではなく、近くにあるCDショップだった。


 店内に足を踏み入れると、ずらっと並べられた数え切れないほどのCDが来店を出迎えてくれた。目立つ位置には新作のアルバムや売出し中のアーティストなどの売り場が特別に設けられていて、ライブ映像が流されていたり手作りのPOP広告が添えられたりしている。CDの中には視聴可能なものもいくつかあり、同い年くらいの若いカップルがあれこれ感想を言いながら楽しそうに聴いていた。


 商品の配置方法を頭に入れながら、俺はある一枚のCDを探した。アーティスト名と曲のタイトルはわかっていたのですぐに見つかると思っていたが、意外と見つけるのに時間がかかってしまった。


 そのCDは店内の目立たない場所にひっそりと置かれていた。


 今からおよそ、六、七年前のヒットソング。


 林間学校の夜、キャンプファイヤーのときに俺たちが大声で叫ぶように歌った曲だ。


 当時はおそらくこんな場所じゃなくて、もっと人目につくところにあったのだろう。けれども、今は大量のCDの中に完全に埋もれ、もはやなくても気づかれないくらいの存在になっていた。


 俺はようやく見つけたその一枚を大事に手に取り、レジのところへ持っていった。


 店員はそのCDを見て特に反応することもなく淡々と処理をした。お金を払い、袋に入れてもらって、店を出てからその袋ごと丁寧に鞄にしまった。


 用が済んだところで、俺はぼちぼち映画館へ向かった。


 待ち合わせ場所を映画館のどこにするかは細かく決めていなかったが、いるとしたらだいたい建物の入口かチケット売り場のところだろうと到着後辺りを見回しながら歩いていたら、チケット売り場の近くで本を読みながら立っている氷川を発見した。


 俺は壁際に一人で立つ彼女のもとへ足早に歩み寄った。


「悪い。先に来てたか」


「別に平気。退屈じゃなかったし」


 氷川は読んでいた本を閉じ、目で売り場のほうを示した。


「座席、まだ余裕あるみたい」


 つられて視線をそちらにやると、スタッフがいるカウンターの上部にはモニターがあり、上映する映画ごとに空き状況をチェックできるようになっていた。氷川の言う通り、俺たちが狙っていた映画はまだ満席にはならなそうだった。


「ああ、本当だ。大丈夫そうだな。そういえば予約とかもできたんだよな。すっかり忘れてた」


「いいんじゃない、買えれば。さっさと並びましょう」


 氷川はそんなことはお構いなしとばかりに、すぐさま売り場に向かって歩き出した。俺は完全に主導権を握られた形で彼女の後を追った。


 売り場の列はそれほど混んでいなかった。


 少し待っていたらすぐに自分たちの番が来て、氷川が観たい映画などを告げた。学生料金は一般よりも何百円か安い。俺たちが学生証を提示すると、スタッフは簡単にチェックし、チケットを二枚発券してくれた。


「とりあえずこれで映画は観れるな。あとはなんか食べ物でも買っておくか?」


 チケット売り場を離れ、フードやドリンクの売店を見つけたので尋ねると、氷川は興味なさげに首を振った。


「わたしは別にいい。石狩が食べたいなら自分の分だけ買ってきて」


 チケットさえゲットできればもうそれでいいというように、先ほどまで俺をリードしていた氷川は早々と人の邪魔にならない壁際に行き、再び本を広げて読み始めてしまった。


 しかたなく、俺は一人で売店に行った。


 けれどもやはり自分の分だけ買うのは気が引けたので、迷いながらも二人分の飲み物と味の違う二種類のポップコーンを注文した。


 俺が戻ると氷川はこちらには目もくれず、熱心に開いた本を読みふけっていた。


「その本、難しいだろ? 読んでて面白いか?」


 声をかけたところで氷川はようやく気がつき、俺が購入したドリンクとポップコーンを見て本をしまった。代わりに財布を取り出していた。


「それいくら?」


「いや、払わなくていい。俺が勝手に買ってきただけだし」


 断ってはみたが、氷川も譲る気がないようなので商品の値段を告げた。氷川はすぐに計算し、きっちり自分が払うべき分のお金を差し出してきた。


「かえって悪かったな」


 俺が申し訳ない気持ちになりながらお金を受け取ると、氷川は何事もなかったかのようにドリンクとキャラメル味のポップコーンを手に取りながら言った。


「難しいかもしれない」


 それが先ほどの俺の問いに対する答えであると気づくまで、少しばかり時間を要した。


「ああ、本の話か。そうだろうな。数学科の学生だってもう少し噛み砕いて書かれたやつ使うぞ」


 氷川が読んでいたのは数学の参考書だった。俺も前にたまたま同じ本をちらっと立ち読みしたことがあったが、書いてあることが全然頭に入ってこなかったのでやめた。どこかのお偉い大学教授に言わせてみれば「これくらい読み解けないようじゃ何もできない」そうだが。


「別に無理して読まなくてもいいだろ」


 俺がそう呟くと、氷川はこちらを一瞥した。


「でも、面白い。わたしが普段読んでいる法律の本よりずっと」


 そう言われると、俺には返す言葉がない。黙って受け流していると、氷川は勝手に語り始めた。


「最近勉強していて思うけれど、法律ってあくまで言語なの。言い回しを考えてできるだけ欠陥がないように作るんだけど、言葉は多義的だからどうしても不明瞭なところがある。それに比べて数学は法律のような曖昧さがないから、論理的な観点からしてもとても美しく思う」


「数学だって言語だろ。同じだよ」


「違うと思うけど」


「いや、違わない」


 苛立ってつい口を挟んでしまった。


 ここで氷川とこんな言い争いをしている場合じゃない。本来の目的を考えて次の展開を模索するが、肝心の彼女のほうが未翔の話をしても耳を貸してくれるような雰囲気ではなくなってしまった。


 今は一旦置いといて、あとで訊くとするか。


 ちょうど会話が途切れたところで入場案内のアナウンスが入った。チケットをちぎる係の人がスタンバイし、座席への移動が可能となった。


 俺たちは言葉少なに、映画鑑賞へと向かった。

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