第10話 林間学校一日目朝(バス乗車〜キャンプ場到着)

 一日目の朝は快晴だった。


 雨天決行の林間学校ではあったが、雨が降ってしまったら予定していたイベントの多くは変更せざるを得ない。俺はテレビの天気予報を何日も前から食い入るように見つめ、どうか晴れますようにと何度も祈っていた。


 そんな俺の祈りの力がどの程度働いたかは不明だが、当日はもうびっくりするくらい晴れていた。晴れすぎだろ、と空に突っ込みを入れたほどだ。


 集合場所として定められていた学校の校庭には、同学年の生徒たちが大きな荷物を背負ってわらわらと集まってきていた。


 いつもとは違う見慣れない私服姿だけど、いつもと変わらない他愛もない会話で盛り上がる。でもやっぱりいつもとは違う空気をそれぞれ肌で感じながら、点呼の時間がやってくるのを待っていた。


 列は各クラス班ごとに作られていて、先頭は班長が務めていた。俺たちの班の班長は会澤で、彼はもういつも以上にハイテンションだった。


「ひゃっほーい、いやぁ、きてしまったなぁ」


 青空の下、高い声が響く。言葉の意味を翻訳しようとするとよくわからないのに、「ワクワク」という感情はどんな台詞よりも伝わってきた。


 俺はそのすぐ後ろでしおりを捲っていた。まだ色褪せることもなければヨレヨレもしていないしおりの持ち物チェックリストのページを開く。その時間に忘れ物に気づいたって家に取りに戻るのはほぼ不可能だったが、そわそわした気持ちを落ち着かせるのにはちょうどいい作業だった。


 そんな様子を見て、彼女が尋ねてきた。


「翔くん、何か忘れ物?」


 無邪気な声に振り向くと――新島未翔がいた。淡い水色のチュニックを着ていた。八重歯の見える笑顔の中にちょっとだけ心配する色が窺えた。


「いや、確認してただけだ。特に問題はない」


 答えながらしおりを閉じた。せっかくの楽しい林間学校なのに、初っ端から不安がっていてもしょうがないと思った。


「それならよかった。一度きりの大切な林間学校で忘れ物なんてしたら大変だからね。『あぁ、なんであのとき俺は替えのパンツを忘れたんだ』って後悔しちゃうよ」


「なぜパンツなんだ……」


 と疑問を口にしつつも、俺は一応鞄の中身を確認した。ちゃんと下着類のところにトランクスが入っていた。ブリーフではない。


「亜香里ちゃんも咲ちゃんも忘れ物ない? 女子はチェックリストにない持ち物もあるからね」


 未翔の陽気な問いかけに、笹本は恥ずかしそうに「み、未翔……」と呟いて顔を赤らめていた。氷川は特に興味もなさそうに平然としていた。当時の俺は彼女たちのその言葉や反応の意味もよくわかっていなかったが、ふわっとした理解で勝手に納得していた。


 天真爛漫で人懐っこい未翔、黒髪に眼鏡をかけた真面目な風貌の笹本、容姿も性格も大人びていてぼっち気質の氷川。


 女子三人は三者三様だったが、決して悪い組み合わせではなかったと思う。これはそのときの俺が感じたことでもあって、今現在でもその認識は変わらない。


「穂高くんは忘れ物大丈夫?」


 未翔に呼びかけられた会澤は、くるっとターンして自信ありげにニッと笑った。


「へいきへいきっ。班長が忘れ物なんてしちゃまずいでしょ」


 一番心配な会澤がそう言ったので、俺は念のために訊いてみた。


「会澤は料理コンテストの食材、玉ねぎ担当だっけ?」


「おう、もうばっちりだ」


「塩と胡椒も会澤が担当だったよな?」


「えっ? そ、そうだっけ?」


「嘘だろおい」


 案の定、おっちょこちょいな会澤は忘れ物をしていた。


「ドントウォーリーだよ、穂高くん。塩と胡椒はどの班もだいたい持ってると思うし、全部使っちゃうようなものじゃないから貸してもらえるはず」


「あぁ、やっぱダメだわ俺」


 未翔はすぐに優しく気遣ったが、会澤は想像以上にへこんでいた。


 出だしからこれではしょうがないと、俺も慰めの言葉をかけた。


「会澤には班長としての仕事が別にあるわけだし、そこまで気が回らなかったとしてもしょうがない。塩と胡椒については未翔の言う通り、どこかの班から借りればいいだろ」


 実際問題、林間学校は準備の期間がとても長くて大変だった。


 当日までに決めなければならないこと、予め用意しておくべきものや頭に入れておくべき知識。中学生に与えられる裁量権としては結構複雑で、みんなそれぞれ必死になって自分のやるべきことや取るべき行動を理解していった。


 その中でも、班長はとりわけ忙しい役職だった。


 林間学校に向けて学年全体が本格的に動き出す前から、班長だけが集まる会議みたいなのが何度も開かれていて、そのたびに会澤が「あー、今日会議だわぁ」と愚痴っていたのを覚えている。その割に楽しげではあったが。


 ちなみに、忘れ物に気がついて落ち込んでいた会澤はどうしたかというと、俺たちの励ましを受けてこのままではいけないと思ったのか、急に元気よく「落ち込んでる場合じゃねぇ!」とやる気を漲らせ、さらに「俺たちの林間学校はそんな調味料なんかじゃなくて俺たち自身で味付けするもんだよな!」と訳のわからないことを叫んでいた。


 今振り返ってみれば顔から火が出そうになるほど恥ずかしいリアルな中二病発言だが、当時の俺は純粋に楽しく受け入れてしまった。中二の男子なんてそんなもんだった。


 そして、その様子を見守っていた未翔も一緒に「そうだ!」と盛り上がってくれた。もしかしたら、こういうところが彼女のモテる理由だったのかもしれない。


 その後、少し経って点呼の時間が始まった。各班の班長が班のメンバー全員の集合を確認し、担任の先生に告げる。それらがすべて終わると、学年主任からバスへの移動の指示があった。


 大型バスは学校の近くの駐車場に停まっていた。そこから各クラス一台ずつの計五台で目的地まで向かうという計画だった。交通手段はバスのみで、最後までずっとそれに乗っていればよかった。


 俺たちは一組だったので、先頭を走ることになっていた。そのため、バスへ乗り込むのも一番最初だった。


 大型バスのタイヤとタイヤの間のスペースはトランクルームとなっていて、大きな荷物は乗車前にそこへ積み込む仕組みになっていた。バスの前で待ち構えた運転手さんに荷物を手渡すと、次から次へと手際良く収納されていった。


 バスの中まで来ると、生徒たちはしおりを開き、座席表で自分の席の位置を確認しながらそれぞれ腰を下ろした。


 前もって行われたバスの座席決めは、女子を中心にかなり揉めた記憶がある。たかが二時間ちょっとの間、往復にしても五時間程度の時間なのだから別にどうでもいいと思う人もいるだろうが、そういう考えの人は少数で、誰の隣りに座るかというのは特に中学生くらいの年代の子供にとっては大問題なのである。


 そんなただでさえ決まらないバスの座席の中で、生徒たちが最も座りたくない席が先生の隣だった。人数の関係上、誰か一人そこに座らなければならなかった。


 その先生の隣の席を率先して受け入れたのは……。


 自分の席まで辿り着いた俺は前方に目を向けていた。担任の上田うえだ先生の横には氷川咲が座っていた。


 上田先生は体育の教員で、ノリが良い性格なので生徒からの人気も高かった。どのくらいノリが良いかというと、生意気な生徒が彼のツルツルの頭をからかって「スキンヘッド上田!」と呼び掛けても「いかにも!」と眩しい笑顔で返すくらいノリが良かった。ちなみに上田先生は成人式にも来ていて、二十歳になった教え子たちと相変わらず同じやり取りをしているのを見た。


 ただ、いくら親しみやすい先生とはいっても、バスで隣に何時間も座るのは避けたいと思うのが当然だ。中学生にとって一生の思い出に残るかもしれない林間学校なのだから、誰だって仲の良い友達とお喋りをして過ごしたい。


 だから、そんな一般的な思考にとらわれない氷川のことは当時から本当に大人びていると思ったし、二十歳を超えて世間的に『大人』と呼ばれる年になっても、あらゆるところで相変わらずグループ分けみたいなことに対してひと悶着あることを考えれば、世の中の『大人』は未だに中学生の彼女に精神的成熟度が追いついていない者ばかりなのではないかと思う。


 それはそうと、上田先生は担任であるだけでなく剣道部の顧問でもあったので、氷川にしてみれば剣道の先生というイメージもあったかもしれない。バスに並んで座る姿は、師匠と弟子、剣の達人と女剣士という構図にも見えた。


 一方、俺の席は補助席を挟んで右側の、やや後ろ寄りの窓際の席だった。隣は会澤だった。座席決めのときも俺たちは特に深く考えず、「隣でいいか?」「いいんじゃん」という軽いやり取りで決めてしまった。


 班とバスの座席は別で考えたい、という意見は特に女子の間で広がっていて、班は一緒になれなかったからバスは一緒に座ろうみたいな約束が至る所で交わされていたようだ。俺たちの班の女子たちも、氷川は先生の隣、笹本は大人しめの女子の横、未翔はクラスの目立つメンバーたちの中と完全に分かれていた。


 すべての準備が終わると上田先生からの最終確認があり、それが済むと先生は運転手さんと一言二言言葉を交わした。


 いよいよバスが走り出す。エンジン音とともにゆっくりと車体が動き始めると、車内には歓喜の声が湧き上がった。会澤も前の座席の手すりに捕まりながら、「うぉー」だか「ひょー」だかそんなような声を上げていた。


 だが、この瞬間の俺は不安で心拍数が上がり、それどころではなかった。


 昔からそうなのだ。どこかへ出かけるときの車の中あるいは電車の中で、突如言いようのない不安感に襲われる。もう家には戻れない、何か忘れていても取り返しがつかないといった事実がそうさせるのかもしれない。校庭で荷物をチェックしていたのも、この現象を回避したいという願いがあったからなのだが、事前の確認は残念ながら効果を示さなかった。


 ただそんな不安も、そのうちにいつも自然と消えていく。バスの揺れに合わせるようにぐらぐらと跳ねていた心配性な心もやがて適応して、何を気にしていたのか忘れてしまうくらいに落ち着いていった。


 バスが走行し始めてしばらくすると、レク係が企画した伝言ゲームが行われた。列の先頭の人に伝えられたお題が一番後ろの人までどれだけ正確に伝えられるかを競うゲームだが、これが案外難しくて伝言を繰り返すうちに途中で全然別の言葉に変わってしまったりする。


 ゲーム自体は盛り上がったが、一つ解せなかったのは、お題の中に『錐体の体積=底面積×高さ×二分の一』というのがあったことだ。正しくは二分の一ではなく三分の一なので、間違って伝わってきたのだろうと俺は正しい公式のほうを後ろに伝えたのだが、それで不正解扱いされた。いや、公式のほうを変えちゃまずいだろと訴えたかったが、伝言をミスったのが自分だとバレるし、徒労に終わりそうなのでやめておいた。


 ちなみに、氷川の列も同様に不正解だった。未だに確認はしてないが、俺は氷川が正しい公式に言い直したのではないかと踏んでいる。まあ、だとしたら氷川の列の先頭は氷川なので、一番最初の時点ですでにお題とは違う言葉を伝えたことになるが……。


 他にもいろいろと突っ込みどころがあるレクだったが、もう何をしても盛り上がるような雰囲気がバスの中にあって、単純なゲームも他愛のないお喋りも、時が過ぎるのを忘れてしまうくらい楽しかった。


 目的地までの走行時間はおよそ二時間半、途中トイレ休憩を挟んで三時間くらいの行程だったけれど、長いとは一度も感じないまま、林間学校の舞台となるキャンプ場にバスが到着した。

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