『ニル』

 重なり合う白と黒、赤、青、黄色と、ドギツいピンクやグリーンのマーブル。光というものはなく、音というものもなく。

 極彩色の闇の中、肉体の裏表が逆になったような『すーすーする』感じがした。


 何がなんだかわからないまま、一瞬だったような。永遠だったような。

 じゃり、と、足の下で小石が鳴って、ようやく幸一は幸一として、ぼんやりと目を開けた。


 幸一の記憶が、その白い砂利が敷き詰められた庭園の名前を言い当てる。


【白洲 (しらす)】

 ①邸宅の庭に白砂を敷いた場所、あるいは白砂を敷いた庭園

 ②お白洲 - 江戸時代の奉行所で象徴的な場所。


(お白洲裁き、じいちゃんと時代劇の再放送で見たな。ひかえおろう! お奉行様の前ぞ! ってやつ)


 湿った土の匂いがする。空は夕日だ。

 陽の落ちかけた日本庭園は、あらゆるものの陰影が、くっきりと地面に伸びている。

 あたりには、点在する苔むした岩に、小さな小川とミニチュアの太鼓橋。遠くに飛び石でできた小路こみちと、赤い鳥居が見えた。

 鳥居の向こうは黒々とした森と、屋根らしきものの輪郭がある。

 鳥居の向こうからは、じゃりん、じゃりん、と鈴が鳴る音がしていた。


 距離感が狂っていたのか、そう歩いてもいないはずなのに、鳥居の前に立つころには、月のない夜が空のほとんどを覆っていた。

 ――――じゃりん

 ――――しゃりん

 ――――ちりん

 境内の石畳に足を踏み入れると、鈴の音がはかなげに遠ざかって消えていく。

 社の中にだけ、だいだいの明かりが見えて、幸一は格子の中を覗き込むようにして近づいていった。

 石段を上がり、格子に手を伸ばす。戸に手がかかるというところで、耳元でじゃりん!と大きな音がした。

「うッ」

 思わず頭を守るように小さくなる。身を縮めたところを、横殴りの風が吹き飛ばした。

 40㎏ちょっとの幸一の身体が、石畳を数メートル転がって止まる。驚いて顔を上げると、もっと驚くことに幸一は鳥居の外、白洲の上にいた。


「……えっ」

「えっ、じゃないよ、キミ。畏れ知らずだなぁ」


 笑いを含んだ高い声がする。鳥居を挟んで、幸一と同じくらいの子供が立っている。月明かりのない夜に、子供の顔かたちはよくわからなかった。

 髪が腰ほども長いので、女の子だろうか、と一瞬思ったが、幸一の隣に歩み寄る仕草で男の子だと気づく。白い着物からは、木の薫りがした。


 伸ばされる手に、幸一は固まったまま成す術なかった。

 額の髪をかきわける感触がある。目の前に、少年の白い着物のたもとが揺れていた。


「あの……」

「黙って。……ああ、やっぱり。きみ、少し形が違うみたいだね。ちょうどいいから、この前仕入れたやつをきみに使おうかな」

「えっと……」

「言ったことも分からないのか。まったくもって人間は愚かだな。とくにきみくらいなんて赤子とそう変わらないから、痛い目にあわないと分からないのだろうね」

「……ごめんなさい。でも」

「なに」

「つ、爪が、刺さって、すごく痛くて、や、やめてほしいです……な、な、なにをして」

「種を植えてるのさ。きみ、変異種って知ってるか? 突然変異の『変異』だ」

「い、遺伝子とか、せ、染色体に、起きる」

「それそれ。わたしはねぇ、病を司る神様なんだ。大枠でいうと、豊穣の神様なんだけれどね。きみ、気付いたかい? ここに敷き詰められてる石は、全部わたしの鼠たちの骨なんだ」

 今度こそ幸一は引き攣るような悲鳴を上げた。改めてちらりと見たそれが、確かに小動物の頭蓋骨だったからと、額から今度こそ血が流れる感触がしたから。


「うるさいねえ」

『神様』がそう言った瞬間、いろんな感覚が体から遠くなった。腰から下などは地面の感触も、重力も感じていない。寝起きのように頭が揺れている感じがする。

 そんな中で耳だけは、鋭敏に音を拾った。『神様』の声は、着物の衣擦れと自分の呼吸、そして心音をバックに、オーケストラの生演奏みたいに大きく聞こえる。


 さらさら

 ドクドク

 ハァハァ

 ぐちゅぐちゅ


「さいきん、下のものが面白いものを仕入れてきたんだよ。とある病のサンプルだったんだけれどね、面白いから、それに手を入れて培養してみたんだ。そうしたら面白そうな変異をしてね。その病は、感染すると人を仲良くしたり、体を守ったりする作用があるものなんだけれど、わたしが変異させたそれは、どうやらもっと違う作用があるらしい。

 わたしはこういったっものを集めるのが特技でね、趣味なんだ。子供をさらうのも好きでね、集めた人間に、そうして出来た『種』を植えてみる。

 その人の才能だとか、適正だとかを見てね、『種』を育てるんだ。そうすると、思わぬ『実』をつけて面白い。

 これから大きな事業が始まるんだ。きみに植えた『種』はね、きみが『あちら』の土に根付かせるんだよ。

 きみの中の種がどう根付くかどうかで、事業の方向性が大きく変わる。

 ……震えなくてもいい。きみにとっては、あっという間の出来事だからね。……ほら、もう終わった」


 木の薫りが離れていく。

 雲の中から、いないと思っていた細い月が、ようやく顔を出した。


 『神様』は赤毛だった。幸一を置き去りに去ろうとする、微笑みが浮かぶ頬には、空と同じ三日月型の、大きな痣が浮かんでいた。



 ●



 どすん、と土の上に放り出された。

 見上げた空は曇っているものの明るく、昼間の色をしている。

 薄いTシャツだけの背中が冷たく湿る感触がして、空から落ちてくるものが雪だと気が付いた。


 幸一が、どうやら自分は真冬の畑の上に転がされているらしいと気が付くのに、そうはかからなかった。


 体が動かない。寒さで体が震えているのに、関節や筋肉がまったく稼働しない。

 震えが恐怖のものに変わるのに、そうはかからなかった。

(……僕、頭でも打った? それとも脊椎? )

 助けを呼ぼうにも、口から出るのは吐息で、鼻から出るのは鼻水だ。

 涙で滲む目で雪空を睨みながら、その呼吸すら細くなっていくことに、幸一は震えた。


 閉じかけた目蓋の裏に、極彩色の闇がまたチラついている。


(……あ、息が、止ま――――)


 その時だ。

 どしゃんと重いものが落ちる音がする。

「あ、イテッ」

(————人の声! )


「……ここ、どこだ? 」


 幸いにも、その人は視界の範囲に立っていた。畑のふちにあるあぜ道で、途方に暮れたように首を回している。


「どこだよう、ここ……」

 泣きそうな声で彼は言って、とぼとぼと歩きはじめた。

 背中が遠ざかっていく。視界が消えていく。落胆と雪で冷たくなっていく。


(ああ、きっと、雪が降ってるから、きっと土で汚れてしまったから、僕に気付かなかったんだ。ああ、しまったなぁ……もっと明るい色の服を着てこれば良かったのかも。しまったなぁ……)


 怒りよりも悲しみが勝ち、悲しみよりも虚しさが買った。

 そうして佐藤幸一は、最後に目を閉じた。


 一瞬だった。何か熱いものが、体の中心を駆け抜けたような気がする。

 極彩色の夢は見なかった。


 次の瞬間、幸一は、息苦しさで目が覚めた。

 頭がガンガンする。ブハッと息を吸って、自分が出した大きな声に驚いた。

 ぼんやりとした頭と、まだ羊水に浸かっている鼓膜の向こうで、歓声の中から、自分の名前らしきものを知る。



 ――――……ニル。

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